三遊亭圓楽 (5代目)
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5代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1933年1月3日(ただし、実際は1932年12月29日であり、1月3日は出生届の提出された日である) - )は、東京都台東区生まれの落語家。実家は日照山不退寺易行院(通称助六寺)。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型はAB型。かつて演芸番組『笑点』(日テレ)の回答者・司会者を務めていた事で知られる。身長177cm。
若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝死去後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は「元禄花見踊り」。
2007年2月25日に落語会「国立名人会」の後の記者会見で現役引退を表明した。圓楽はこの高座に自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだが、口演後、その出来に納得がいかずに引退を決意した。弟弟子圓窓が説得をしたもの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていない事から、この日演じた『芝浜』が最後の演目となる模様。
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[編集] 主な人柄、経歴
- 幼い頃は病弱で、腎炎、結核との闘病を経験する。
- 生まれ育った寺には修行僧や使用人など年上の男性と一緒に住んでいた為、自分の父親がどの人か分かったのは5歳ぐらいだった。
- 東京大空襲にあったが、家族は一命をとりとめ、終戦後は「これからは食糧難だから農業だ」ということで父親の薦めで農業学校に入る。
- 上野で落語を見た時に「戦時中は暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。
- 落語家になって数年経っても、「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ、圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり、自殺未遂をしかけるほどだった。しかし、母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるとなんとかスランプを脱出。
- 上記の事項ではずぶの素人が「図書券が家にあるけど、どぉ?」と誘われたら最後と玄人筋が戦々恐々するほどの「雀鬼」であり事実自宅での賭け麻雀で負かした者は誰もなく必ずすっからかんになるとの事。本人曰く「ケツの毛まで抜かれる運命よ、ガハハハハ…」
- 読売ジャイアンツのファンであり、自宅にはジャビットの絵が描かれた扇子を持っている。
- 血圧はかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかないという。
- 鳥取城攻防戦で有名な吉川経家の末裔を自称している。
- 1972年6月14日に起こった日本航空ニューデリー墜落事故で、実妹を亡くしている。(事故の直前、実家の本堂で睡眠中であった際に、だれもたたいているはずのない木魚の音に目をさまさせられ、その直後に、実妹の訃報が届いたという。)
- 師匠圓生に諭されて本格的に落語を精進するまでは、バラエティータレントの一人として数多くのテレビ番組に出演していた。圓楽主演のテレビドラマ(『笑ってヨイショ!』 東映製作・日本テレビ系)まで制作された程である。また、日活の映画『ハレンチ学園』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。圓生に諭された以降は『笑点』で卒業式を行って卒業し、寄席の活動にシフトした。しかしその後も『笑点』の正月特番師弟大喜利に参加したり、NHKテレビの『お好み演芸会』のレギュラーは継続していた。
- 「星の王子さま」で売っていた時期に発売したレコード『円楽のプレイボーイ講座』は、ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。ちなみに、クレイジーケンバンドのボーカル・横山剣は少年時代にこの曲から現在に通じる音楽観、その影響を大いに受けたと語っている。更に、この頃よりアメリカのパンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。
- 「星の王子さま」時代のキャラについては「テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って」自らが意図的に演じたキャラだったと「いつみても波乱万丈」出演時に語っていた。ちなみに圓楽がタブーとしていた事の一つは「キザになってはいけない」ことだそうである。
- プロレス団体のFMWのコミッショナーも務めていたことがある。
- 本人が後に語ったところによると、1978年の落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。圓楽は圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが、当時の圓生は78歳と高齢ながらまだ現役を退いておらず、師匠に逆らい、自分が弟弟子と行動を共にすることなぞ出来ないと悟り、師匠と共に落語三遊協会を立ち上げたというわけである。もしあの当時圓生が引退していたならば、分裂はもちろん死後に第3の行動に出る事もなかったとされる。ちなみに分裂の過程では弟弟子の三遊亭好生・三遊亭さん生が残留し脱落(結果破門された)。行動を共にした三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈等の他の弟弟子は圓生の死後落語協会に復帰している。
- 立川談志から「嫌い」と公言されているが、本当の意味での仲違いはしていない模様。圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠5代目柳家小さんであったとされる(上述の分裂騒動が原因)。
- 東京都江東区東陽町に自費で寄席『若竹』を設置。「噺家の純粋培養」を企て、寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであったが、弟子達はその意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して肝心の『若竹』の出番を休んでいたりした為、これを憤った圓楽は遂に『若竹』の閉鎖を決意。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。なお、不動産会社・永谷商事が東京都江東区両国に設置した貸ホール「お江戸両国亭」では、圓楽一門による定席が執り行われている。
- 二つ目の全生時代、火事場に余興に行って「『全焼』じゃシャレにならない」として断られたことがある。
- 自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ8代目林家正蔵は、圓楽の師匠三遊亭圓生と最後までそりが合わなかったとされるが、一方で圓楽は気に入られていたため、5代目三遊亭圓楽を襲名させたとされる。なお8代目正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。「くれ」と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。
[編集] 経歴
- 1955年(昭和30年)2月 - 6代目三遊亭圓生に入門、入門当時は「三遊亭全生」(-ぜんしょう)と名乗る
- 1958年(昭和33年)3月 - 二つ目昇進。
- 1962年(昭和37年)10月 - 真打昇進で「5代目 三遊亭圓楽」を襲名。
- 1966年(昭和41年)5月 - 『笑点』放送開始。第1回より出演。
- 1969年(昭和44年)4月 - 『笑点』降板。
- 1970年(昭和45年)6月 - 『笑点』復帰。(※ 復帰の際、弟弟子三遊亭圓窓を連れて来ていた。)
- 1977年(昭和52年)3月 - 『笑点』降板。(※ 8月には弟弟子三遊亭圓窓も降板している。)
- 1978年(昭和53年)5月 - 落語協会の真打乱造問題で師匠の圓生と共に他の協会員を率いて落語協会を脱退し、「落語三遊協会」を創設。
- 1979年(昭和54年) - 圓生の死去により圓楽一門以外は全員落語協会に復帰。「大日本落語すみれ会」に名称変更。
- 1983年(昭和58年)1月 - 4代目司会者として『笑点』復帰。
- 1985年(昭和60年) - 「大日本落語すみれ会」を、「落語円楽党」、「落語ベアーズ」と次々と改称し、「円楽一門会」に落ち着く。
- 私財をなげうって東京都江東区東陽に寄席「若竹」を昭和60年3月に開くが、経営難から平成元年11月25日に閉館。
- 2005年(平成17年)5月 - 六人の会が主催した「余一会」で27年ぶりの末廣亭出演。
- 2005年(平成17年)10月 - 人工透析のため通院していた病院で脳梗塞の症状が現れたため入院。
- 2006年(平成18年) 5月14日 - 『笑点』勇退。高座復帰として9月に好楽の会で小咄、10月に鶴瓶の会で落語(『紺屋高尾』)をそれぞれ披露。
- 2007年(平成19年)2月4日 - 「第23回浅草芸能大賞」大賞。授賞式で『芝浜』を口演、本格復帰を表明。
- 2007年(平成19年)2月25日 - 国立演芸場での「国立名人会」で復帰と同じ『芝浜』を口演後、現役引退を表明。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 日本テレビ系列放送の「いつみても波瀾万丈」をもってテレビ出演を引退。
[編集] 笑点四代目司会者
歌丸やこん平ともに第1回放送からのメンバーである。1977年3月27日に落語に専念するため番組を卒業したが、1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。司会は当初は2回限りの臨時司会であった。
就任してしばらくは回答の合間にその博識を生かした都都逸をよく披露していたが、時間の短縮や、笑点大喜利のスタイルの変化から、出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。
歴代司会者としては最長寿記録を更新していたが、2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を一時降板する事となった。2006年1月1日放送の新春14時間特番「大笑点」の終盤で、久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月18日から笑点の収録に復帰したものの、やはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退した。
『徹子の部屋』(テレビ朝日、2006年6月5日放送)にて、落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また2006年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵の応援としてVTR出演した。
2007年1月1日に放送の「大笑点」では、降板後では初めてゲスト出演した。
[編集] 大喜利でのキャラクター
歌丸曰く「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、楽太郎、好楽ら弟子はもちろん他の落語家からも尊敬されているが「司会がうまい」などの皮肉も聞かれる。落語家に向かって司会がうまいと言うのは純粋な褒め言葉ではなく、裏に「落語は司会ほどうまくない」という含みがある。
- 解答者時代初期は挨拶の際「湯上がりの顔です」と言っていた。その後はおなじみ「星の王子さま・三遊亭圓楽です」に。
- 媚に弱く、解答者が圓楽を称えるヨイショを答えると「山田君、座布団持ってくるのが遅いんだよ!」や「山田君、こういう時はすぐに座布団を持ってくるもんだよ!」などと言う。
- 「ガハハ!」という豪快な笑い声が特徴で、木久蔵が与太郎(=バカ)ネタを披露すると決まって大笑いした後「バカだねぇ~」とあきれる。また、歌丸が木久蔵の与太郎(=バカ)ネタを披露されたのを嘆き「ね、ね。換えようよぉ~バカがうつるよぉ~」と訴えられると「我慢しなさい。木久ちゃんはあれが持ち味なんです。」とたしなめる。
- 外来語の発音を、「チーム(team)」でなく「ティーム」と発音するなど意識している。対して、語りではタメのある江戸言葉を交え、『笑点』でも、山田隆夫が座布団を運ぶ折に「座布団を“あげつかあさい”」(”つかあさい”→江戸言葉で「~してください」)などと軽妙に話した。
- メンバーの呼び方も、長幼の序や自分との関係を重視してか、歌丸には「歌さん」木久蔵には「木久ちゃん」こん平には「こんちゃん」と呼ぶ事があるが、他のメンバーには亭号抜きの「**さん」と呼ぶ。特に弟子の好楽・楽太郎には顕著である(司会担当当初、楽太郎は呼び捨てにしていた)。
- 指名してから名前が出るまでに(明らかに名前が出て来ない)間が空く事や新メンバー(当時はこん平の代理)の林家たい平に「誰だっけ?」と名前を忘却したことなどが大喜利のネタとされた。
- 他にも、司会奪還、居眠りや若竹などがネタとなる(特に歌丸や楽太郎、降板した今現在でも使用している)。
- オープニングで憲法改正やサマータイム導入を訴えるなど、保守派・右派的視点からの時局的発言も度々見られた。
[編集] 弟子
(香盤順)
- 三遊亭鳳楽
- 三遊亭好楽
- 三遊亭圓橘
- 三遊亭楽太郎
- 三遊亭楽之介
- 三遊亭貴楽
- 三遊亭小圓楽
- 三遊亭喜八楽
- 三遊亭五九楽
- 三遊亭楽麻呂
- 三遊亭円左衛門
- 三遊亭道楽
- 三遊亭栄楽
- 三遊亭とん楽
- 三遊亭楽春
- 三遊亭洋楽
- 三遊亭真楽
- 三遊亭竜楽
- 三遊亭良楽
- 三遊亭愛楽
- 三遊亭京楽
- 三遊亭全楽
- 三遊亭神楽
- 三遊亭上楽
- 三遊亭福楽
- 三遊亭大楽
- 三遊亭王楽(三遊亭好楽の息子、圓楽の引退に伴い最後の弟子になる。)
※現在門下のみ。孫弟子は円楽一門会を参照。
[編集] 関連項目
- 笑点
- 三遊亭圓窓(弟弟子)
- 落語家一覧
- ボンさん
- 「御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち」 著者:三遊亭圓丈(圓楽の弟弟子)
- 日本航空ニューデリー墜落事故
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