後藤田正晴
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後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年(大正3年)8月9日 - 2005年(平成17年)9月19日)は、日本の政治家(元衆議院議員)、警察官僚。警察庁長官、中曽根康弘内閣の内閣官房長官・行政管理庁長官・総務庁長官、宮澤喜一内閣の副総理・法務大臣などを歴任し、「カミソリ後藤田」、「日本のアンドロポフ」の異名を取った。位階勲等は正三位勲一等。
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[編集] 生い立ち
1914年(大正3年)8月9日、徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市美郷)に生まれる。後藤田家は、15代続く庄屋の家柄で、父親の後藤田増三郎は、自由党の壮士として出発し、徳島県議会議員、麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。1921年(大正11年)に腎臓病で父を、1923年(大正13年)に母を相次いで失い、姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた。
富岡中学を経て、1932年(昭和7年)に旧制水戸高等学校に入学。1935年(昭和10年)に東京帝国大学法学部法律学科に入学(1学期修了後に政治学科へ転科)した。1938年(昭和13年)に高等文官試験に合格し、翌1939年(昭和14年)に東京帝大法学部を卒業すると、内務省に入省した(大下英治の著作によれば、当初は南満州鉄道が第一志望であったが、入社試験日を間違えたため断念したとのこと)。
[編集] 官僚時代
内務省では、土木局道路課に配属される。翌1940年(昭和15年)1月に富山県警察部労政課長に出向。3月に陸軍に徴兵され、4月に台湾歩兵第二連隊に陸軍二等兵として入営し、5月に台湾歩兵第一連隊に配属される。内務省の高等官であった点と、甲種幹部候補生に合格したために、陸軍軍曹、翌1941年10月には陸軍主計少尉に任官された。1945年(昭和20年)に主計大尉で終戦を迎えると、台湾に中国国民政府軍が進駐し、翌1946年(昭和21年)4月まで捕虜生活を送った。
同年5月 内務省に復職し、神奈川県経済部商政課長、10月 本省に戻り地方局に配属された。又、同時期内務省職員組合委員長となる。1947年(昭和22年)8月の警視庁保安部経済第二課長をきっかけに主に警察畑を歩み、内務省廃止後は警察庁の官僚となった。
1949年(昭和24年)3月、東京警察管区本部刑事部長。1950年(昭和25年)8月、警察予備隊本部警務局警備課長兼調査課長。1952年(昭和27年)8月、国家地方警察本部警備部警邏交通課長。1955年(昭和30年)7月、警察庁長官官房会計課長。1959年(昭和34年)、自治庁税務局長の小林與三次らの引きで、自治庁長官官房長、税務局長を歴任した。
その後、自治事務次官となった小林の慰留を振り切って、1962年(昭和37年)5月に警察庁に復り、長官官房長、警備局長、警務局長、警察庁次長を経て、1969年(昭和44年)警察庁長官に就任した。長官時代は、よど号ハイジャック事件(よど号乗っ取り事件)を始め、極左過激派による、テロ、ハイジャック、浅間山荘事件、爆弾事件などの処理に追われた。この頃の部下の一人が、後に初代内閣安全保障室長を務める佐々淳行である。佐々の著作によれば、当時要人テロを警戒して護衛をつけて欲しいと再三促されたが、「有り難う。でも私は結構」と かたくなに断り続けたという。1972年(昭和47年)に警察庁長官を辞任した。同年7月、田中角栄内閣の内閣官房副長官(事務)に就任。田中の懐刀として辣腕を揮った。
[編集] 政治家時代
政界に進出すべく、1974年(昭和49年)7月の参議院議員通常選挙に、郷里の徳島選挙区から立候補する事を決めた。しかし、徳島地方区には、現職に田中内閣の副総理であった三木武夫の城代家老と言われた久次米健太郎がいた事から、問題が複雑になる。自民党公認を巡り、調整の結果、後藤田が公認を得たが、これに三木陣営が反発。選挙戦は田中、三木の代理戦争「徳島戦争」と呼ばれる熾烈なものとなった。選挙戦は、当初、後藤田に有利と見られたが、結果は、久次米19万6210票に対し、後藤田は15万3388票で敗北した。更に強力な後ろ盾であった田中角栄も、金脈問題をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継総裁に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。
1976年(昭和51年)の衆議院議員総選挙に徳島全県区(当時)から立候補し、三木武夫と直接対決となった。6万8990票を獲得し、三木に続く2位当選を果たした。この頃、徳島の闇社会のドンである山口組の尾崎彰春を評して、「尾崎君は紳士だ」と警察官僚のトップにいた後藤田が発言したとして、世人の眉を顰めさせた。以後、自民党田中派に所属し、田中の庇護の下、当選回数が少ないにも拘らず、顕職を歴任した。
自民党総裁予備選挙では、東京都の自民党員に対してローラー作戦ともいうべき選挙戦の指揮を執り、優勢と見られた現職の福田赳夫を破り、大平正芳内閣を成立に導いた。1979年(昭和54年)11月、第2次大平内閣の自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官として初入閣した。この時、僅当選2回で、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった。
1982年(昭和57年)11月、首班指名を受けた中曽根康弘に請われて、第一次中曽根内閣で内閣官房長官に就任し、内外を驚かせた。この人事は、巷間、ロッキード判決に備えた田中角栄に押し切られたものと受け止められ、第一次中曽根内閣は、田中派の閣僚が後藤田も含めた6名に上ったことから「田中曽根内閣」と諷刺されたが、事実は、中曽根本人の強い求めによるものであった。当初、後藤田は、『今まで”君付け”していた者の下には就けない』(内務省入省年次では昭和14年入省の後藤田は、昭和16年入省の中曽根より先輩に当たる)と就任に難色を示していた。しかし、中曽根は、自派の人材難に加え、行政改革の推進と大規模災害等有事に備え、官僚機構の動かし方を熟知し、情報収集能力を持つ後藤田を必要とした。更に、長期的な視野で見れば田中派に対して中曽根が打ち込んだ楔でもあった。こうして、官房長官となった後藤田は、1983年(昭和58年)1月の中川一郎の自殺事件や、同年9月のソ連軍による大韓航空機撃墜事件、三原山噴火による住民の全島避難の際に優れた危機管理能力を発揮して、首相・中曽根を支えた。中国に対する太いパイプをもち、当時の中国共産党首脳が比較的親日的なこともあり官房長官在任中の日中関係は靖国神社公式参拝や光華寮訴訟に関する摩擦もあったが総じて比較的良好な状態だった。
中曽根内閣が最大の課題とした行政改革では、行政管理庁長官、新設された総務庁長官として3公社民営化などを推進した。1986年(昭和61年)7月、第三次中曽根内閣で官房長官に再任され、単なる官房長官を越えた「副総理格」と見なされた。イラン・イラク戦争終結に当たり海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣する問題が浮上した際には、猛烈に反対し中曽根に派遣を断念させ、中曽根に物を言える存在である事を印象付けた。後藤田は中曽根内閣5年間で唯一閣僚の座を占め続けた。
こうした後藤田の重用は、自民党内、なかんずく出身母体の田中派の議員から嫉視を持たれた。後に首相となった橋本龍太郎は、当選回数が自分より遥に少ない事から、一時期「後藤田クン」と呼んでいたと言われる。これに加え、田中派が膨張策を取り、外様の議員が幅を利かせるようになり、元来田中直系ともいうべき、小沢一郎、梶山静六、羽田孜、渡部恒三ら中堅若手は、世代交代を標榜する竹下登と金丸信を担いで創政会を旗揚げした。その中で、田中は脳梗塞で倒れる。後藤田は、田中派が竹下登派と二階堂進グループに分かれた際は、どちらにも与せず無派閥となる。
竹下内閣成立後は、暫く表舞台から退くが、リクルート事件が発覚し、軒並み派閥領袖が逼塞を余儀なくされる中、伊東正義、福田赳夫、河本敏夫、坂田道太らに加えて、後継総裁候補の一人として名前が上る。海部俊樹内閣では、自民党政治改革推進本部の本部長代理となり、本部長の伊東正義と共に小選挙区制実現に執念を燃やした。この時は、結局、自民党内の改革慎重派の動きによって実を結ばなかったが、武村正義や北川正恭など三塚派若手を中心とした改革積極派との間に強い信頼関係を築き、後に自民党下野の際、後継首班候補として名前が挙がる背景となる。
宮澤喜一改造内閣で法務大臣に就任した。1993年(平成5年)4月、副総理兼外務大臣の渡辺美智雄が病気のため辞任すると、法相としては異例とも言える副総理兼務となるなど、大物大臣として閣内における存在感を示した。この間、再審請求中の死刑囚を処刑するなどして物議を醸した。しかし、政治改革をめぐり宮澤内閣不信任が可決。解散総選挙の結果、自民党は過半数割れとなり、後継首班として、三塚博を中心に後藤田の出馬をめざす動きがあったが、新生党の小沢一郎に機先を制され、細川護熙を首相とする非自民連立政権が成立した。自民党下野後、党総裁に後藤田が最も寵愛していた河野洋平が就任し、その指南役を務め、自民党の最高実力者となった。
[編集] 政治家引退後
1996年(平成8年)の総選挙には、高齢のために出馬せず引退し、第一線を退いた。その後も政治改革、行政改革、外交、安全保障問題などで積極的に発言した。
一方、河野洋平を溺愛し与党の対中外交を裏で操りつつ、扶桑社の新しい歴史教科書の採択では反対の立場を貫いた。
イラク戦争における自衛隊派遣に反対した。小泉純一郎内閣に対して「過度のポピュリズムが目立ち、危険だ」と批判した。
かつての部下である佐々淳行が現首相の安倍晋三を誉めた際、「あれには岸信介のDNAが流れている。君は岸の恐ろしさを分かっていない」という趣旨の発言をしたとされる。また、佐々の著書によると、後藤田は政治家引退後も国家的、国際的な安全保障、災害事象が起きると現役の首相など、政権中枢にアドバイスを与えていた他、佐々などかつての部下を首相官邸に送り込んで処理の補助を行わせていた。
晩年の上記の発言などに対する右派からの批判に対し、後藤田は自分は保守的な政治家であるとし「自分が左派扱いされるのは、日本が右傾化し過ぎているのではないのか」と反駁した。
[編集] 後藤田五訓
中曽根内閣で創設された内閣官房6室制度発足の場で、内閣官房長官の後藤田が、部下である内閣内政審議室、内閣外政審議室、内閣安全保障室、内閣広報官室、内閣情報調査室の各室長等に対して与えた訓示を、「後藤田五訓」という。長年 後藤田に仕え、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行が自著に記したことで世に明らかとなった。内容は次のとおり。
- 一、出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
- 二、悪い本当の事実を報告せよ
- 三、勇気を以って意見具申せよ
- 四、自分の仕事でないと言うなかれ
- 五、決定が下ったら従い、命令は実行せよ
部下の心得として有名な名文であるが、佐々によれば、この五訓の反対は事なかれ主義であるという。官界の現状もその状況に近いと佐々は語るが自身も四番目の「自分の仕事でないと言うなかれ」に関しては正反対の典型であった(内閣安全保障室長時代、自ら仕事を放棄して自室で新聞だけ読んで帰ったことがしばしばあったという)。
[編集] 中曽根総理大臣の靖国神社公式参拝中止時の官房長官談話
「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」
[編集] その他
- 当時政局の焦点となっていたロッキード事件公判の前日の官房長官記者会見で「ときに、裁判のある日はいつでしたかね」
- 官房長官就任に際し、中曽根は田中にトイレで「後藤田を貸してもらえませんか?」と交渉したらしい(佐々淳行の著書に、中曽根本人の談として記載がある)。
- 官房長官当時に発生したビートたけしフライデー襲撃事件について、「“ビート君”の気持ちはよくわかるが、暴力はいけない」
- 1993年(平成5年)、村山富市が社会党委員長になった時、「自衛隊について社会党と意見の違いはあるけど、自衛隊が武装して海外に出ていくことには反対しなければならない。その点は同じ考えです”と話された。自衛隊の海外派遣や集団自衛権の行使など、憲法が認めないことがなし崩しになることに危惧を抱いていた」と評価していた。
- 宿願は内務省の復活であった。
[編集] 栄典
[編集] 親族
[編集] 著作
- 『政治とは何か』(講談社, 1988年) ISBN 4062026511
- 『内閣官房長官』(講談社, 1989年) ISBN 4062047276
- 『支える動かす 私の履歴書』(日本経済新聞社, 1991年) ISBN 4532160154
- 『政と官』(講談社, 1994年) ISBN 4062072262
- 『情と理――後藤田正晴回顧録』上・下(講談社, 1998年/講談社+α文庫,副題を「カミソリ後藤田回顧録」に改題, 2006年)
- 『後藤田正晴の目』(朝日新聞社, 2000年) ISBN 4022575298
[編集] 関連書籍・作品
- 保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』(文春文庫, 1998年) ISBN 4167494043
- 佐々淳行『わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト』(文春文庫、2002年)ISBN 4167560097
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