全日本女子プロレス
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全日本女子プロレス(ぜんにほんじょしプロレス)は、かつて存在した日本のプロレス団体。登記上の商号は全日本女子プロレス興業株式会社。通称全女。
[編集] タイトル
- WWWA世界シングル王座 通称「赤いベルト」。
- WWWA世界タッグ王座 100代以上を数える伝統あるベルト。
- オールパシフィック王座 WWWA世界シングルに対して「白いベルト」と呼ばれる。
- WWWA世界スーパーライト級王座
- 全日本シングル王座
- 全日本タッグ王座
- 全日本ジュニア王座 当初は20歳以下を対象にしたタイトルだったが、新人選手の高齢化に伴い、キャリア2年以下の選手を対象に改められる。
- WWWA世界格闘技王座 格闘技王座と銘打たれているが、ルールはキックボクシングに近い為、全女内のみならずキックボクシングやシュートボクシングの選手も挑戦している。
- IWA世界女子王座 元々はカナダに存在した団体の女子王座だが、長与千種が海外遠征に行った際に持ち帰ったタイトル。団体自体は消滅したが、この王座のみ日本に定着し、タイトルマッチが行われていた。
- UWA世界女子タッグ王座 ユニバーサル・プロレスリングが管理・運営するタイトルだが、ユニバーサル自身は所属の女子選手が少ない為、主に全女中心でタイトルマッチを組まれていた。
[編集] 歴史
旗揚げ戦は1968年6月4日、東京・品川公会堂。経営陣との対立から日本女子プロレスを退社した松永高司を代表に、松永を慕う選手達によって設立された。
旗揚げ当初、暴力団と関係があるとする中傷がなされ、興行のための施設借用に困難をきたした。この時全女を支援し、その身元を保証したのが『デイリースポーツ』であった。以後1990年代まで、全女の主だった興行には「後援・デイリースポーツ」のクレジットがなされ、フジテレビによる試合中継にも『デイリースポーツ』記者が解説者として派遣された。また、全女旗揚げ時の『デイリースポーツ』編集局長であった植田信治は、のち全女のタイトル運営機関である「全日本女子プロレスリング協会」のコミッショナーに就任している。
県立体育館や市民会館、スーパーの駐車場など様々な場所で興行を行っていた。最盛期には年間興行数が200を超え、全団体でも最多であった。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、客層も一変する。
- 1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
- 1987年 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
- 1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
- 1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが男子プロレスのファンに注目される。
- 1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
- 1992年8月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、団体対抗戦の機運が高まる。
- 1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
- 1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、伝説的な興行となった。
- 1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
- 空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、これを機に女子プロレスブームも終焉。
- リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
- 女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
- 1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
- 1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。これを端緒として経営不安が表面化する。
- 1997年10月 手形不渡りによる銀行取引停止処分を受ける。
- この頃までに大半の選手が離脱。アジャ・コングらの「アルシオン」と井上京子らの「新日本女子プロレス(ネオレディース)(現:NEO女子プロレス)」とに別れた。
- 残留した選手は堀田祐美子、豊田真奈美、井上貴子、伊藤薫、渡辺智子、前川久美子、高橋奈苗、中西百重、藤井巳幸、脇澤美穂ら。一時退団していた納見佳容が再入団した他、IWA・JAPANから元川恵美がレギュラー出場し(その後、同団体の所属選手だった西堀幸恵も加わる)、「新生全女」をアピールして再出発。
- 1998年 30周年を記念興行、ビューティ・ペアなどOGが出席する。
- 2000年 つんくのプロデュースにより「キッスの世界」(中西百重、高橋奈苗、脇澤美穂、納見佳容)がデビュー。JWPとの業務提携を発表。
- 2001年12月16日 川崎市体育館大会で脇澤美穂が引退。脇澤に代わって西尾美香が「キッスの世界」に加わる。
- 2002年7月7日 東京・大田区体育館大会で豊田真奈美が退団表明。翌日GAEA大阪大会に現れた事で、全女-GAEA間に確執が生じる。
- 2003年5月11日 横浜アリーナ大会を最後に堀田祐美子、西尾美香が退団し「Z-SPIRITS」を結成。西尾の離脱により「キッスの世界」解散。
- 2005年3月29日を最後に主催興行を停止。
- 2005年4月17日後楽園ホールでの興行(主催はファースト・オン・ステージ)を最後に解散。
- 2005年8月17日最後の社長、松永国松が飛び降り自殺。
[編集] 主な全女出身のレスラー
全女でのデビュー年別。
[編集] 昭和49年(1974年)
- アイドルレスラーの草分け的存在。引退。
[編集] 昭和50年(1975年)
- ビューティ・ペアを結成し一時代を築いた。ビューティ・ペアは第二十八回紅白歌合戦にも出場している。引退。
- ビューティ・ペアを結成し一時代を築いた。引退後インストラクターとして活動していたが死去。
[編集] 昭和52年(1977年)
- 小柄ながら長期間王者として君臨しつづけた偉大な王者。引退後はコーチ業につき、吉本女子プロレスJd'で一時現役復帰、同団体の選手を指導していた。Jd'時代にも一度引退するが、その後再復帰し現在も現役。ハッスルでは「ジャガーY」のリングネームで参戦。
[編集] 昭和53年(1978年)
- 元アイドル歌手のアイドルレスラー、オールパシフィック王者。引退後は芸能界に復帰したが、のち新興宗教の教祖に。
- 全女退団後もレスラーを続け、26年以上も現役を続けているベテランレスラー。
[編集] 昭和55年(1980年)
- クラッシュギャルズとして一世を風靡した。引退後芸能活動をしていたが、1993年の「夢のオールスター戦」にエギジビション参加したことをきっかけに1994年復帰。翌年GAEA JAPANを旗揚げし、2005年に再び引退したが、2006年にKAORUの復帰戦で再びリングに上がっている。
- ヒール集団「極悪同盟」のリーダーとして、クラッシュギャルズと激しい抗争を繰り広げた。引退したが、窮地に陥った全女に特別出演している。
[編集] 昭和56年(1981年)
- JBエンジェルス(Jumping Bomb Angels)として立野記代とともに日米をまたにかけて活躍した。ロープ際の魔術師とも言われ、背面式ドロップキック、フライング・ヘッド・バットなど、長い黒髪をなびかせた空中殺法はファンを魅了した。現在は、ニューヨークで、日本料理店を夫とともに営む。
[編集] 昭和58年(1983年)
- クラッシュギャルズ引退後の全女を支え、「女帝」と称された。金網の上からのギロチンドロップは衝撃を与えた。公式の引退声明は出ていないが、現在は渡米しプロゴルファーを目指している。50キロも体重を落とすことに成功し、ダイエット本も出版した。
[編集] 昭和60年組(1985年)
- 試合中、首の骨を折り長期欠場するも復活、デンジャラスクイーンと呼ばれるようになる、団体対抗戦時代には神取忍と血みどろの抗争を繰り広げた。
- 新日本プロレスが北朝鮮で行なった「スポーツと平和の祭典」興行に女子プロレス代表として参加したことが出会いとなってプロレスラー佐々木健介の妻となり子供も出産するが現役ママさんレスラーとして活躍。引退後もマイクアピールの巧さを活かして、夫の活動のサポートを行う傍ら、その恐妻ぶりから「鬼嫁」と呼ばれ、夫婦タレントとしても活躍。2005年に健介office(登記上の名称は、「株式会社健介オフィス」)を設立し、代表取締役社長に就任した。
- 北斗晶と海狼組(マリンウルフ)を結成していた。北斗とともに豊田、山田と激しい抗争を繰り広げた。その後も中堅のポジションで、完成度の高いレスリングを披露するが首を痛めて引退。
- 全女入団前は極真会館の元世界王者・中村誠の下で空手を学んでいた。クラッシュから受け継いだ格闘路線の選手で、総合挌鬪技にも何度か出場している。1997年の選手大量離脱事件後も残留していたが、2003年にAtoZを旗揚げ。若手時代は西脇充子とファイヤージェッツを結成していた。
- 西脇充子
[編集] 昭和61年組(1986年)
- ブル中野と激しい抗争を繰り広げた。独特のキャラクターからCMなどにも出演している。
- アジャのタッグパートナーとして活躍。ヒールながらもソバージュヘアーを振り乱してのケサ斬りチョップでファンの人気も高かった。一時引退するが、フリーランスとしてカムバックした後、吉本女子プロレスJd'に移籍し、初期にはエースとしてして活躍するものの、再び引退する。
- 神谷美織
- 全女時代は同期の高橋美華(引退)と組み『ハニーウイングス』のタッグチームとして活躍。後にユニバーサル・プロレスリングに移籍しリングネームを「インフェルナルKAORU」に改名するが離脱。その後、GAEA JAPAN旗揚げに参加し、リングネームをKAORUに改名する。GAEA JAPAN解散後はフリーランスとして活躍している。
- 全女時代は、新人の頃に特に目立った活躍をしないまま引退し、後にFMWの試合に乱入という形でカムバックする。FMW参戦時にはヒールだったが、ベビーフェイスに転向、大仁田厚と並んでFMWを支える存在となり、『邪道姫』の尊称と共にデスマッチも行っている。引退後は暫くタレント活動を行なっていたが、プロレスラーBADBOY非道と結婚。
- 豊田記代
- 全女時代は、新人の頃に特に目立った活躍をしないまま引退したが、後にFMWの試合に工藤めぐみ、天田麗文(引退)と共に乱入という形でカムバックし、コンバット豊田とリングネームを改名、工藤がベビーフェイスに転向した後はヒールのトップとして活躍するが、現在は引退。
[編集] 昭和62年組(1987年)
- 柔軟な体と跳躍力を誇り、「ゾンビ」とまで呼ばれるしぶとさを持つ。その華麗さとしなやかさから、最も女子プロレスラーらしいプロレスをするともいわれる。
- 1997年の選手大量離脱事件後の全女を支え続け、何度も王者についた。全女脱退後はフリーとして活躍。
- 回転してのフォール技や、出身地(島根県益田市)に因む「日本海」の名を冠した必殺技を多く持つ。
- 豊田真奈美の同期でライバルと言われていた。頸椎ヘルニアで長期欠場後復活し不死鳥と呼ばれた。
- 豊田とタッグを組んで王者となるも、シングルではライバルとして戦い続け、ついには豊田と髪切りデスマッチを行うに至った。
- 1997年7月、師匠の長与千種を慕いGAEA JAPANに移籍。居酒屋を経営しつつ現役を続行していたが、2004年限りで引退。
- 若手時代は170cmを超える恵まれた体格を持つものの大して活躍できず、北斗晶に弟子入り。ラス・カチョーラス・オリエンタレスとして活躍した。必殺技であるデスバレーボムは、新日本プロレス時代の高岩竜一が使用して以来男子レスラーにも広まった。現在はNEO所属。2006年11月26日東京キネマ倶楽部大会でタニー副社長により中国へ寄贈されたため、中国人名『謝英津子(しゃえつこ)』と改名させられた。
- 三田の後に続いて北斗晶に弟子入り。二人は北斗の脱退後もラス・カチョーラス・オリエンタレスとしてタッグで活躍、全女倒産後はフリーとして活動。女子選手を有するほぼ全ての団体に出場するほか、男子のみちのくプロレスやアメリカのECWにも出場経験がある。2003年に引退し、AtoZのエージェントマネージャーに就任したが、堀田に挑発されて復帰。現在はメキシコに活躍の場を移す。
[編集] 昭和63年組(1988年)
- そのプロレスセンスから天才とも言われるレスラー。楽しさと厳しさを併せ持つ名レスラーで全女離脱後は新日本女子プロレス(現NEO)を旗揚げする。
- デビュー前はアマレスを学びつつモデルもしていたというアイドルレスラー。良くとおる声でマイクアピールも得意。井上京子とのタッグで第100代WWWAタッグ王者となった。現在はLLPW所属。
- 若手時代はメキシコ留学もしており、ルチャを得意としていた。その後首の負傷から二年近くの欠場を強いられたのを機に関節技主体に移行。1997年に離脱しARSION旗揚げに参加する。現在は「息吹」を主宰。必殺技はクモ絡み。
[編集] 平成元年組(1989年)
- ソバット、裏投げを武器に活躍。ドーム興行においては仮面を被りブリザードYuki(角川書店、少年エースの同名漫画とのタイアップ)としてデビューするもぱっとしなかった。上背もあり、ボーイッシュなスタイルから次期エース候補に期待されるが、試合中のアクシデントにより首を痛めた事により、精彩を欠くようになり1996年に引退。一時期アルシオンの広報も務める。現在はZERO1-MAX渉外担当のオッキー沖田と結婚し、一子を設けている。
- フットスタンプを得意とする。若手時代、W★INGプロモーションにゲスト参戦した際にケビン・サリバンから教えられた技で、軽快に技を決める姿とボーイッシュなルックスとで「ピーターパン」と呼ばれていた。柔道の有段者でもあり、1996年頃には同じ武道のスキルを持つ堀田祐美子、渡辺智子、前川久美子と「U-TOPS」なるユニットを組んでいた。1997年の選手の大量離脱後も全女に留まり、WWWAシングル王者にも就いた。2003年に退団しフリーとなり、ダリアンガールズのコーチを経て現在は「伊藤薫プロレス教室」を主宰。1998年以降は時々覆面レスラーZAP-Iに変身する。
- 素顔ではコミカルなファイトも見せる正統派、覆面レスラーZAP-Tでは悪役とキャラクターを使い分ける。全女解散時には最古参だった。柔道出身で、「U-TOPS」のメンバーでもあった。その後フリーとして主にIWAジャパンを中心に活動。2006年12月29日に開催された「伊藤薫プロレス教室興行 伊藤道場~心~ 第二章」での試合を最後に引退。
- バット吉永
- 空手出身で、リングネームはローキックで木製バットを蹴り折った所から名付けられた。格闘技戦では堀田祐美子に勝利し、プロレスにおいても井上京子にフォール勝ちするなど、順調な活躍を見せるが、首の負傷の為惜しまれつつ引退。その後は受身を取る必要の無いことから、格闘技戦要員として復活するが、目立った活躍もないままフェイドアウトしている。
[編集] 平成2年(1990年)
- ぬまっち
- キャラクターレスラーがブームになった際に、土木作業員をモチーフにしたキャラクターレスラーに変身し、その際にリングネームを本名の沼田三絵美から『ぬまっち』に改める、試合中のアクシデントで首を負傷し、それが元で引退。その後、ダイエットした後に芸能プロダクションのオスカープロモーションに所属するが、タレントとしてはあまり注目されなかった。
[編集] 平成3年(1991年)
- 蹴りの得意な選手で、新人時代に一度引退したが復帰した。堀田祐美子同様極真会館の出身で、テコンドーなども学んでいる。2006年3月に引退する。
- 白鳥智香子
- 同期の選手達の中で最後まで全女に残り、お嬢様キャラで注目を浴びるも引退。後にJd'にてカムバックするが、団体内での自分の扱いに不満を持ち離脱し、フリーになるが、Jd'時代よりも目立たないまま引退する。現在は大阪プロレスでフロント(ゼネラルマネージャー)として勤務。同プロレス所属のタイガースマスクと結婚。
- 玉田りえ
- 前川と同じく、新人時代に一度引退したが復帰する。小柄だが、はつらつとしたファイトで注目を浴びるが、全女の経営危機の際に離脱、アルシオンに移籍し、その際、リングネームを玉田凛映に改める。現在は引退。
- 練習生時代は怪我等の為、中々プロテストに合格せず、同期の中で一番最後にプロテストに合格者するが怪我の為引退。その後、1993年にLLPWにて再デビューし活躍するものの、1998年にアルシオンに移籍。その後アルシオンを退団、M's STYLEに参加していたが解散し現在はフリー。
[編集] 平成4年(1992年)
- 小柄ながら体操経験があり、デビュー前からオリジナルの空中技スカイツイスタープレスを準備していた変わり種。現役はすでに引退している。ちなみにリングネームの『ASARI』の由来は、全女入団時に自己紹介した際に、本名の『真美(まさみ)』が先輩レスラー達に『アサリ』と聞こえ、それがあだ名となった為。
- ASARIと同期で、一時引退したが後に復帰する。全女の経営危機の際に離脱、新日本女子プロレス(現NEO)に移籍し、旗揚げに参加する。2006年大晦日に引退。
[編集] 平成5年(1993年)
- 小柄ながらも可愛らしいルックスからアイドルレスラーとして注目され、先輩達とCDも出し、ビデオも出している。全女の経営危機の際に離脱、アルシオンに移籍し、その際、リングネームを府川唯未に改め、玉田凛映とのタッグ等で活躍する。その後引退し、現新日本プロレスの稔(田中稔・ヒート)夫人。
[編集] 平成6年(1994年)
- 同期の中では一番最初にタイトル(全日本ジュニア)に挑戦するなど、団体から期待をかけられていたが、全女の経営危機の際に離脱、新日本女子プロレス(現NEO)に移籍し、旗揚げに参加。現在は『タムラ様』のキャラクターで人気を博している。
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!!の女子プロレス予備校出身。この企画の出身者の中で唯一全女の新人オーデションに合格する。上背もあり、スケールの大きなレスラーになる事を期待されたが、全女の経営危機の際に離脱、新日本女子プロレス(現NEO)に移籍し、旗揚げに参加し今に至っている。
- 同期の中では小柄だったが、ネズミをモチーフにしたコミカルなキャラクターとして活躍するが、全女の経営危機の際に離脱、新日本女子プロレス(現NEO)に移籍し、旗揚げに参加。現在もコミカルなファイトを行っている。
- 同期の中では、元気美佐恵に次ぐ長身選手で、同様にスケールの大きなレスラーになる事を期待されたが、怪我の為引退。その後、吉本女子プロレスJd'にてレフリーとして復帰、それと平行して格闘家としても活動し、現在も格闘家として活躍している。
[編集] 平成7年(1995年)
- ルックスの良さからアイドルレスラーとして期待されたが、新人時代に引退するものの、後に復帰。経営危機の際の選手が大量離脱後した後の全女を支え、脇澤美穂との『ミホカヨ』コンビで人気物になる。現在は引退し、女優として活動している。
[編集] 平成8年(1996年)
- 小柄ながらもスポーツ万能な選手で、全女入団前は栗栖正伸に師事していた。倒産直後の全女において活躍し、同期の脇澤やIWA・JAPANの元川恵美、Jd'の坂井澄江らとの抗争で名を上げる。WWWA世界シングル王者にも就いた。2003年にフリーとなったが、大江慎(シュートボクシングからUWFインターに転じた元格闘家)と結婚し、2005年1月7日に引退。現在は一子を設け、「UWFスネークピットジャパン」(元UWFの宮戸優光が主催するジム)のコーチを務める。
- アニマル浜口門下。中西百重との『ナナモモ』で人気者になった。解散時の全女のエース。現在はプロレスリングSUN所属。
- 納見佳容との『ミホカヨ』で人気者になった。2001年に引退。
- デビュー時から本名の藤井巳幸で正統派として戦っていたが、2003年にダンプ松本に弟子入りし、スキンヘッドに蠍のペイントを塗って変身。極悪同盟のメンバーになる。
[編集] 平成11年(1999年)
- デビュー時は本名の塩谷良美で出場していたが、怪我が原因で退団。2002年12月に再デビューし、2003年1月に現在のリングネームに変更。ハッスルにも参戦している。現在はプロレスリングSUN所属。
- 関綾子
- 171cm105kgの巨漢で「アサシオ」のニックネームで親しまれたが2000年に退団。
[編集] 平成12年(2000年)
- 2003年に退団後AtoZに移籍。2006年に退団し現在はOzアカデミー所属。試合中に胸椎と腰椎を負傷しリハビリ中。
[編集] 平成13年(2001年)
- 2002年に退団後、2003年にAtoZに移籍、リングネームを未来に改名。2005年にフリーとなり、活躍が期待された矢先の9月14日に不慮の事故により急逝。
- 同期では唯一、全女解散まで在籍。解散後はドリームキャッチャーを経てプロレスリングSUNに所属。
- 2002年に退団。しばらくのブランクのあと2005年に伊藤薫プロレス教室にて復帰。
- 新人王に輝くも2002年に退団。しばらくのブランクのあと2006年に伊藤薫プロレス教室にて復帰。
※女子総合格闘家のberry15も平成13年組だが、全女でデビューする前に退団した。
[編集] 平成15年(2003年)
- 水嶋なつみ
[編集] 体制など
[編集] 松永家
全女は松永家による同族会社であった。三男・松永高司を中心とする兄弟一族で全女を立ち上げ、運営していた(長男は経営に加わらず、次男・健司、四男・国松、五男・俊国の四人が率いていた)。兄弟には格闘技出身者が多く、柔拳興行(ボクシングと柔道の異種格闘技対決が売り物の格闘技興行)の経験者もいる。そのことからしばしば全女では異種格闘技戦が行われた。しかし、俊国は2002年9月22日に心不全で病死、国松は2005年8月17日に飛び降り自殺した。
[編集] 地方興行
全女は全国津々浦々を巡業するスタイルで、最盛期には年間250試合近くも行っていたといわれた、これは男子とくらべてもかなり多い数である。選手の知名度のみならず、緻密なスケジューリング、地元とのパイプがなければ難しく、既存の女子団体でこれを行えるのは全女くらいしかいなかった。ハードな巡業は選手に雑草魂を植え付けるといわれていた。
[編集] 三禁
酒、煙草、男の三つを嗜んではいけないという掟。女子レスラーが煙草、酒をたしなむ様子は、風俗嬢そのものであったため、これではまずいと考えた松永兄弟が禁止させたという。また、全女の選手には未成年も多いことも関係していると思われる。「男が出来ると股を開くのを嫌がるし、ケガをすることを嫌がってファイトに精彩がなくなる」と公式に回答していた頃もある。北斗晶が佐々木健介(当時新日本プロレス)と結婚するに際し、この三禁の掟が焦点となったが、会社に認められて北斗の結婚後の現役続行がOKになったというエピソードがある。広く知られていた「三禁」だが、所属していた選手のコメントによると守っていた人は少ないとのこと(特にトップクラスの場合は会社も黙認していたらしい)。
[編集] 25歳定年
かつては「25歳(ないしは在籍10年)に達した選手は引退する」という暗黙の了解があった。理由としては、世代交代を潤滑に行う為と、もし引退しても25歳くらいなら、結婚や他の仕事を探す等、新しい生活が出来るだろうというフロントの考えからである。年を取り人気の落ちた選手には、会社から有形無形のプレッシャーが掛けられ引退への道を進むこととなる。1993年には、エース格として全女を牽引するブル中野が25歳に達したことから、その去就が注目されたが、団体対抗戦の渦中だった状況もあり会社は現役続行を容認。この結果、「25歳定年」は事実上はなくなった。
25歳定年が暗黙の了解として存在していた頃は、強制的に世代交代が行われ、その都度新たなスターが登場したが、それが無くなる事により、ベテラン選手がいつまでもトップに存在し、世代交代が行われる事が困難になり、女子プロレスが衰退するひとつの原因にもなっている。
[編集] 上下関係
いわゆる体育会系の厳しい上下関係があり、いじめなどもあったとされる。
『後輩レスラーは、先輩レスラーの得意技をその先輩が引退するまで使ってはいけない』と言う暗黙の掟があり、その為、選手達は知恵を絞ってオリジナル技を開発していた。
毎年のように入団する選手が居た昭和60年代以降は、入団年によって昭和(平成)xx年組と分けて呼称されていたが、入門希望者の減少等の要因によりそういった呼称はあまり見られなくなった。
[編集] ミゼットプロレス
いわゆる低身長症の人間が行うプロレス。通称「小人プロレス」。コミカルな面が強く、彼らを笑い物にしているとして一部の人権団体からは非難があるとされるが、これも立派なプロレスであり、全女の興行には欠かせないものであった。むしろこちらがメインで、女子プロレスが前座扱いであった時期もあるという(ミゼットの選手達は「自分達は笑われているのでは無い、笑わせているんだ」と言う自負を持っていた)。確かな技術に裏打ちされた完成されたエンターテインメントとして高く評価するファンも少なくない。レフェリーをも巻き込んで展開されるコミカルな試合は、今でこそどの団体でも日常的に見られるが、その嚆矢としてミゼットプロレスが果たした役割は小さくない。 但し、身体的ダメージが蓄積されて健康を害する選手も多く、リスクに見合った金銭的な評価も期待しづらい為、後継者難に悩まされている(全女が経営難になる前は、秩父市に存在した全女の施設の管理人と言う形で、引退後の生活を保障されていたが、現在は施設も存在しない為、引退後の保証も無いと言う厳しい状況となっている)。全女解散後はAtoZが引き継いでいたが、AtoZが消滅した事により、これからミゼットプロレスがどうなるのかは不明。
余談だが、メキシコのプロレス(ルチャ・リブレ)においては、「ミニ・エストレージャ」と呼ばれる、大型レスラーのキャラクタを模した小柄なルチャドール(ルチャ・リブレのレスラー)が相当数いる。その大半はミゼットというより若干小柄という程度の体格だが、中には明らかに小柄な選手もおり、大柄な選手ではできないようなトリッキーかつ素早い動きによって観客の目を引き付ける重要な役割を果たしている。中にはマスカリータ・サグラダなど、本家を凌ぐ人気を誇る選手さえ存在する。一時期、日本のミゼット選手とメキシコのミニ・エストレージャによる対抗戦が行われたこともある(ただし、両者のファイトスタイルが違っていたので、噛み合ったとは言い難かった)。
有名な選手にリトル・フランキー、角掛留造らがいる。
[編集] 格闘技戦
1990年代中頃まで行われていた試合形式。格闘技戦と銘打っているがバーリ・トゥードではなく、レスラー同士がグローブを着用し殴ったり蹴ったりするキックボクシング形式の試合(後に、レスラー同士だけでなく、キックやシュートボクシングの選手を招いて所属選手と対戦させている)。松永兄弟がボクシングの経験者であった事から、この形式を思いついたらしい。ファンの間では、レスラーにグローブを着けさせてキックボクシングの真似事をさせた事に関しては賛否両論だったが、これをきっかけに成長した選手がいたのも事実である。
[編集] 新団体旗揚げのサポート
新団体(インディー団体)が相次いで旗揚げされた1990年代前半には、全女はこれらの団体の旗揚げを支援していた。例えば旗揚げ前のパンクラスには東京・目黒の道場を練習の場として提供。ユニバーサル・プロレスリングやW★INGプロモーションにはリングの貸し出しだけでなく、所属選手を派遣してカード編成を補助している。この事が、それまで女子プロレスを見た事の無かった男性ファンを全女に呼び寄せ、ブームを巻き起こすきっかけになっている。
[編集] 経営難となった要因
松永一族のワンマン経営によるものという一言に尽きるのだが、プロレス興業だけでなく、飲食業経営や土地転がし、株の投資に手を出したことが著しく悪化させた最大の要因である。ただし、不動産事業に関しては、外部から不動産業務のプロを招き入れた為、この事業のみ黒字で、一番の原因は博打的な株の投資で大損害を負ったからとも言われている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- ロッシー小川 『全女がイチバーン!』 ISBN 4-583-03144-0 C0075
- ロッシー小川 『やっぱり全女がイチバーン!』 ISBN 4-583-03233-1