塩崎恭久
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生年月日 | 1950年11月7日 |
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出生地 | 愛媛県松山市 |
出身校 | ハーバード大学 ケネディ行政大学院 |
学位・資格 | 行政修士(MPA) |
前職・院外役職(現在) | 日本銀行 塩崎潤衆議院議員秘書 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
内閣官房長官 |
世襲の有無 | 二世 父・塩崎潤 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
愛媛1区 |
当選回数 | 4回(参院当選1回) |
所属党派(現在) | 自由民主党(古賀派) |
党役職(現在) | 愛媛県連会長 国家ビジョン策定委員会幹事 |
会館部屋番号 | 衆議院第一議員会館619号室 |
ウェブサイト | [1] |
塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年(昭和25年)11月7日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員、元・参議院議員。経済企画庁長官、総務庁長官を務めた元衆議院議員・塩崎潤の長男。
目次 |
[編集] 略歴
- 1967年 愛媛県の私立愛光中学校卒業。
- 1970年 東京都立新宿高等学校卒業。
- 1975年 東京大学教養学部教養学科アメリカ科卒業、日本銀行入行
- 1982年 ハーバード大学大学院(ケネディスクール)修了、行政修士号を取得。同年、父・潤が経済企画庁長官に就任したのに伴い退職し秘書官となる。のち日銀復職。
- 1985年 日銀退職、政治の道へ。途中、父の総務庁長官就任に伴い秘書官を務める。
- 1993年 第40回衆議院議員総選挙に愛媛1区(当時)から、立候補、初当選
- 1995年 第17回参議院議員通常選挙で当選。
- 1997年 大蔵政務次官に就任(~1998年7月)。
- 2000年 衆議院愛媛1区に復帰、当選。
- 2000年 自民党外交部会長(~2001年1月)。
- 2002年 自民党財務金融部会長。
- 2004年 衆議院法務委員長。
- 2005年 第3次小泉内閣にて外務副大臣に就任。
- 2006年 自民党愛媛県連会長就任。
[編集] 来歴
1975年(昭和50年)に東京大学教養学部教養学科を卒業して、日本銀行に入行、在職中にハーバード大学大学院(ケネディスクール)を修了。父の入閣に際し日本銀行を退行し、秘書官に就任。父の引退を受けて、1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙に、旧愛媛1区から立候補して初当選。
1995年(平成7年)、小選挙区制導入に伴い、同じ松山市を地盤とする関谷勝嗣と変則コスタリカ方式を結んで参議院愛媛選挙区に回り、参議院議員に転身する。1998年(平成10年)頃から安倍晋三、石原伸晃、根本匠とともに政策グループNAISを結成し、年金や福祉問題を中心に活動。また金融危機に伴う1998年の「金融国会」で石原伸晃や民主党の若手議員らとともに金融再生トータルプラン、金融再生法の策定に奔走、「政策新人類」と呼ばれて注目された。自民党総裁選挙では、若手議員の結集を図ろうと動いたこともある。
2000年(平成12年)、衆議院解散で参議院議員を辞職し、塩崎が関谷の地盤を引き継いで衆議院に回り、関谷は塩崎の代わりに参議院に回って、衆議院議員に復帰する。同年末の加藤の乱では、当時宏池会(加藤派)所属であったことから加藤紘一に同調し、森内閣不信任案に賛成する決意を固めるが、思い通りの賛同者が集まらず頓挫。石原伸晃と共に加藤を痛烈に批判し、以降は無派閥となった。
続く小泉内閣では「加藤の乱」に連座した議員の復権が目立ち、塩崎の要職就任も再三取り沙汰されたが、重用された石原伸晃とは対照的に目立った活躍は無かった。2005年(平成17年)になって、加藤の乱後に分裂した宏池会の反加藤グループである堀内派(現・古賀派)に入会。同年、第3次小泉内閣の外務副大臣に就任。
2006年(平成16年)9月、古くからの盟友関係にある安倍晋三が総理大臣に就任すると、内閣のスポークスマンである内閣官房長官に就任し、初入閣を果たした。安倍首相(町村派)と塩崎官房長官(古賀派)は出身派閥が異なるが、自民党内閣において首相と官房長官の出身派閥が異なるのは1989年の宇野宗佑首相(中曽根派)と塩川正十郎官房長官(安倍派)以来である。
[編集] 人物
- 会見などで英単語を多用するその姿勢から、インテリ長官と呼ばれている。ニックネームはその強気から「英語のできる橋竜」。
- 高校時代にAmerican Field Service(AFS)で1年間のアメリカ留学を経験。帰国して一つ下の学年に所属したことから、坂本龍一と同級となり親しくなったという。当時、「どうせ、おまえはそのうち自民党の代議士になるんだろうから、そのときは応援に行ってやるよと」坂本龍一に言われた。つまり、この頃から議員になるのは既定路線だったといえよう。
- その坂本龍一とは、女性問題で数年間、袂を分かっていたが、坂本のアカデミー賞受賞時に和解した。
- 高校時代は社会科学研究部(中核派)に所属し、砂川にデモに行くなど活動した([2])。高校卒業後は一浪し、駿台予備校に在籍。その間、浪共闘(全国浪人共闘会議)にて学生運動に参加していた。
- 「父の代わりに担がれただけで国会議員なんてやりたくなかったし、嫌嫌だった。一番批判されるべき対象の典型的な二世議員でした。もちろん、今は本気です。」と自らTVのインタビューで昔を振り返っている。
- 座右の銘は、「泰山は土壌を譲らず」(司馬遷の『史記』李斯列伝)。
- 妻・塩崎千枝子は学生時代の同級生で松山東雲女子大学教授。山梨県甲府市出身。
[編集] 不祥事
- 政治家の年金未納問題に伴い、3年4ヶ月の未払い期間があることを公表した。
[編集] 著訳書
- ロバート・ライシュ他『アメリカの挑戦』(中岡望らとの共訳 東洋経済新報社)
- スヴェン・スティンモ『税制と民主主義―近代国家の財政を賄うためのスウェーデン・イギリス・アメリカのアプローチ』(塩崎潤と共訳 今日社刊)
- 『日本復活 「壊す改革」から「つくる改革」へ』(プレジデント社刊)
- 『日本経済起死回生トータルプラン』(石原伸晃、根本匠、渡辺喜美らとの共著 光文社刊)
- その他雑誌論文等多数。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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