鮫島尚信
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鮫島 尚信(さめじま なおのぶ、弘化2年(1845年) - 明治13年(1880年)12月4日)は、薩摩藩出身の明治時代の外交官。通称誠蔵。
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[編集] 経歴
[編集] 薩摩藩留学生
弘化2年(1845年)、鹿児島城下の山之口馬場に薩摩藩医の子として生まれた。文久元年(1861年)にオランダ医学研究生として長崎に遊学し、慶応元年(1865年)には薩摩藩留学生としてイギリスに留学した[1]。ロンドン大学では文学を学ぶ。慶応3年(1867年)、ロンドン万国博覧会でアメリカの宗教家トマス・レイク・ハリスに出会い同行して渡米した。
[編集] 新政府に出仕
慶応4年(1868年)に帰国して新政府に出仕、徴士・外国官権判事となり、明治天皇の車駕東幸に随行した[2]。翌明治2年(1869年)には東京府判事、東京府権大参事となった。
[編集] 日本の外交官一号
このころ外務省では外国へ派遣する常駐の使節(在外使臣)についての検討を始めた。明治3年(1870年)2月、外務省が太政官に公使派遣を建議、同年6月太政官が人選、規則について調べるよう命じたのを受け外務省が人選に着手した。同年9月13日に外務大丞[3]鮫島尚信と外務権少丞塩田三郎[4]の2名を、イギリスを中心にヨーロッパに派遣することに決定、鮫島の肩書きは「少弁務使」となった。同年閏10月3日、外務省はイギリス・フランス・ドイツ3国の公使に対し、鮫島少弁務使はヨーロッパにおける代理公使に相当し、国際法上「第4等のジプロマチクエゼント(Diplomatic Agent)」である旨を通達した[5]。こうしてイギリス・フランス・ドイツ3ヶ国兼任の外交代表として、鮫島のヨーロッパ派遣が決まった。出発にあたり、鮫島は横浜で独仏の公使に直接会っている。駐日ドイツ公使ブラントには異存はなかったが、駐日フランス公使ウトレーは、事前の相談がなかったことに多少の不満の色を表したという。駐日イギリス公使ハリー・パークスにはこのとき会えず、あとで聞いたパークスは激怒して、鮫島の赴任を最後まで認めなかったという。明治4年(1871年)2月、ロンドンに着いた鮫島はグラッドストン内閣の外相アール・グランヴィル伯爵に信任状[6]を提出するが、イギリス外務省はパークスの意見[7]もあって結局鮫島を正式な外交代表とは認めなかった。鮫島はロンドンを引き払ってパリを経て4月にベルリンに着任したが、成立したばかりのドイツ帝国は、イギリスとは異なり、鮫島を外交代表として受け入れた。パリ・コミューン終結後の1871年6月、鮫島はパリに戻り、オテル・シャトランに滞在して公館開設の準備にたずさわる。
[編集] パリの鮫島
1871年8月、鮫島は日本の在外公館としてふさわしい建物をラ・レーヌ・オルタンス街に探しあて、同じ頃ヨーロッパの外交事情に詳しいフレデリック・マーシャルというイギリス人を公設秘書兼書記として雇い入れた。鮫島はマーシャルからヨーロッパの外交慣例を一つ一つ丁寧に教わった。毎日数時間、ひどいときには十数時間におよぶすさまじい勉強ぶりに、さすがの秘書も悲鳴をあげたという。しかし、そうした真摯な態度はやがてヨーロッパの外交界・政界のひとびとに好感をもって迎えられるようになる。明治5年(1872年)、最初の駐英公使寺島宗則が着任、外務省はドイツにも専任外交官を常駐させた方が適切だと判断し、鮫島に公館開設の準備を命じた。同年10月鮫島は弁理公使となり、ベルリンのアルゼン街に公館を置いた。また、この年の終わりから翌年のはじめにかけての約2ヶ月、鮫島は岩倉遣欧使節団のパリ滞在を迎えており、岩倉使節に随行していた司法官僚の勉強会がきっかけとなって法学者ボアソナードの日本への招聘に成功した。
[編集] 『外国交法案内』
岩倉使節団が引き上げたあと、ヨーロッパでは一時日本ブームが起こる。1873年(明治6年)9月1日から5日間にわたって、ヨーロッパで最初の国際東洋学者会議がパリで開かれたが、鮫島はこのとき議長を務め開会の挨拶を述べた。また、9月8日には公使館をジョゼフィーヌ通りに面した一等地に移転させている。この年11月鮫島はフランス特命全権公使に昇進した。1874年、鮫島は従来より秘書のマーシャルと共同で外交実務書の編纂を進めていたが、ついにこの年完成する。“Diplomatic Guide(『外交入門』、鮫島自身は『外国交法案内』と呼んだ)”、日本で最初の外交の手引きであった。その内容は、第1章「公使館の権利」から第18章「国際法」におよんでいるが、特に第8章「外交官の職務」において、外交官にとって最も必要な個人的資質として「誠実」「率直」「機転」を掲げている点が注目される。
[編集] 帰国・結婚
病状思わしくない鮫島は1875年(明治8年)帰国した。帰国後まもなく鮫島は、「書記見習ヲ各国公使館ニ派出スルノ義」という建議書を提出している。この年11月に鮫島は正式に外務大輔に任じられ、寺島宗則外務卿を補佐することとなった。寺島がこれからおこなおうとしている条約改正事業を、実務レベルで補佐してもらうためであった。この年、朝鮮では江華島事件がおこっており、その収拾も大きな案件となっていた。この難問を前に寺島宗則、森有礼、鮫島らは一貫して条理外交を目指したのである。こののち鮫島は議定官を兼任している。1876年(明治9年)には太田サダと結婚。のちにともにフランスに渡ることになる。
[編集] 再びパリへ、そして
1878年(明治11年)2月、外務卿寺島宗則は英仏独露4ヶ国駐在公使に対し条約改正交渉開始の訓令を発した。イギリスは上野洪範、フランスは鮫島、ドイツは青木周蔵、ロシアは榎本武揚であった。鮫島は再度特命全権公使としてフランス駐在ベルギー在勤を命ぜられた。外務大輔からの現場復帰だったため、鮫島だけが訓状を持参しての渡仏である。同年5月、鮫島はフランス外相ワダントンに条約改正の必要理由を提示し、交渉が開始された。6月、パリで開催された万国郵便連合条約に調印し、郵便主権を回復した。10月、鮫島は三条実美・岩倉具視・寺島宗則に新通商条約の締結を提案、同年12月にはパリで英独仏駐在公使会議を開催、新通商条約の締結方針で合意した。1880年(明治13年)3月にはポルトガル・スペイン両国公使を兼任、4月にはパリの公使館で舞踏会を開催し、内外の注目を集めた。その後、鮫島の病状は思わしくなく、6月8日~7月31日ベルギーのスパで療養したが、同年12月4日パリの公館で客死した。死因は肺病、享年35歳であった。贈正三位。
[編集] 葬儀、森有礼による弔辞
鮫島の葬儀は1880年12月8日、パリ南郊のモンパルナス墓地で盛大に営まれた。外国の公使クラスの葬儀としては異例の特別扱いであった。公使館の正面玄関には日の丸を染め抜いた黒ビロードの幕が張り巡らされ、棺も黒ビロードで覆われた。出棺にあたっては儀杖兵一中隊が整列してこれを迎え、六頭立ての馬車の周囲を護衛した。墓地モンパルナスでは警備兵一隊が到着を待った。弔砲が撃たれ、在仏ドイツ大使のホーヘンローエ殿下らが綱をひく棺が天蓋の下に安置されると、グレヴィ大統領の名代を務めたピチエ将軍、在仏ロシア大使オルロフ殿下、イギリス大使ライアンズ卿、オーストリア大使ド・ボイスト伯爵らをはじめとする来会の人々に灌木の小枝が1本ずつ配られ、墓前に供えられた。
森有礼の弔辞は以下のとおり。
- 「鮫島! 君がこの世で仕事をはじめた時からずっと、君は正義の最も忠実なしもべであった。君は懸命に働き、そして37年の生涯を充分にりっぱに過ごした。ああ高貴なる魂よ! ああ気高き働き人よ! ああ光り輝く星よ! もう君はいない。だが、多くの友の胸に、君は生き、働き、そして輝いている。僕をいちばんよく理解してくれたのは君だった!」
[編集] 肖像画
- 山本芳翠『鮫島尚信像』・・・芳翠初期の傑作といわれる。1881年頃の作。芳翠は、ヴェルサイユの下宿の庭先にしつらえた俄かづくりのテントのなかで体つきが鮫島尚信に似ていた同宿の木版画家をモデルにこの絵を描いたという。生前の尚信は芳翠の芸術的才能を見抜き、さまざまな援助を与えている。現在は、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部 美術博物館蔵。
[編集] 脚注
- ^ >このとき尚信は幕府の目をくらますため野田仲平の変名を用いている。
- ^ 天皇が京都を発ったのは明治元年(1868年)9月20日。供奉の者は数千人いた。
- ^ 明治3年8月に外務大丞に就任したばかりであった。このとき鮫島25歳。
- ^ 旧幕臣。英仏両語に通じ、文久3年(1863年)に池田鎖港談判使節の仏語通訳、慶応元年(1865年)の柴田遣仏使節の随員として渡欧経験があった。このとき塩田27歳。
- ^ この直後、アメリカへ派遣するディプロマティック・エージェントには森有礼が選ばれた。『ニューヨーク・タイムズ』は、日本外務省の在外使臣派遣を斬新なできごととして高い評価を加えながら報道している。
- ^ 日本が初めて外国政府に出す信任状であった。
- ^ 「門閥ある者」がふさわしいというのがパークスの意見であった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 犬塚孝明『ニッポン青春外交官-国際交渉から見た明治の国づくり-』(日本放送出版協会、2006.12)