鶴岡二十五坊
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鶴岡二十五坊(つるがおかにじゅうごぼう)は、神奈川県鎌倉市に鎌倉時代から江戸時代まで存在した寺院。
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[編集] 沿革
源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮は、正しくは「鶴岡八幡宮寺」という神仏混淆の宗教施設であった。その社役を務める僧侶である供僧が、八幡宮の北西に設けた二十五の住坊およびその住持職(しき)の総称を鶴岡二十五坊という。ただし数は時代によって変動した。寺院における院家、塔頭、子院に相当する。彼らは八幡宮寺の実権を握り、神主より上位にあった。その長は社務職別当であった。本来は顕密で、特定の宗派ではなかったが、幕末にはすべて真言宗系統であった。
治承4年(1180年)12月4日、鎌倉入りしたばかりの頼朝は、僧定兼阿闍梨を上総国より召して最初の鶴岡供僧職に任じたのが濫觴である。数が25になったのは建久8年(1197年)頃と推定される。鎌倉幕府、鎌倉府が滅亡した後、衰退著しく、7坊に減少した。徳川家康が12までに再興した。ところが維新後の明治元年(1868年)神仏分離令(廃仏毀釈)によって八幡宮寺は分離して神道のみの八幡宮になった。そのため供僧は還俗し「神主」大伴氏に対して「総神主」と称する神職となったが、その後離散し、坊はすべて廃絶した。現在、神奈川県鎌倉市雪ノ下の御谷(おやつ)とよばれる一帯(神奈川県立近代美術館鎌倉別館・鶴岡文庫から北)が二十五坊の所在地である。
復飾にあたって供僧は、誰一人反対する者なく、進んで仏像、堂宇、什具の破却に携わったという。そして門前に「僧尼不浄の輩入る可からず」の高札を掲げたという。しかし慣れない職務と八幡宮の財政難から、明治8年(1975年)には12名が5名になっていた。ほかは小学校教員、再出家した者、車夫や豆腐売りに転じた者もいたという。
供僧の葬儀は、ほかの顕密諸大寺と同じく「不浄」であるとして、境内で葬儀・荼毘・埋葬できなかった。松源寺、浄光明寺に墓地がある。
主な史料として『鶴岡八幡宮寺供僧次第』がある(下記参考文献所収)。
[編集] 二十五坊一覧
名称は以下の通り。初期は坊号、後に院号を称する。※印は江戸期に存在した院。人名は維新後に供僧が復飾して名乗った姓名である。
- 善松坊(香象院)※(仁和寺末)香山良実
- 林東坊(荘厳院)※(仁和寺末)武内康側
- 仏乗坊(浄国院)※(仁和寺末)国司信成
- 安楽坊(安楽院)※(仁和寺末)畠山嘉正
- 座心坊(朝宝院)
- 千南坊(正覚院)※(仁和寺末)筥崎博尹
- 文恵坊(恵光院)※(仁和寺末)野田信高
- 頓覚坊(相承院)※(仁和寺末)相良亮太(のち再出家)
- 密乗坊(我覚院)※(根来寺末)岡本忠義
- 静慮坊(最勝院)※(仁和寺末)加藤良知
- 南禅坊(等覚院)※(根来寺末)大島教義
- 永乗坊(普賢院)
- 悉覚坊(如是院)
- 智覚坊(花菌院)
- 円乗坊(宝瓶院)
- 永厳坊(紹隆院)
- 実円坊(金勝院)
- 宝蔵坊(海光院)※(根来寺末)海野俊雅
- 南蔵坊(吉祥院)
- 慈月坊(慈菌院)
- 蓮華坊(蓮華院)
- 寂静坊(増福院)※(仁和寺末)増山尚義
- 華光坊(大通院)
- 真智坊(宝光院)
- 乗蓮坊(如意院)
[編集] 御谷騒動
跡地は宅地開発のため破壊されそうになり、昭和39年(1964年)「御谷騒動」が勃発した。市民、文化人が体を張ってブルドーザーを阻止し、やがて財団法人鎌倉風致保存会が設立され、ナショナルトラスト運動により保全されることとなった。これが同運動の先駆けであり、昭和41年(1966年)に古都保存法が制定される端緒となった。同年から何度か周辺の発掘調査が行われて全容が明らかとなった。昭和42年(1967年)国指定史跡。御谷への入り口に鎌倉町青年会による「二十五坊旧蹟」と書かれた石碑が建つ。