ピンク・レディー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピンク・レディーは、1970年代後半、日本で最も人気のあった歌手、アイドルデュオ。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。
ミー(現:未唯、本名:根本美鶴代、1958年3月9日 - 、A型、静岡県静岡市葵区出身)とケイ(現:増田惠子、本名:桑木啓子(旧姓:増田)、1957年9月2日 - 、O型、静岡県静岡市葵区出身)の2人組。
目次 |
[編集] 来歴
常葉高校(現・常葉学園高校)卒業後の1976年8月26日にシングル『ペッパー警部』で歌手デビュー。中学、高校時代に同級生だった二人は”クッキー”というデュオを結成し歌手を目指していた。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場した。
しかし、後に増田恵子(ケイ)は素朴な田舎っぽいイメージはオーディション番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたといっている。当時のテレビ局関係者には素朴な田舎娘だったとの印象が今でも強いらしく、フォーク歌手指向と語られることが多い。
しかし歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされ変身。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装。リズムやビートを強調した曲調。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンス。郊外の田園風景が似合う素朴な二人組が、アメリカのショー歌手も顔負けの派手な歌謡デュオになったのである。ちなみにピンク・レディーとは都倉俊一の命名であり、有名なカクテルの名前に由来する。
同様の歌手としては1970年代前半に人気を博した山本リンダなどの前例もあるが(ちなみに山本の曲も阿久悠・都倉俊一コンビ作が多い)、山本などが“大人の女”の色気を売りにし夜のイメージを感じさせたのに対し、ピンク・レディーは夏の浜辺のような明るく健康的なムードなのが対照的だった。デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付けを熱心に覚えて真似をし始めた。
そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、果ては自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に彼女らの姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーという存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。
ピンク・レディーは1970年代前半のアイドル天地真理の人気を塗り替え、さらに時代を象徴するスーパーアイドルになったと言える。1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1に輝いた。 また『サウスポー』のように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。
2年ほど早くデビューしていたアイドルグループキャンディーズと比較されることが多いが、キャンディーズは基本的には同世代の青年男性に支持されており、古典的なアイドルだったと言える。一方でピンクレディーは小学生女児など女性層にも非常に人気があり、男女両性から人気を得ていたのが対照的である。当時のレコード売り上げ枚数などはピンクレディーの方が圧勝していた。
人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位(この記録は女性グループアーティストによる通算9曲首位も兼ねており、この記録も2006年11月20日付にてモーニング娘。の『歩いてる』が10作目の首位となるまで抜かれていなかった)、5曲連続ミリオンセラー(オリコン)、10曲連続ミリオンセラー(出荷)は、当時の新記録。シングル首位獲得週数63の記録は現在もまだ破られていない(2007年現在)。
ピンク・レディーの人気としては1977年~1978年が絶頂期と言えるだろう。ちなみに、人気ロックグループサザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバッド』は、沢田研二の『勝手にしやがれ』とピンク・レディーの『渚のシンドバッド』のふたつの曲のもじりである(それ以前に『8時だヨ!全員集合』で志村けんが「勝手にシンドバッド」というギャグを披露しており、サザンは志村をパクったとも言える)。両曲とも1977年の大ヒット曲であり、この時期のピンク・レディー人気がいかに巨大な存在だったかを物語っている。『渚のシンドバッド』は歌詞に「セクシー」という言葉が登場するが、これは日本のメジャーな歌謡史上で初めて使用された例だとされている。それでいて歌全体に淫靡なムードが漂わない辺りが、ピンク・レディーという存在の独特な個性だったと言えるだろう。
当時フィーバーやアパッチなど、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。余談だがアパッチには荻野目慶子・洋子姉妹の上の姉が在籍していたと言われる(慶子は次女、洋子は三女)。
ただし人気絶頂の時期に『NHK紅白歌合戦』出場を辞退して日本テレビ系の裏番組に出演したり、アメリカのショービジネスの世界に進出して日本のマーケットを留守にしたことが、結果として人気に悪影響を与えてしまった。当時の『紅白歌合戦』は文字通りの国民的お化け番組であり、ピンク・レディーが出演した裏番組は惨敗する結果になった上、NHKとの関係にも遺恨が残ったと言われる。
アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。ミーとケイは、デビュー当時からは寝る間もないほど仕事をさせられていたため、自分たちの実際の人気度が全く分からなかったと後述している。爆発的な人気が出た後には、前述の紅白辞退やアメリカ進出で負の遺産を背負い込まされることになり、自らの意志とは別の次元で悲劇的な運命に翻弄されることになった。
1979年頃からその人気は急速に陰りを見せ、1980年頃にはテレビでの人気者扱いではなくなっていた。そして1981年、雨の後楽園球場でピンク・レディーは解散コンサートを開催する。活動期間は4年半強。
現在は、それぞれ女優やタレントとして活動している。また、「愛のエプロン」では、未唯・増田双方とも抜群の料理の腕前を披露している。
二人でテレビ出演する際の衣装は増田がピンク・未唯はブルーで登場することが多い。これは現役の頃から今までも増田がピンクが大好きだということの表れである。
[編集] 略歴
- 1971年、中学2年の時、ケイがミーの在学する中学校に転校し、演劇部に入ったことで2人は知り合う。
- 1973年、ヤマハミュージックスクールに通い始める。
- 1974年、コンビ結成。元々は「クッキー」というフォークユニットだった。
- 1976年、日本テレビの番組「スター誕生!」にて合格し、デビュー。
- 1977年~1978年、日清食品日清焼そばU.F.O.のテレビCMに起用される。テレビの露出がこの時期に極端に増える。
- 1978年、「UFO」で日本レコード大賞受賞、「サウスポー」で日本歌謡大賞受賞。
- 1981年、解散。
- 1984年、再結成。
- 1990年、再々結成。
- 1996年から1997年にかけて、再々々結成。
- 2002年、パチンコ「CRピンクレディー」(大一商会)が当時過去最大の売り上げを誇ったほど大ヒット。後の再々々々結成へのきっかけとなる。
- 2003年、再々々々結成。同年から2年間限定で、「PINK LADY TYPHOON~AGAIN~」と題した全国ツアーを実施する。
- 2004年音楽番組ミュージックフェアにて平成の国民的アイドルモーニング娘。と夢の国民的アイドル同士の共演が実現した。ただし未唯はハローモーニングの初回にゲスト出演している。
- 2005年、コンサートツアー終了とともに活動に終止符を打つ。
- 2007年、ピンクレディーのパチンコが再び登場、パチンコで使用される曲の再レコーディングを行った。
[編集] シングル曲
- ペッパー警部(1976/8/26)
- 作詞の阿久悠は、その曲名をドクターペッパーより引用。映画『007 死ぬのは奴らだ』と『007 黄金銃を持つ男』に出てくるペッパー保安官(後に警部)とは関係ないもよう。ダンスで大胆に股を開く振り付けは当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。B面の乾杯お嬢さんも人気で、B面はキャンディーズを意識した楽曲でもあった。初回出荷枚数は8000枚だった。オリコン枚数60万枚、出荷枚数105万枚。2006年には、中国人デュエット「西遊妹妹」が中国語バージョンでカバーした。
- S・O・S(1976/11/25)
- テスト盤のイントロにはモールス信号が入っており、ラジオでは一時期放送を自粛した局もあった。LPバージョンは通常販売盤もモールス信号が入っている。初のオリコン1位。B面のピンクの林檎も比較的人気であった。現在の再結成ツアーでもB面のリクエストNo.1である。
- カルメン'77(1977/3/10)
- この曲あたりから激しい振り付けが増えてゆき、さらなるインパクトがつけられた。
- 渚のシンドバッド(1977/6/10)
- 初のオリコン上におけるミリオンヒット。
- ウォンテッド(指名手配)(1977/9/5)
- 簡単な振り付けが子供たちの間に広まり、振り付けの真似がはやるきっかけとなる。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が結成初期のライヴで演奏したこともある。
- UFO(1977/12/5)
- オリコン枚数155万枚、出荷枚数195万枚。ピンク・レディー最大のヒット曲(オリコン枚数、出荷枚数共に)。
- サウスポー(1978/3/26)
- モンスター(1978/6/25)
- 透明人間(1978/9/9)
- 三角ブラとホットパンツを基調としたシースルーの衣装が話題に。B面は飛べ!孫悟空の主題歌「スーパーモンキー孫悟空」。
- カメレオン・アーミー(1978/12/5)
- オリコンにおいて、初登場88位→翌週1位という珍記録達成。正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため。
- ジパング(1979/3/9)
- デビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録、「S・O・S」以来続いたオリコン連続1位記録が途切れる。
- ピンク・タイフーン(In The Navy)(1979/5/1)
- ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」をカヴァー。
- 波乗りパイレーツ(1979/7/5)
- B面の「USA吹き込み版」は、ビーチ・ボーイズがコーラスに参加した意欲作。
- KISS IN THE DARK(1979/9/5)
- 全米デビューシングル。ビルボード誌の「HOT 100」で37位にランクインした。
- マンデー・モナリザ・クラブ(1979/9/9)
- 売り上げこそいまいちだったが曲の完成度の高さはファンの間で定評がある。
- DO YOUR BEST(1979/12/5)
- 愛・GIRI GIRI(1980/3/5)
- 世界英雄史(1980/5/21)
- うたかた(1980/9/21)
- リメンバー(フェーム)(1980/12/5)
- ラスト・プリテンダー(1981/1/21)
- OH!(1981/3/5)
以上22曲
また、未唯(当時はMIE)は「NEVER」(TBSテレビ系「不良少女と呼ばれて」主題歌。)を、増田は「すずめ」を、それぞれソロでヒットさせた。
再結成後ピンク・レディーとして「不思議LOVE」(レーベルはVAP)、再々結成後「2年目のジンクス」という新曲を発表。
[編集] 再々々結成後
- PINK EYED SOUL(1996/11/21) - シングルとしては不思議LOVE以降12年ぶりの新曲(レーベルはビクター)
[編集] 再々々々結成後
- テレビが来た日(2003/5/2) - NHK「みんなのうた」
[編集] テレビ作品
- ドリフターズに似せた人形が演じる人形劇。ピンク・レディーは主題歌と劇中歌を歌った。劇中歌は持ち歌の替え歌が多かった。
- 1978年10月24日-1979年6月26日に東京12チャンネル(現: テレビ東京)で放映されたアニメ作品。全34話および前夜祭1回と総集編2本からなる。「本人達にあまりにも似ていない」と不評であったため、シリーズ途中でキャラクターデザインをやり直したという逸話がある。
- ピンク百発百中
- ハローピンクレディー
- たまりまセブン大放送!
- 走れ!ピンク・レディー
- UFOセブン大冒険!
- ザ・チャンス!
- 「飛べ!孫悟空」の後番組として、放送開始からしばらくの間はピンク・レディーが司会だったが、アメリカ進出の間の代役だったはずの伊東四朗(なお、伊東の前の司会役は湯原昌幸だった)が結局そのまま司会の定位置におさまることとなった。おなじみのフレーズ"Now Get the Chance!"も、ピンク・レディー司会の時代から引き続き使われていたものである。
- Pink Lady and Jeff (アメリカNBC)
[編集] 映画
- ピンクレディーの活動大写真 1978年に東宝より公開された。
[編集] 関連項目
- ピンク・レディーX
- アニメタル(未唯がアニメタルレディーとして活動していた)
- X.Y.Z.→A(未唯とデュエットした)
- 燃えろ!!ロボコン(未唯が栗原家のママ(栗原光子役)として出演した)
- ピンク・レディ -ユニットの名の由来になっているカクテル。
- CRピンクレディー
[編集] 外部リンク
オリコン年間シングルチャート第1位(1977年) | ||
前年: 子門真人 『およげ!たいやきくん』 |
ピンク・レディー 『渚のシンドバッド』 |
次年: ピンク・レディー 『UFO』 |
オリコン年間シングルチャート第1位(1978年) | ||
前年: ピンク・レディー 『渚のシンドバッド』 |
ピンク・レディー 『UFO』 |
次年: 渥美二郎 『夢追い酒』 |