皇紀2600年奉祝曲
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皇紀2600年奉祝曲(こうき―ねんほうしゅくきょく)とは、西暦1940年に行われた、日本の紀元2600年を祝う為に作曲された曲のこと。主に、欧米各国に委嘱した曲のことを指すが、日本国内において、同様の目的で作曲された曲も含む。
目次 |
[編集] 経緯
[編集] 企画
1940年が皇紀2600年に当たることから、これを祝うためのイベントの一つとして演奏会が企画された。具体的には、「恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)と「内閣二千六百年記念祝典事務局」が考案したプランに基づくもので、『我が国と友好の厚い数カ国から「音楽で祝いたい」と言ってきた』との意向が奉祝会に伝えられたのが企画の発端であった。その後、外務省、関係国大使の斡旋などもあり、企画は順調に進んでいったが、肝心の奉祝会に音楽に精通した人間がいなかったことから、急遽音楽家やJOAKの洋楽担当者などが奉祝会のスタッフに名を連ねることになった。各国から贈られてくる楽譜の校正は山本直忠(山本直純の父)が当たり、この演奏会のために特別に結成される「紀元二千六百年奉祝交響楽団」の下ごしらえには齋藤秀雄が当たることになった。
[編集] 海外への依頼
作曲の依頼を行った国は以下の6ヶ国である。
アメリカを除く5ヶ国から以下の作曲家に依頼され、曲が提供された。
- ブリテン(イギリス、当時アメリカ在住) - シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)
- ピツェッティ(イタリア) - 交響曲イ長調
- R.シュトラウス(ドイツ)- 日本建国2600年祝典曲 作品84
- イベール(フランス、当時イタリア在住) - 祝典序曲
- ヴェレッシュ(ハンガリー) - 交響曲(第1番)
[編集] 演奏会まで
1940年5月9日、まずヴェレッシュの曲がハンガリーから帰国してきた書記官によって届けられた。続いてシュトラウスの曲が、6月11日にベルリンの日本大使館でシュトラウスから駐ドイツ大使来栖三郎に手渡された後、7月19日に到着した(ただし、オリジナルでなく写真製版されたもの)。同日、イベールの曲も到着し、それと前後してピツェッティの曲も届いた。しかし、ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」は到着が大いに遅れた。その上、「日本の紀元2600年を祝う場にふさわしくない」という理由で物議をかもし、写譜が間に合わないうちにイギリスが敵性国家になったので、結局ブリテンの名は消え、作品は演奏されなかった(委嘱料の支払いは行なわれている)。なお、ブリテンの作品に関しては、従来から「レクイエム」の名を冠したことなどについて様々なことが言われてきているが、この曲の成立にはブリテンの個人事情も絡んでおり、事情は複雑である。少なくとも一部資料に見られる「返却」は行われていない。
演奏会の練習は10月12日から2ヶ月にわたって30回も行われたが、オーケストラの規模が大きすぎて、音を合わせることすらあまりうまくは行かなかったようである(そういう観点でブリテンを外したのは仕方がないという見方もある)。
[編集] 演奏会
1940年12月7日・8日に東京歌舞伎座にて、松岡洋右ら来賓向けの招待演奏会が行われ、以下の指揮者により演奏された。
演奏会は続いて12月14日と15日に一般向けの演奏会が、12月26日と27日には大阪歌舞伎座で一般向け演奏会が開かれた。その合間を縫って12月18日と19日には放送会館第一スタジオから全国放送された(18日:イベール、ヴェレッシュ。19日:ピツェッティ、シュトラウス)。
[編集] 奉祝交響楽団について
演奏はすべて紀元二千六百年奉祝交響楽団。このオーケストラは新交響楽団、中央交響楽団、東京放送管弦楽団、宮内省楽部、東京音楽学校、星桜吹奏楽団の6演奏団体のメンバー総勢164名(演奏会によって1人抜けたらしく、163名とする本もある)からなり、楽員編成は以下のとおりであった(164名説による)。
- フルートorピッコロ:4
- オーボエ:4
- イングリッシュ・ホルン:1
- クラリネット:5
- バスクラリネット:2
- サクソフォーン:1
- ファゴット:4
- コントラファゴット:2
- ホルン:14
- トランペット:8
- トロンボーン:8
- チューバ:3
- 打楽器(シュトラウス作品用の梵鐘12個含む):12
- ハープ:3
- 第1ヴァイオリン:24
- 第2ヴァイオリン:22
- ヴィオラ:18
- チェロ:16
- コントラバス:12
なお、資料によっては7団体とするものもあるが、その場合に勘定される「日本放送交響楽団」は、新響がラジオ出演する際に名乗る名称であり、新響と同一団体であるので、ここでは6団体とした。
[編集] 作曲者に対する返礼
スタジオ録音されたSPレコード、印刷された楽譜とともに作曲者に送られた。また、織物なども贈ったようであるが、積んだ船が撃沈されたらしく結局届かなかったという。リヒャルト・シュトラウスは当時寺の鐘を集めていて作曲料の代わりにそれを送り喜ばれた。
[編集] 日本で作曲された奉祝曲
日本国内でも紀元2600年を祝う曲が作られ、演奏された。すでに前年の1939年には新響が主催して紀元2600年を祝う管弦楽曲を公募し、14作品の応募があったが審査員の信時潔、諸井三郎、ヨーゼフ・ローゼンシュトック他の審査の結果当選なしとなった。その他、日本中央文化連盟などが奉祝曲を募集し、いくつかの演奏会で披露された。
- 主だった日本の奉祝曲
- 伊福部昭:交響舞楽「越天楽」
- 橋本國彦:交響曲第一番
- 信時潔:交声曲「海道東征」
- 箕作秋吉(当時は秋吉元作):序曲「大地を歩む」
- 清瀬保二:「日本舞踊組曲」
- 大木正夫:「羽衣」
- 大沼哲:「大歓喜」
- 斉藤丑松:行進曲「大日本」
- 陸軍戸山学校軍楽隊:行進曲「大日本」
- 山田耕筰:歌劇「黒船(初演時は「夜明け」)」
[編集] その後の奉祝曲
演奏会の翌年である1941年に、放送録音分の録音がコロムビアから13枚組のSP盤として発売された。また、同年にはシュトラウス自身が2600年祝典曲を指揮・録音したレコードがポリドールから発売された。これらのレコードはCDにも復刻されている(コロムビア盤:ロームミュージックファンデーション私家版(全曲。将来的には一般販売の可能性も)、コロムビア(山田指揮イベール)、某海賊盤(フェルマー指揮シュトラウス)。ポリドール盤:ドイツ・グラモフォン)。
奉祝曲の演奏史をたどるのはあまり容易ではない。1942年1月にシュトラウスの曲がシュトラウスの遠戚であるルドルフ・モラルト指揮・ウィーン交響楽団によってヨーロッパ初演された。また、イベールの曲は初演前後に一旦紛失したもののメモを参考に書き直し、1942年1月24日にシャルル・ミュンシュ指揮のパリ音楽院管弦楽団によってヨーロッパ初演が行われている。演奏を拒否されたブリテンの曲は1941年3月にニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会で初演された。
1945年、日本の敗戦とその後の情勢の変化により奉祝曲(ブリテン作品も含む)の運命も変化することになった。奉祝曲そのものは奉祝会の後身団体である「光華会」から東京芸術大学図書館(総譜)とNHK(パート譜)に寄贈された。また、シュトラウスの曲は判明している分で20世紀中には少なくとも日本では5回演奏されたようである(1955年、1958年:N響、1988年:読売日本交響楽団、1999年~2000年:仙台フィルハーモニー管弦楽団)。また、ウラディーミル・アシュケナージ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって同曲のデジタルによる初レコーディングが1998年に行われ、2007年1月26日にSACDとしてエクストンレーベルからリリースされた。ブリテンの曲は1956年2月18日にブリテン自身の指揮でN響によって日本初演された。ヴェレッシュの交響曲は2002年になって久しぶりに録音が行われた。イベールの曲は比較的演奏や録音される機会が多く(ジャン・マルティノンや佐渡裕らによる録音がある)、ピツェッティの交響曲が現時点では省みられることが少ない。
[編集] 参考文献
- NHK交響楽団『NHK交響楽団40年史』日本放送出版協会、1967年。
- NHK交響楽団『NHK交響楽団50年史』日本放送出版協会、1977年。
- 洋楽放送70年史プロジェクト「日華事変から太平洋戦争まで(下)」『洋楽放送70年史』洋楽放送70年史プロジェクト、1995年。
- 中野吉郎「ブリトゥンの来日 謎の祝典音楽を日本初演」『洋楽放送70年史』洋楽放送70年史プロジェクト、1995年。
- 岩野裕一「NHK交響楽団全演奏会記録・「日露交歓交響管弦楽演奏会」から焦土の《第9》まで」『Philharmony 99/2000SPECIAL ISSULE』NHK交響楽団、2000年。
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