軍艦島
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軍艦島(ぐんかんじま)は以下の島の通称、俗称。
端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島で、シルエットから軍艦島の通称で知られる。
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[編集] 地理
長崎市中心部から南西約19km、旧高島町の中心である高島から南南西約4.5kmの海上に位置する。明治以降、島の周囲の埋め立てが繰り返し実施されており、海岸線は直線に近い形状をしている。面積約6.3ha、海岸線全長約1,200m、東西の長さ約160m、南北の長さ約480m。 上空からの画像(Google Maps)
[編集] 歴史
19世紀に石炭の存在が発見された。明治時代初期には鍋島氏が経営。1890年から三菱財閥の所有となった。石炭採掘のため周囲を埋め立て、また大正期以降には鉄筋コンクリート造の集合住宅群が建設された。海上から見たそのシルエットが、日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島の通称で呼ばれてきた。戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだというエピソードは有名だが、実際は停泊していた石炭運搬船を狙ったものだった。
良質な強粘炭が取れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年には約41万tを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年には5,267人の人口がおり、人口密度は世界一を誇り東京特別区部の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。この時期は、日本の高度経済成長の終焉と重なる。
[編集] 行政区域の変遷
1889年4月1日の町村制度発足により西彼杵郡高浜村大字端島となった。1955年4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入された。2005年1月4日に高島町が長崎市に編入され、現在は長崎市高島町端島となっている。
[編集] 島内の集合住宅
端島に残る集合住宅は、保存運動で話題になった同潤会アパート以上の長い歴史を持っている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、国内でも最初期の鉄筋コンクリート造の高層アパートである。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(大正7年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられた。
典型的な高層アパートは中庭を中心に設け、周りを廊下が囲むプランで、地下に売店が設けられたものもあった。各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけで、トイレ、炊事場も閉山まで共同のところが多かった。
[編集] 現状
近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る。現在は無人化により放棄され、維持管理が行われないため、いくつかの建物は既に崩落し、また倒壊の危険性を抱えている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2002年、高島町(当時)に無償譲渡され、現在は長崎市の所有である。観光面での活用について検討が行われているが、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、保存・活用には多額の費用が必要である。一部で世界遺産への登録運動が行われてきたが、2006年8月、経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと世界遺産への登録を支援することを決定した。(世界遺産暫定リストへの掲載は、継続審査とされた。2007年1月現在)
[編集] 公開
島内への立ち入りは現在禁止されている。2005年8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された。
長崎市は2007年度に整備を行い、島の一部を公開する予定。観光客が上陸できるようかつての桟橋を再び整備し、島内部にも遊歩道を設けることなどを計画している。(危険な建物周辺には立ち入れない)
[編集] 交通アクセス
住民がいた頃は野母商船が長崎港より、伊王島、高島を経由して端島に至る航路を運行していた。1970年の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。無人化により航路は廃止され現存しないが、やまさ海運により長崎港から、株式会社共同により野母港から島の周囲を巡る遊覧船が運航されている(詳細は下記の外部リンクの項目より各社の公式ウェブサイトを参照のこと)。
上記のとおり、一般開放へ向けた整備が進められれば直通航路が運行されると見られる。
[編集] 端島を舞台とした作品など
- 写真家、奈良原一高の作品『人間の土地』(1954-1959年発表)の舞台としても知られる。
- 映画「冒険者カミカゼ」(1981年) 千葉真一、秋吉久美子主演
- 映画「魚からダイオキシン!!」(1992年) 内田祐也主演
- 1980年公開の映画『純』(江藤潤主演)では主人公・純の出身地となっており、端島でのシーンもある。
- 1981年にTV-CMや新聞広告等で公共広告機構が端島を題材にした資源問題キャンペーン(「私たちの資源」)を行い、反響を呼んだ。
- 2000年放送のNHK制作連続ドラマ『深く潜れ~八犬伝2001~』の主な舞台ともなった。
- 2005年、週刊少年サンデー(小学館)に連載の漫画『D-LIVE!!』に凶悪犯のアジトとして登場。
- テレ朝のバラエティ番組『いきなり!黄金伝説。』で芸能人が探検。
- 内田康夫『棄霊島』(2006年)の舞台。
- 恩田陸『puzzle』(祥伝社文庫)のモデル。
- 村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)の廃鉱の島のモデルと思われる。
[編集] 写真集
- 「軍艦島—眠りのなかの覚醒」(雜賀雄二、2003年、淡交社)ISBN 447301987X
- 「NO MAN’S LAND 軍艦島」(小林伸一郎、2004年、講談社)ISBN 4063528057
- 「1972 青春 軍艦島」(大橋弘、2006年、新宿書房)ISBN 4880083569
[編集] DVD
- 「深く潜れ~八犬伝2001~」(2001年、徳間ジャパンコミュニケーションズ )ASIN: B00005LCPP
- 「廃墟賛歌 軍艦島 Forest of Ruins」(オープロジェクト、2004年、日活)ASIN: B0002MOLDS
[編集] 長崎県端島出身の有名人
- 岡崎律子(作曲家、故人)
[編集] 関連項目
[編集] 登録商標
[編集] 外部リンク
- 軍艦島オデッセイ - 端島の歴史、建築物、施設配置図、建物の個別データベース、軍艦島百景等。
- やまさ海運 - 軍艦島クルーズ案内
- 株式会社共同 - 軍艦島クルージング
- 軍艦島を世界遺産にする会 - NPO軍艦島を世界遺産にする会
- Towards a virtually accessible Gukanjima
- 軍艦島 Ver 3.0 - FLASHによる長崎県端島の紹介。
- インダストリア - PN.神村小雪さん(軍艦島出身女性)のサイト。