春風亭柳朝
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春風亭 柳朝(しゅんぷうてい りゅうちょう)は江戸噺家の名跡。
- 初代春風亭柳朝 - 後の2代目春風亭柳枝。
- 2代目春風亭柳朝 - (1842年11月 - 明治?)最初は2代目入船米蔵の門で扇風、扇之助、2代目春風亭柳枝の門で桃枝から2代目春風亭栄枝、1880年に2代目襲名、1887年地方巡業中に死去。
- 3代目春風亭柳朝 - (1852年1月25日 - 大正末期頃)最初初代談洲楼燕枝の門で4代目柳亭傳枝、初代春亭燕柳、3代目春風亭柳枝の門で右柳、その後三遊派に出向き三遊亭圓朝の門で初代桃多楼團語、三遊亭圓玉となった後初代三遊亭圓遊(ステテコの圓遊)の門で紫遊となり1895年1月に6代目土橋亭里う馬となった。また柳派に戻り1899年5月4代目を襲名。芝居噺を得意とし道具仕立てで演じている。芝口一丁目(現在の新橋一丁目)に駕籠屋があってその名が「初音屋」でそこの長男として生まれた為「初音屋柳朝」と呼ばれた。
- 4代目春風亭柳朝 - 後の4代目柳家つばめ。
- 5代目春風亭柳朝 - 本項にて詳述。
- 6代目春風亭柳朝 - 当代。2007年3月に真打昇進と同時に襲名。本項にて記述。
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[編集] 5代目
5代目春風亭 柳朝(1929年10月29日 - 1991年2月7日)は、落語家。本名は大野和照(おおのかずてる)。生前は落語協会所属。
中学在学中に志願して海軍入隊、その後は職を転々とし1950年、8代目林家正蔵(後の彦六)に入門、林家小照(こてる)。1951年に一度は転職するも翌年、再入門して、林家正太。1953年、二つ目に昇進し、初代林家照蔵に改名。1962年、5代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進。彦六一門の総領弟子。弟弟子に2代目橘家文蔵、7代目春風亭栄枝、林家木久蔵、5代目はやしや林蔵、3代目八光亭春輔、三遊亭好楽、3代目桂藤兵衛、2代目林家時蔵、林家正雀、後に紙切り転向した2代目林家正楽等がいる。1960年代はテレビ・ラジオでも顔を売り、7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目三遊亭圓楽と共に「落語四天王」と呼ばれた(高座メインに戻ってからは5代目月の家円鏡に「四天王」を取って代わられる場合も)。
1982年1月に師匠彦六が死去した同年12月に脳梗塞で倒れ、高座復帰できぬまま1991年に死去。享年61。
[編集] エピソード
- 亭号が「春風亭」になったのは、師匠正蔵が正蔵の名跡を一代限りで7代目遺族である3代目林家三平より借り受けていた為、三平に配慮して自分の弟子が真打昇進時は他の亭号に変えさせる事としたもの。この為、正蔵は柳朝の名をわざわざ6代目春風亭柳橋から貰い受けて襲名させた。
- 立川談志の前座時代、最も辛く当たった先輩であり、談志曰く「よく苛められた」らしい。しかし、当の柳朝は「そんなに苛めたかな」と記憶に無かった様である。
- 笑点の正月特番師弟大喜利に出演した事もある。1979年の師弟大喜利は、師匠正蔵が旅行で不在だった為、師匠正蔵の代理で弟弟子木久蔵の師匠として参加した。1981年の師弟大喜利では、師匠彦六は木久蔵の師匠として、柳朝は弟弟子林家九蔵(現:三遊亭好楽)の師匠として参加した。
[編集] 一門弟子
※一時的に師匠彦六の死後、まだ二つ目だった弟弟子時蔵を預かるが、自身の病状の悪化により、木久蔵門下に移す。
[編集] 関連項目
[編集] 6代目
6代目春風亭柳朝(1970年8月28日 - )は、落語家。本名は谷田 正宏(たにだ まさひろ)。落語協会所属。
[編集] 真打昇進披露興行、口上・主任日
- 鈴本演芸場- 夜席の3月24日(土)・3月28日(水)
- 新宿末廣亭- 夜席の4月3日(火)・4月6日(金)
- 浅草演芸ホール- 昼席の4月13日(金)・4月18日(水)
- 池袋演芸場- 昼席の4月21日(土)・4月26日(木)
全体としては2007年3月21日から4月30日まで行う。 尚、各寄席で入場料が異なるので該当の寄席の公式サイトを参照のこと。
[編集] 出典
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X