鳥居龍蔵
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鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年1月14日)は日本の考古学者、人類学者、民俗学者。
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[編集] 人物
現在の徳島県徳島市東船場のたばこ問屋の次男として生まれる。小学校を中退し、独学で人類学を学ぶ。1893年に東京帝国大学人類学教室の標本整理係として人類学教室に入る。1895年の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を精力的に調査した。中でも満州・蒙古の調査は鳥居と彼の家族のライフワークとも言ってよいほど、たびたび家族を連れて調査に訪れている。妻のきみ子も鳥居の助手として働き、女性人類学者として近年評価が高まっている。
鳥居は最新の技術を積極的に取り入れた研究者でもあった。1896年の台湾調査で初めて写真機を使用している(当時の写真機は大型で、現在のフィルムの代わりにガラス乾板が使われており、携行には不便であった)。1904年の沖縄調査では、鑞管蓄音機を導入して、民謡などを録音している。 鳥居は在野の研究者であり、「民」の立場を貫いた学者であった。学歴はなく、そのためか「官学」である東京帝国大学との対立は根深いものであった。1924年、突如東京帝国大学の助教授の職を辞し、自宅に鳥居人類学研究所を設立したときには、多くの反響を呼んだ。
太平洋戦争前に北京の燕京大学の客座教授に就任した鳥居は、戦争中も家族とともに北京にとどまった。終戦後、日本に戻った鳥居を待っていたのは焼け落ちた自宅だった。書庫だけが焼け残り、貴重な蔵書はすべて無事であった。帰国後の生活は困窮を極め、そのようすが新聞に取り上げられ、励ましの金品が送られてくるほどであった。
鳥居は人類学・民俗学・考古学の草分け的存在で、彼ほど東アジアをくまなく駆けめぐった学者はいない。鳥居の研究テーマの根幹にあったのは「日本人のルーツ」であり、その研究対象は非常に広範であった。そのため、鳥居は後に「総合人類学者」とも呼ばれている。東アジアの各地で、これほど綿密な調査がほかになかったため、鳥居の研究成果と写真は、現在でも第一級の資料となっている。
鳥居の収集した資料は、現在主に徳島県立鳥居記念博物館に収蔵されている。
[編集] 経歴
- 1870年(明治3年) - 現在の徳島市に生まれる。
- 1886年(明治19年) - 結成されたばかりの東京人類学会に入会する。
- 1890年(明治23年) - 東京人類学会の坪井正五郎を頼って単身上京する。
- 1892年(明治25年) - 一家で東京に移住。
- 1893年(明治26年) - 東京帝国大学人類学教室の標本整理係の職に就く。
- 1895年(明治28年) - 初の海外調査(遼東半島)。
- 1896年(明治29年) - 1900年まで台湾の先住民の調査。
- 1898年(明治31年) - 東京帝国大学の助手となる。
- 1901年(明治34年) - きみ子(戸籍上はキミ)と結婚。
- 1906年(明治39年) - きみ子が蒙古カラチン王府女学堂の教師に招かれる。同年、龍蔵も同男子学堂教授となる。
- 1918年(大正7年) - 武蔵野会(現武蔵野文化協会)を創設し、機関誌『武蔵野』を創刊する。
- 1920年(大正9年) - パリ学士院からパルム・アカデミー受賞。
- 1921年(大正10年) - 「満蒙の有史以前」の研究で文学博士を授与。
- 1922年(大正11年) - 東京帝国大学助教授となる。
- 1924年(大正13年) - 東京帝国大学を辞職し、鳥居人類学研究所を設立する。國學院大學教授となる。
- 1939年(昭和14年) - 北京に出発、燕京大学の客座教授となる。
- 1951年(昭和26年) - 燕京大学を退職し、帰国する。
- 1953年(昭和28年) - 東京で死去。82歳。
[編集] おもな著書
- 「蒙古旅行」(1911年)
- 「有史以前の跡を尋ねて」(1925年)
- 「満蒙の調査」(1928年)
- 「ある老学徒の手記」(1953年)