東急デハ200形電車
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デハ200形電車(デハ200がたでんしゃ)は、東京急行電鉄玉川線(玉電)に在籍していた路面電車。
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[編集] 概要
1955年(昭和30年)に製造した2車体の連接車で、車体鋼材は高抗張力鋼を使用、旧・日本海軍の航空機技術を応用したモノコック構造を採用し、軽量化をはかった。先に登場した東横線用初代5000系よりも徹底した卵形断面で、その丸味の強い形状により、利用客から「ペコちゃん」、「イモムシ」等の愛称で親しまれた。超低床車両となったが、卵型断面のためエアシリンダ可動式のドアステップを設置した。製造両数は6両で、2車体でA・Bといった区分はなされておらず、同一の車両番号である。
車輪径は510mmで、インサイドフレーム構造の台車を採用し、さらに連接台車はリンクによる操舵装置を持つ1軸台車となった。車体のみならず、足回りにおいても不要な贅肉を徹底して落とす航空機設計技術の手法を垣間見ることができる。この一軸連接台車は、スペインの当時最新鋭であった低重心高速客車Talgoを連想させたことで、鉄道愛好者から「タルゴ」という愛称も生まれた。
制御方式は電動カム軸による自動加速抵抗制御で、制動方式はHSC電磁直通式であり、ともに玉川線用の車両として初採用であるだけでなく、制動方式は東急で初採用の方式であった。
駆動装置はたわみ継手を使用した中空軸平行カルダンであるが、主電動機架装スペースの関係から、主電動機の小歯車と、車輪の大歯車の間に遊び歯車を挿入している。
連結(連接)車ということもあって、1967年合理化の一環として“連結2人のり”改造を施工したが、使用期間が短かったこともあって、他に大きな改造は施工していない。
[編集] 問題点と歴史的意義
本形式は、あまりに先進的なるがゆえに、特有の問題点も多く抱えたまま運用していた。具体的には
- 玉川線の他車がHL(単位スイッチ式間接非自動制御)、SME(非常管付直通空気制動)に統一されていた中で、電動カム軸式間接自動制御、HSC電磁直通制動であり、運転取り扱いが全く異なった。特に、発進時はカムが起動してから動き出すため、HL車よりワンテンポ遅れる傾向があった。爆発的に増加した自動車に進路を阻まれる状況では、こうした先進的高性能も不利に働くことも多かった。
- 前述の制御、制動方式の差異のほか、しばしば動作不良を起こすドアステップ、屋上に搭載した抵抗器(パンタグラフ周り以外の機器に屋上点検を要する)、低床であることからピット線に入れなければ検査困難な床下機器等、他車と著しく構造が異なることから保守に手間がかかっていた。
- 1軸連接台車が途中駅・終端駅等の折り返しスプリングポイントで横に引っ張られ、最前部、最後部に大きな反動が発生するだけでなく、まれに脱線するなどのトラブルもあった。
- 乗り心地はローリングが非常に激しく、乗客の中には本車を敬遠する者もいた。
といった状況もあってその後は増備されず、その頃既に高速鉄道化計画が存在したこともあって、増備車は車体構造やシステム的にデハ80形以前の延長といえるデハ150形となった。
航空機のYS-11、乗用車のスバル360等と並ぶ、戦後解体された軍用航空技術を民需転用した代表例のひとつということができるが、前述のような問題点の他、路面電車自体の斜陽化のため直接の後継車が現れないまま短命に終わり、決して成功したとはいえない形式である。とはいえ、1999年に世田谷線向けに300系を製造する際も本形式を参考にして設計されたといわれ、一方欧州をはじめ世界各地に急速に普及している超低床式路面電車のコンセプトをはるか以前から先取りしていた点からも、極めてオリジナリティの高い野心作といえる。実際、製造された1950年代中盤当時、特にアメリカ製車両のデッドコピーに近い車両(PCCカーそのものの東京都電5500形5501号や、ニューヨーク地下鉄のSMEE車をベースにした営団地下鉄300形など)が少なくない中で、本形式も設計に際しては米国の高性能路面電車PCCカーが強く意識されたというが、実際にはコンセプト、仕様、構造等に日本国内・海外通じ類似事例が殆ど存在しないものとなっている。
[編集] 玉川線廃止とその後
路線の大部分は国道246号の併用軌道上にあることから、道路交通量の増加と首都高速道路3号線の建設に伴い、渋谷駅-二子玉川園駅間は地下鉄方式を採用する事となった。そのため、玉川線のこの区間は1969年(昭和44年)に廃止され、残る三軒茶屋駅-下高井戸駅間は世田谷線となった。デハ200形は世田谷線にも入線可能だったが、特殊な車体構造で保守に手間がかかることから、同線に転用されることなく製造からわずか14年で全車両が玉川線廃止と共に廃車となった。
廃止後、世田谷線で使用しない車両は他形式と共に一旦旧・二子玉川園駅構内に集められ、しばらく留置の後、保存対象からも外された車両は千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)の埋立地に陸送した上で解体した。この際、トレーラーの荷台に積載するため、車体を横倒しにして運んだという。現地解体とならなかったのは、玉電との別れを惜しむ住民に対し、解体現場を見せない配慮であったといわれる。
2006年現在、デハ204号が多摩川園(現在は閉園)、田園都市線高津駅前広場、高津に存在した旧・電車とバスの博物館を経て、宮崎台駅に移転した電車とバスの博物館に保存展示している。デハ206号も、千葉県野田市の清水公園に保存していたが、後に荒廃のため解体した。