孫堅
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孫堅(そんけん、 Sun Jian 155年または156年 - 191年または192年)は中国後漢末期の軍人・政治家、呉の祖。字(あざな)は文台、呉郡富春の人。家系は孫氏。春秋時代の兵家である孫武の子孫と伝えられている。ただ、孫堅の父祖に関する記述が一切ないため、その信憑性は低い。孫策、孫権、孫翊、孫匡、孫朗、孫夫人(孫尚香)の父である。兄に孫羌、弟に孫静がいる。諡は武烈皇帝。
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[編集] 経歴
[編集] その出自
彼の父を初めとして、どのような家柄の生まれであったかは不明である。ただ、南朝宋代に書かれた『異苑』と言う書物によると、瓜売りをしていた孫鍾という人物が孫堅の父とある。また、同じく南朝宋の文献と見られ、孫鍾が記述された『幽明録』(現在は散逸)にもその名が記載されているという。さらに、東晋の裴啓が著した『裴子語林』にも孫鍾の事項が記されているともいう。
孫堅が17歳の時、立ち寄った銭唐において、海賊が略奪を行っている状況に遭遇する。それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍を指揮して、海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは、大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。
[編集] 各地で反乱鎮圧
司馬になった孫堅は、会稽郡で起こった許昌(地名ではなく人名。皇帝を名乗った宗教指導者)の乱の鎮圧に乗り出す。この時代、江東一帯には、宗教勢力がいたるところに存在していた。この乱の鎮圧後、孫堅はその功績により、いくつかの県の次官を歴任したが、その間、自らの軍団の強化に努める。
184年、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は、漢王朝の中朗将であった朱儁の下で参戦。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南、潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、西南方面の官軍を率いて大勝利を収めている。
『呉書』程普伝によると、孫家三代に仕え、孫軍団の中核を担う程普は、この黄巾軍討伐の間に孫堅の軍団に参加している。
186年、昇進すると同時に、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。
当初、反乱鎮圧には中朗将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。 董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。 後日、董卓はこの事をいずこからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。
涼州から戻ると、孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、乱を鎮圧した。
『呉書』黄蓋伝、朱治伝によると、数年後に孫策に率いられ、軍団の勢力拡大に貢献する丹陽の朱治や、赤壁で偽降の計で曹操を欺いた零陵の黄蓋は、孫堅が各地を転戦している間に配下となったとされる。
このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化しはじめる。
[編集] 董卓との戦い
この頃、洛陽では、董卓が実権を握る。少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなど、横暴を行った董卓に対し、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。
孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過する際、董卓への反意を表明していた荊州刺史王叡を殺害する。董卓を討つため洛陽へ進軍中の孫堅が、同じく董卓を討つ為に決起した王叡、しかも、長沙の太守である孫堅にとっては上司にあたる彼を殺害した理由について、正史での言及は成されていない。(※1)
次には南陽郡太守の張咨も障害とみて、やはりこれを殺害する。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、予州刺史を領させた。
この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅の率いる軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れて脱落した後も、孫堅軍は董卓軍に挑み続け、董卓配下の華雄の首を挙げるなどの戦果をあげていった。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李カクを使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅がこれを受け入れないと分かると遷都を決断。洛陽の町家や陵墓を荒らした後に焼き払って西へ逃れた。孫堅は洛陽に入ると、陵墓を修復し、荒らされた箇所を塞いでから再び魯陽の袁術のもとに帰還した。(なお、「江表伝」によれば洛陽復旧の際、孫堅が伝国璽を見つけたという逸話があるが、真偽は不明である)
[編集] 江東の虎散る
反董卓連合軍が事実上瓦解すると、そのうち盟主である袁紹と、袁術が対立し始めると、諸国はこの争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。初平三年(192)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。(劉表はもともと朝廷から、孫堅が殺害した王叡の後任として荊州刺史の詔勅を受け取っていたが、着任を袁術に阻まれたことで襄陽へ逃れ、のちに袁紹と結んだ)
孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺で黄祖の部下が放った矢に当たり、そのまま絶命した。享年37であった。
これにより孫堅軍は瓦解し、敗残の将兵は袁術軍に吸収されることとなった。この後、やがて長子である孫策が袁術から独立し、彼の事業を継ぐ事になる。
[編集] 追記
※1『呉録』によると、王叡殺害は、おおむね以下のような背景・流れで行われたとされる。
- ・王叡は董卓を討つ義兵を起こす前、孫堅が荊州南部で反乱鎮圧を行っていた頃から、彼を武辺者と侮って、言葉による辱めを与えていた
- ・王叡は、孫堅と同じく自身の指令系統下部に属する、武陵太守の曹寅と仲が悪く、「董卓よりも先に、まずは曹寅を殺してやる」と放言していた
- ・王叡の言葉に恐れをなした曹寅は、公文書を偽造して、孫堅に対して王叡を討てとの朝廷の命令が下ったかのように計った
- ・曹寅が偽造した命令書を受け取った孫堅は、すぐさま兵士を率いて王叡の城を包囲した
- ・王叡は、城が孫堅の兵士に囲まれていると知ると、城を囲む兵士の一人に用向きを聞き、物資を必要としていると知ると、兵士達を城に招き入れてしまう
- ・兵が至近に近づいた時に、はじめて孫堅の姿を確認した王叡は、孫堅に対して、兵士達の監督が行き届いていないとなじる
- ・孫堅は王叡の言葉に対して「朝廷の命によって王叡を殺しに来たのだ」と告げる。「自分に何の罪があるのだ」と叫ぶ王叡に対し、孫堅は「ご自分が今、どのような状態にあるか分からない事が罪なのだ」と答える
- ・王叡、進退窮まり、金を飲み込んでの服毒自殺
[編集] 孫堅の没年と死因
孫堅の没年と死因については、陳寿の『三国志』や裴松之が掲載した注釈、あるいは後の史書類によって異同が見られる。以下、列挙する。
- 陳寿の本文
- 初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。『三国志』劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。
- 孫破虜伝・注『典略』
- 没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北。茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺。
- 孫破虜伝・注『呉録』
- このとき37歳。本項では以上の3説を概ね採用した。
- 孫破虜伝・注『英雄記』
- 初平4年(193年)正月7日に逝去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。死因については『三国志演義』に採用された。なお、三国志演義では初平2年11月に死亡したとする。
- 孫討逆伝・注『呉録』内、孫策の上表
- 孫堅が死んだとき、孫策は17歳だったと記載している。
- 孫討逆伝内・裴松之の考察
- 孫策の享年(26歳)から逆算すると、初平3年のとき孫策は18歳であったはずであり、『呉録』上表の記述と一致しない。また、『漢紀』と『呉歴』はそれぞれ初平2年(191年)に死亡したと記述しており、こちらが正しく本伝は間違っていると断定する。
- 『後漢書』孝献帝紀
- 初平3年、界橋の戦い(袁紹と公孫瓚との戦い)の前に記載。董卓の死はさらにその後である。
- 『資治通鑑』巻60・漢紀52
- 初平2年の条に記載。