エドマンド・バーク
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エドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、アイルランド・ダブリン出身のイギリスの政治家、思想家、美学者。
ミドル・テンプル(法学院の一つ)で、法律学を学ぶ。保守主義の提唱者として知られる。父のリチャード・バークは、著名な弁護士。1761年にアイルランド総督秘書官に就任。1765年に下院議員に初当選。主著は1790年の『フランス革命の省察』(原題:Reflections on the Revolution in France)。ジャコバン派による急進主義を批判し、革命フランスへの武力行使を主張した。彼の理論は、合理主義批判に端を発する。
初の著作『自然社会の擁護』(1756年)では、すでにジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』を批判の対象としていた。『フランス革命の省察』の34年前である(その保守主義の萌芽は、すでに青年期にあった)。バークは、ルソーらの啓蒙思想における理性重視の考えを批判。コモン・ロー、騎士道、慣習、道徳、キリスト教などの伝統や、君主制・貴族制などの封建遺制を擁護した。
[編集] 日本への紹介
日本に初めてバークを紹介したのは金子堅太郎である。1881年、金子はバークの『フランス革命の省察』と『新ウィッグから旧ウィッグへ』を抄訳『政治論略』として元老院から刊行した。自由党のルソー主義への批判が目的であった。自由民権派の植木枝盛は、これに対して1882年、論文「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」により反論。しかし、イギリス型保守主義は、進歩一辺倒の明治期の日本に根付かなかった。 また、1933年に平泉澄による『革命とバーク』によって再度、紹介される。しかし、マルクスブームの日本には、根付かなかった。美学でも、バークを批判的に摂取したカントの名声のほうが高くなったため、研究はより遅くなった。
政治思想史家による研究が始まるのは太平洋戦争後。これには、戦時中から戦後にかけて日本の知識人にきわめて人気があり、本来バークとは正反対の思想を持つハロルド・ラスキが、「バークを読まない政治家は海図を持たない水夫に等しい」と述べていることも手伝っている。まず、坂本義和による国際政治思想としての紹介(単行本収録は21世紀になってから)がある。小松春夫による伝記的研究、また、短いものだが、福田歓一による「自然」の概念をめぐってのバークへの着目がある。
1980年代以降、研究の進展は著しく、とくに岸本の最初の研究書のように美学や文学論を政治理論と統一的に把握しようという動きが進んでいる。また、1990年代以降では、西部邁、中川八洋、八木秀次などの英米保守主義を支持する学者の中から、一般向けの著作において保守主義の先達としてバークを紹介するなどの動きも現れてきている。
[編集] 著作
- 『崇高と美の観念の起原』 (1757年) ISBN 4622050412
- 『フランス革命の省察』 (邦訳半沢孝麿、みすず書房、ISBN 462204918X)
- 『バーク政治経済論集―保守主義の精神』 ISBN 458862508X
[編集] 文献
- 岸本広司『バーク政治思想の形成』御茶の水書房、1989年
- 岸本広司『バーク政治思想の展開』御茶の水書房、2000年
- 小松春夫『イギリス保守主義史研究――エドマンド・バークの思想と行動』御茶の水書房、1961年
- 坂本義和「国際政治における反革命思想」『坂本義和集1 国際政治と保守思想』岩波書店、2004年
- 平泉澄「革命とバーク」『武士道の復活』錦正社、1988年
- 平泉澄「革命とバーク」『先哲を仰ぐ』錦正社、1988年
- 福田歓一「政治理論における「自然」の問題」『近代政治原理成立史序説』岩波書店、1971年
- 中川八洋『正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒』徳間書店、1996年
- 中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』中央公論新社、2002年
- 中川八洋『保守主義の哲学―知の巨星たちは何を語ったか』PHP研究所、2004年
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