大矢明彦
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大矢 明彦(おおや あきひこ、1947年12月20日 - )は、プロ野球選手・監督、野球解説者。現役時代はヤクルトアトムズ・ヤクルトスワローズで捕手として活躍し、引退後は横浜ベイスターズの監督を務め、2007年より再び横浜の指揮を執る。血液型O型
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[編集] 来歴・人物
東京都出身。早稲田実業学校高等部、駒沢大学(後に広島、巨人の打撃コーチとなる内田順三は同期)から1969年ドラフト7位でヤクルトに入団(背番号:32→27。27は後に古田敦也がつける)。ヤクルトの正捕手として長くレギュラーに定着した。
強肩には定評があり、「殺し屋」の異名をとった。ゴールデングラブ5度獲得。1985年現役引退。1986年から1992年までは、フジテレビ・ニッポン放送の野球解説者。1988年から1989年までは「プロ野球ニュース」の週末キャスターを務めた。その後、1993年から1995年まで横浜バッテリーコーチを務め、ドラフト1位で入団しながら伸び悩んでいた谷繁元信を、攻撃・守備ともにリーグを代表する捕手に育て上げた。
1996年より近藤昭仁監督の後を受けて横浜監督に就任した。就任早々、三塁手だった石井琢朗を遊撃手に、遊撃手だった進藤達哉を二塁手に、二塁手だったローズを三塁手へと入れ替える内野総コンバートや、当時絶対的な信頼を誇る中継ぎであった盛田幸妃の先発転向など思い切った改革を進めた(結果として、石井は遊撃のレギュラーとして定着したものの他の選手、特に盛田とローズに関しては失敗に終わった〔その後、ローズは二塁手に戻り、進藤が三塁手となった〕)。
1997年にはバッテリーチーフコーチとして権藤博を招へいして中継ぎ(五十嵐英樹、島田直也など)、抑え(佐々木主浩)のリリーフ陣を重視した投手陣整備を行い、さらにはマシンガン打線と名付けられた強力な打線の活躍もあり、37年ぶりのリーグ優勝まであと一歩というところまで首位のヤクルトを追い詰めた。しかし、シーズンオフにチーフコーチの弘田澄男を解任したことに反対し、フロントと対立。満期を迎えた契約は更新されず、惜しまれながらもこの年限りで退任する。
大矢がコーチ・監督時代に育て上げた戦力が1998年横浜日本一の中心となったという評価がある一方、その戦力は全て近藤によって育てられたものであり、大矢がやったことは大幅な内野コンバートなど十分な戦力を持ちながら近藤の路線を変えようとして混乱させただけという批判もある。辞任後、1998年からフジテレビ・ニッポン放送の解説者に復帰した。次女・陽子は2004年~2005年に横浜の2代目オフィシャル・リポーターを務めており、同球団のウェブサイトにコラムを掲載していた。
2006年9月に牛島和彦監督の辞任が報道され、後任監督の第一候補と報道された。その後就任要請を承諾し、2006年10月16日、正式に再び横浜の監督への就任が発表された(10年ぶりの現場復帰)。この時にここ2年間、不振の続く鈴木尚典の再生、「どんなに打てても、守れない選手は使わない」と守備力の向上を目標に挙げた。
[編集] エピソード
- いしいひさいちの漫画「がんばれ!!タブチくん!!」には彼をモチーフとしたと思われるキャラクター「オーヤくん」が登場し、安田猛がモデルの「ヤスダ」とバッテリーを組んでいた。
- 現役時代の敵地球場での大矢に対する野次は、その名前から「大家が悪い~大家が悪い~」というものだった。昔は借家に住む人が多く、家賃を取り立てたり色々説教をする大家が嫌われたことが理由だが、近年家賃は銀行振り込みが多く、この大家という言葉自体もあまり使われなくなった。
- 解説者時代にフジテレビのものまね王座決定戦で審査員を務めた際にあるタレントが演じたものまねの上手さを賞賛して思わず「本物よりそっくりなのでビックリしました」とコメントしてしまった。
- 現在、フジテレビ739で放送されている「CS・プロ野球ニュース」の金曜日司会を務めている。番組コーナーに「大矢明彦のインテリジェントベースボール」があるが、自分で自分のことを「インテリ」と言うのが気恥ずかしいのか、コーナー名を自ら言うことは無い。
- 現役時代、コーチ・監督時代を通じて、球審の特徴やクセを把握し、ゲームに活かすのが上手だった。松岡弘、安田などヤクルトの投手が活躍した陰には、彼の功績が大である。
- 温厚な人柄ではあるが、頑固一徹な側面もある。横浜監督1年目の1996年のオフに球団がヘッドコーチ格の弘田澄男を更迭しようとした時、大矢は一旦球団に辞表を提出している。その後、弘田の更迭は中止となって大矢は続投する事となった。翌年に改めて弘田が解任され、大矢も再度抗議したため、結局両者とも球団を去ることになった。
- テレビ・ラジオの解説で、凡プレーに対しては「解説する気にもなりませんよ」と、結構辛らつである。
- 二度目の横浜監督就任時の背番号は第一次横浜監督時代にバッテリーコーチを務め、前年に白血病で死去した小山昭吉の85番になった。
- 駒澤大学野球部の出身者でプロ野球監督になったのは、大矢が第一号である。
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 |
打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 | ヤクルト | 93 | 255 | 17 | 52 | 10 | 1 | 6 | 27 | 1 | 9 | 0 | 17 | 43 | .204 |
1971年 | ヤクルト | 127 | 377 | 29 | 87 | 16 | 3 | 10 | 40 | 2 | 18 | 5 | 32 | 39 | .231(23) |
1972年 | ヤクルト | 120 | 361 | 44 | 97 | 24 | 2 | 5 | 40 | 6 | 15 | 4 | 36 | 33 | .269(19) |
1973年 | ヤクルト | 121 | 355 | 28 | 67 | 8 | 2 | 7 | 21 | 3 | 10 | 3 | 25 | 46 | .189 |
1974年 | ヤクルト | 130 | 431 | 31 | 103 | 20 | 0 | 13 | 41 | 6 | 6 | 4 | 30 | 44 | .239(26) |
1975年 | ヤクルト | 130 | 436 | 27 | 106 | 17 | 0 | 9 | 43 | 2 | 0 | 4 | 26 | 38 | .243(29) |
1976年 | ヤクルト | 122 | 408 | 30 | 93 | 17 | 1 | 7 | 42 | 4 | 9 | 1 | 36 | 29 | .228(32) |
1977年 | ヤクルト | 85 | 282 | 28 | 71 | 14 | 1 | 8 | 29 | 1 | 4 | 4 | 18 | 30 | .252 |
1978年 | ヤクルト | 118 | 365 | 44 | 98 | 13 | 0 | 7 | 44 | 2 | 13 | 3 | 27 | 29 | .268(32) |
1979年 | ヤクルト | 100 | 321 | 26 | 87 | 10 | 0 | 6 | 31 | 6 | 4 | 1 | 16 | 32 | .271 |
1980年 | ヤクルト | 110 | 368 | 35 | 104 | 15 | 3 | 8 | 50 | 1 | 4 | 4 | 28 | 32 | .283(16) |
1981年 | ヤクルト | 82 | 213 | 21 | 47 | 8 | 3 | 2 | 23 | 2 | 9 | 2 | 10 | 18 | .221 |
1982年 | ヤクルト | 81 | 247 | 16 | 67 | 9 | 0 | 1 | 18 | 3 | 2 | 3 | 19 | 25 | .271 |
1983年 | ヤクルト | 66 | 150 | 12 | 39 | 5 | 1 | 2 | 20 | 1 | 5 | 2 | 21 | 16 | .260 |
1984年 | ヤクルト | 50 | 77 | 10 | 23 | 1 | 1 | 2 | 9 | 1 | 4 | 0 | 8 | 6 | .299 |
1985年 | ヤクルト | 17 | 19 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | .158 |
通算成績 | --- | 1552 | 4665 | 399 | 1144 | 188 | 18 | 93 | 479 | 41 | 113 | 40 | 349 | 466 | .245 |
[編集] タイトル・表彰
- ベストナイン 2回(1978年、1980年)
- ゴールデングラブ 6回(1972年、1975年~1978年、1980年)
- オールスター出場 7回(1971年、1972年、1974年、1975年、1978年~1980年)
[編集] 背番号
- 32(1970年)
- 27(1971年~1985年)
- 75(1993年~1995年)
- 81(1996年~1997年)
- 85(2007年~)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996年 | 平成8年 | 5位 | 130 | 55 | 75 | 0 | .433 | 22 | 85 | .270 | 4.67 | 49歳 | 横浜 |
1997年 | 平成9年 | 2位 | 135 | 72 | 63 | 0 | .533 | 11 | 105 | .273 | 3.70 | 50歳 |
- ※1 1996年は130試合制
- ※2 1997年から2000年までは135試合制
- 監督通算成績 265試合 127勝138敗0分
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。
[編集] 外部リンク
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85 監督 大矢明彦 | 72 弘田澄男 | 71 波留敏夫 | 77 斉藤明夫 | 75 野村弘樹 | 82 進藤達哉 | 73 青山道雄 | 84 秋元宏作 | 98 片平保彦 | 87 塚原賢治 | 70 ジョン・ターニー | 76 二軍監督 田代富雄 | 78 高木由一 | 80 中根仁 | 74 吉田篤史 | 83 武藤潤一郎 | 81 万永貴司 | 90 井上純 | 86 中村武志 | 93 三浦正行 | 89 谷川哲也 | 95 平野元章 |
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