進め!電波少年
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進め! 電波少年(すすめ でんぱしょうねん)は日本テレビ系列で1992年7月5日 - 1998年1月1日にかけて放送されたバラエティー番組である。
司会は松本明子と松村邦洋。
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[編集] 概説
1992年7月5日にウッチャンナンチャンの番組のあとを受けて番組が開始された。スタジオトークでは松本明子と松村邦洋二人とゲストの顔だけを映し、背景はクロマキーで、CG合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた。当初は「アポなしロケ」という、2人やゲストが事前許可(アポイント)を取らず多くの著名人に様々な依頼を敢行するという企画を中心に行われた。そのスリリングさから人気を博したが、たびたび「無礼だ」などと抗議の的となるお騒がせ番組でもあった。
1996年4月に始まった「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、社会現象とまでなった。それ以降は無名のタレントを使ってまさに体を張った体験取材企画が中心となったことで、アポなし取材は1997年以降ほとんど行われなくなり松村も降板に追い込まれた。
1998年1月1日のスペシャルでこの番組を一旦終了し、進ぬ!電波少年にリニューアルした。番組のプロデュース、演出はTV界の異端児、土屋敏男(Tプロデューサー)で若手芸人に使命を伝える場面で度々登場。この電波少年シリーズは彼の名を大きく知らしめた。
シリーズが終わってもタレントのチャレンジ番組は「いきなり!黄金伝説。」など、他局などで人気を博しており、そのさきがけともいえる番組であった。 なお、当時から時間帯上「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」同様、地方では放送時間に違いがあったり数週遅れであったりという待遇を受けていた。
[編集] 番組誕生まで
ウンナンが映画でウッチャンナンチャン with SHA.LA.LAに出られなくなり、その中継ぎとして製作から急きょ土屋に「何かやれ」と持ち上がった話だった。 当時、ビッグタレントにおうかがいを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるそれまでのTV作りにうんざりしていた土屋は、数字取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろう、と考えた。仮タイトルは「やったろうじゃん」だった。松本と松村は編成で既に決められており、当時二人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と顔だけのCG合成を決める。社内的にひっそりと始まった第一回目だったが、視聴率12%と好調。結局ウンナンの番組に戻ることは無かった。
タイトルは「やったろうじゃん」ではなんだからと、作家・都築が「怪傑電波芸者」を提案(中村敦夫の発言を受け)。しかし製作局長が「芸者はダメ」とNG。そこで、作家そーたにが「電波将軍」と滑舌悪くいったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされる。更に「少年なら「進め」だろう、という」ことで「進め!電波少年」のタイトルが完成した。
[編集] 代表的なアポ無し企画
[編集] 憧れの227cmの岡山さんに会いたい!
第一回目の企画。松本が会いたい人は、『羽田のモノレールで見かけた大きい人』ということでスタッフが調査したところ、住友金属工業に務めている元バスケ選手の岡山さんということが判明した。会社に取材申請を入れたが、案の定拒否。しかし、Tプロデューサーの「いっちゃえ」という独断でロケ敢行。4時間待った後、会社前で帰宅途中の岡山さんを発見。「ファンなんです」「日本一のタカイタカイをして下さい」とお願いし、見事してもらうことに成功。松本は岡山さんにお礼を言いながら見送り感涙。ここにアポなしロケのスタイルが始まった。
[編集] 森英恵にスタッフジャンパーを作ってもらいたい
開始から3ヶ月ほど経ち軌道に乗りだした頃、松本と土屋が食事をしている時に松本が、「番組のスタジャン欲しいですね」といったところ土屋が「よし、森英恵に頼もう!」と発案し、松本は「エーッ!」仰天。土屋は「絶対無理だろう」と内心確信していたが、後日松本によりこのロケは実行され、意外にも森は「いいじゃないの。やりましょう」と面白がり、作ってくれた。これが最初の大物ロケの成功だったと土屋は語っている。
[編集] アラファト議長とてんとう虫のサンバをダジャレたい!
『PLO議長アラファトと「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ)をデュエットしたい!』という企画。「♪あなたと(アラファト)私が・・・」という歌詞に引っ掛けている。紛争地帯であるガザ地区に行き実際に会ったが、当然曲を知らない議長は歌えなかった。直筆のサインももらい、立ち去る松本に議長は優しく微笑みながら手を振ってくれた。アラファト死後、芸能人において唯一の接触者である松本には、マスコミからの取材が殺到した。
[編集] 他
- 「入れ墨バンドに「バウバウ」って刺青を入れてほしい!」
ライブ突入シリーズロケの第一弾。盛り上がるライブ会場に何のアポもなく、警備、客を押しのけ松村とスタッフが突入。松村は舞台に上がり、入れ墨をお願いしようとするが、会場スタッフに取り押さえられ、ステージ下に下ろされる。警備、ファンから殴られ蹴られ、服は破られる松村。スタッフが必死に謝ってロケは終了した。これ以降、ライブ突入はシリーズ化したが、警戒するところが多くなり突入が難しくなった。
- 有名人の豪邸のトイレでウンコがしたい!シリーズ
- 松村がロケ弁を食べ、その後下剤を服用し便意を催したら有名人にトイレを利用したい旨を交渉。ロケ途中で失敗<脱糞>してしまう事の方が多かったが、峰竜太・海老名美どり夫妻宅では成功している。電波少年初の下ネタロケ
- 「一億円棋士、羽生善治と金銀飛車角桂馬香車歩落ちで戦いたい!」
- 松村が羽生の自宅を突然訪問。「対決したい」との旨を伝えたところ了承してくれた。羽生は王しか使えなかったが、松村に勝利。
- 出川哲朗が成功させたロケ
- 村山富市の長い眉毛を切りたい!
- 松村の突然の申し出にも笑顔で対応。見事成功するも切り落とした眉毛をなくしてしまう。
- 「経営があぶなくなった新宿末広亭を、広末亭に改名すればいい!」と、 勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、 受付で門前払いされた。
- フランスの世界的作曲家ポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功。
[編集] その他の企画
[編集] NHK紅白に出たい!
元々アイドル歌手でもあった松本明子のはかない願いから、「紅白に出たい!」とNHKに猛アピール。頻繁にNHKに通っていた。紅白歌合戦の最中、NHK前で前述の「ねこなんだもん」を絶唱。紅白にも「入れてやれ」という意見が多く届いたという。3年後、ついに合唱団員として潜入し紅白のステージに立った。NHKのカメラに松本が映し出されたが、手には「紅白もらった」という幟があった。
[編集] バツイチになりた~い!
レストランのテーブルにて、松村との結婚に募集してくれた女性と松村は婚姻届にサイン、婚約指輪を渡す。 「3日間、一週間、一ヶ月いずれかの別居か同居」を選ぶことになっていたが女性は「3日間の別居」をオーダー。初夜をともにできると期待に膨らんでいた松村の落ち込みは激しかった。ここで松本が登場し、「バツイチになる為に離婚届を書いていただきます」と離婚届を渡すと、女性は「はい」と即サイン。松村、「離婚し・・・・・・ますか?」と苦悶する。レストランの玄関で見送る際に「僕達夫婦だったんですよね」「別れても幸せになってください」としつこいまでに別れを惜しんだ。
[編集] 松村の本名を変えたい!
放送当時はバルセロナオリンピックに沸く1992年。飛躍の年にすべく五輪にちなみ、「松村バルセロナ」に戸籍上の改名をしようと番組側が提案。実家に行き松村が父に「お父さん、ここでひとつ松村バルセロナという名前に改名しようと思うんです。」と告げたところ、父は「そら、えかろうよ。」「名前はお前のものだから」と何と了承。家庭裁判所に申請し、結果を待ったが許可は下りなかった。
[編集] 渋谷のチーマーを更正させたい!
番組初期の名物企画。夜毎、暴力事件を起こすチーマーたちを立ち直らせたいと、松村がチーマーに変装し渋谷センター街へ。更正した若者には更正証明書を渡す準備をしていた。数人のチーマーに注意すべく近づいたところ「なんだこいつ? チーマー? テメエが?」と、あっという間に大勢のチーマーに囲まれ、路地の奥へと引っ張り込まれていく。カツラをはぎ取られ松村であることが判明、また隠しカメラも見つかりチーマーは激昂。松本は無線で「松ちゃん、ものまねでなごませろ!」と指示を出すも、皮ジャンをはぎとられた松村は「やっちゃおうぜ」と、チーマーたちに腕をつかまれどこかへ強引に連れ去られようとする。松村、腕を振り切り、ロケバスへ一目散。辛うじて最悪の事態は免れた。
[編集] 他
- 「エアMAX狩りをやめさせたい!」 当時人気のナイキエアMAX95を履いた松村が、池袋の西口公園に一人で突入、当時チーマーブームで、エアMAXを履いた松村を発見したチーマー達に一気に襲われ、靴を取られてボロボロになっていた。
- 「青島東京都知事に会いたい!」
- 十数回に渡る交渉の末、ようやく実現。
- ユン・ピョウは本当に強いかどうかを検証したい!
- 日テレ前、仕事を終え車に向かおうとしていたユンピョウを待ち伏せしていた松村がハリセンで「ユンピョウ覚悟~」と襲いかかる。しかしハリセンは届かず、周りの数人の韓国人ボディーガードから捕まえられ本気で蹴られるなどボコボコにされた。当時の篠木プロデューサーは「これはテロだ」と、オンエアに反対したが、スタッフでもう一度見直したところウケが良かったのでオンエアした。このあとジャッキー・チェン、宮沢喜一とシリーズ化する。
- 「地球温暖化を食い止めたい!」
- メタンが多い牛のゲップを松村が吸う企画。
- 「アポなしサンタ」
- リースの掛かっている家に、サンタの格好でプレゼントを上げに行く企画。プレゼントのおもちゃは松村たちがゲームメーカーやオモチャ会社に赴いて直接ゲットしたもの。電波少年にしては珍しく毒気の無い企画。「進め」終了後は雷波少年に移行。また「進ぬ」でも小池栄子がプレゼントを持って「アンコールワットへの道の舗装」の応援へ向かう「小池栄子のアポなしサンタ in カンボジア」が行われた。
- 「男を磨く旅」
- 山崎邦正がヘタレキャラを返上するための企画。スペインの牛追い祭りに参加したり、タイで虎と対決したり、南米でコンドルの羽を取ろうとしたりした。牛追い祭りに参加したときは、地元のニュースに取り上げられて、しかも、「韓国人が空手で牛と戦っていました」という内容で放送されていた。虎との対決では、待機&対決用の檻に入れられていて、虎が出たときに、山崎は失禁してしまった。
- 「無敵のセールスマン」
- 番組から電波子(現・滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2~28号を登場させた。
- 女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員。「それはお漏らしとは言わない」と、松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった。
- ハウス加賀谷の助っ人シリーズ
- サグラダ・ファミリアの建築の手伝いをしに行き、 名前を聞かれて「カガヤ!(Caga Ja=スペイン語で大便しろの意)」と答え失笑を買う。 勝手に立入禁止の場所に入ったとの理由で、現場監督から追い出され、数時間にわたってサグラダファミリアの前で正座を続けさせられた。
- キャイ~ンのはじめてのおつかい
- 後半でヒッチハイクロケを初めて決行。スタッフ・視聴者に好評で、後の猿岩石の企画にも繋がった。
- 電波少年刑事
- ビビるが出演。ある事件の取材中に被害者女性宅をカメラで撮影し110番通報されるトラブルが発生。取材は打ち切りとなり、警視庁からの抗議を受けた日本テレビから土屋が厳重注意処分を受けた。後に雷波少年で「雷波少年刑事」も放送された。
[編集] ヒッチハイク横断
1996年4月、無名のお笑いコンビ芸人猿岩石は土屋プロデューサーにアイマスクをつけさせられ香港に連れて行かれた。そこで告げられた目的は「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール。」という、その後半年に渡る壮大な企画であった。二人は軽い気持ちで引き受けたが所持金の10万はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇、他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった。爆風スランプが作った応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた「猿岩石日記」もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年に10月ゴールしたが、プロデューサーからチケットが渡され「今度はアメリカ南北大陸」と言われたが断った。この企画はドロンズに受け継がれ、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。ヒッチハイクは番組の顔となり、「進ぬ!電波少年」になってもアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断、80日間世界一周などとシリーズ化された。なお、ドロンズやチューヤンらは猿岩石の倍の一年以上と過酷になっている。
- 猿岩石が選ばれた理由は、むこう半年間のスケジュールが全く白紙だから、という理由だった。
- 猿岩石ゴールを実況レポートしたのは船越日テレアナ(当時)であった。
[編集] ヤラセ騒動
猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールした、とされていたが、道中で数回ヒッチハイクでない飛行機を使っていたことが判明した。途中、内戦などの為治安が悪いところがあり、大事をとり飛行機に乗ったものとしているが、番組では判明するまで全く触れていなかった。当時の日本テレビ社長氏家斉一郎は「(バラエティーという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし物議を醸した。
[編集] 松村降板騒動
1997年4月13日に朝日放送・テレビ朝日系で放送された「ゴールデンナイター」阪神×巨人戦(甲子園)の中継に松村邦洋がゲスト出演した際、「この後の『サンデージャングル』を見てください」と発言した(当時、松村は土曜日の「サタデージャングル」レギュラーであった)。
「サンデージャングル」は11時からで電波少年は10時半からの放送だが、その日は「おしゃれカンケイ」が60分スペシャルのため、30分遅れで11時からの開始になった。このため電波少年の裏番組を応援する発言をしたと言う理由で強制的に番組出演自粛させられる。しかし、視聴者から「松ちゃんを許してあげて」などの要望が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけているんですか」という苦情が寄せられるようになり、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます♥」と回答。これが新たに批判を生み出す事になり、結局テレゴングによる視聴者投票によって再び復帰するが、「進め! 電波少年」終了に伴い“卒業”という形で降板となった。また、「進め-」末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に「松村邦洋のひとり電波」という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。
後になって土屋敏男は自分の著書の中で、「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。すなわちこれはプロレスでいうアングルで、ただ松村はひっかけられていただけ。「サンデージャングル発言」は全くの無関係であった。尚、その後、2005年に某番組上で「どうして僕をおろしたのですか(笑)」との松村の突っ込みに、土屋はただ苦笑いをしていた。
また、土屋は著書の中で、電波少年が有名になったことで、アポなしをしても相手が歓迎してしまうという、今までのケースが成立しないロケも出てくる一方、猿岩石の大成功から「これからはヒッチハイクが主になる」と考えていた。アポなしの顔である松村も同時期に「豪邸でウンコ」シリーズなどで奮闘したが、松村は「自分の出番が無い!」という事自体が一番ウケており、司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上、外さざるをえなかった、としている。「アポなしをやめるから松村に降板してもらう」というのが一番の理由である。ただし、「進め! 電波少年といったら松村。」とその功績を認めている。
[編集] エピソード
- アポなし企画は政治家をネタにする事も多く、その為松本と松村の二人は永田町周辺ではブラックリストに載っていたとされている。
- 改編期には海外ロケを中心としたスペシャル「電波少年INTERNATIONAL」を放送した。また、1997年以降は大晦日に特番も放送された。
- また、アポなしでマフィアのボスに会いに行ったり、暴力団の事務所に行ったり、夜のスラム街に行ったりと、生命に関わる危険なロケも多かったが(松村は拳銃で脅されたことすらある)、それが視聴者の興味をそそり高視聴率を記録した。
- 番組のスタジオセットはなく、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけが映るようになっていた。
- たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である。なお、その映像効果を付けるための機械は、当時、日本テレビを含め全世界に数台しか無かったという。
- 番組初期には松任谷由実もゲスト出演した。
- 「電波少年」及び「進め!電波少年」という名称は日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)である。
- アポ無し取材で原水爆禁止日本協議会(原水協)に「核廃絶推進番組」のお墨付きをもらったことがある。
- 松本は「電波少年は『オシャレ30・30』と『ガキの使い』のつなぎですから」と発言したことがある。
- 構成作家のおちまさとの妻がなぜかゲスト出演したことがある。
- 女優・高橋ひとみが番組の熱烈なファンと土屋は聞き、ゲストに呼んだ回で「おっぱい見せて欲しい」と番組でおねがいし、泣かせて帰ってしまったという。その模様は放送されなかった。
- 一方で番組スタッフはロケ後、謝罪を繰り返し、オンエアーにつなげた。長濱プロデューサーは「ディレクターや作家の力量もありますが、この番組成功のおおもとは人柄だと思います。僕らは何度も何度も広報の人に頭を下げてオンエアーできるようにがんばってきたんです。」と語っている。
- 「松村が貴女のストーカー問題を解決します」として視聴者からの依頼を募集したことがあったが、結局その企画が放送されることはなかった。
[編集] 地方の放送時間の違い
- 放映枠がローカルセールス扱いとなっている関係上、中京テレビ(当時「P.S.愛してる!」)、テレビ信州(当時「信州2230TV」)、よみうりテレビ(「大阪ほんわかテレビ」)、広島テレビ(「進め!スポーツ元気丸」)、FBS福岡放送(「ナイトシャッフル」)は、ローカル番組放送のため、福井放送と秋田放送と四国放送はナショナル劇場の遅れネットのため、特番を除いて同時ネットされなかった。山口放送も、山口朝日放送開局以前は、テレビ朝日の時代劇のうち、本来は木曜20時台に放送される作品(「名奉行 遠山の金さん」ほか)の時差ネットのため、やはり特番を除いて同時ネットされなかった。高知放送も、高知さんさんテレビ開局以前はフジテレビの連続ドラマ(木曜劇場などの月9以外の枠)を番販ネット、その後も「THE夜もヒッパレ」を遅れネットしていたため、特番を除いて日曜日の昼に時差放送していた。 札幌テレビ放送も「日高晤郎のスーパーサンデー」の放送を優先したため、開始当初は日曜昼の時差放送だったが「日高晤郎のスーパーサンデー」の終了後、同時ネットになった。また、山梨放送も、初期の数年間は関西テレビの土曜23時枠(「ねるとん紅鯨団」→「ハンマープライス」)を放送していたため、同時ネットされなかった。後に「ハンマープライス」が土曜昼に移動となったため同時ネットとなった。
[編集] 電波少年INTERNATIONALに登場したタレント
- ヨネスケ(「突撃!隣の晩ごはん」の海外編)
- 出川哲朗
- 山崎邦正(男を磨く旅)
- キャイ~ン(はじめてのおつかい)
- よゐこ
- つぶやきシロー
- 羽田惠理香
- 宮前真樹
- ハウス加賀谷
- ダイノジ
- 山口美江(マリアナ海峡の底に触りたい)
[編集] その他の主な企画出演タレント
[編集] オープニングテーマ曲
- BEYOND 「THE WALL ~長城~」
[編集] 番組スタッフ
- チーフプロデューサー:棚次隆(前期)、吉川圭三(後期)
- プロデューサー・演出:土屋敏男
- プロデューサー:長濱薫、小西寛
- ディレクター:〆谷浩斗、香川春太郎、飯山直樹、川端基浩、塩野智章、飯島冬貴、中西太、小笠原豪、似鳥利行など
- 構成:小山薫堂、鮫肌文殊、そーたに、おちまさと、都築浩、海老克哉、田中直人、中野俊成
- 制作協力:THE WORKS、NTV映像センター
[編集] 関連項目
- 進ぬ!電波少年
- 電波少年に毛が生えた 最後の聖戦
- 雷波少年
- 電波少年シリーズ
- ヒッチハイク
- ユーラシア大陸
- 南アメリカ大陸
- 北アメリカ大陸
- 松村邦洋のひとり電波
- 雷電為右衛門(特番)
- 電波少年的放送局(CS放送)
- 電波少年的放送局企画部 放送作家トキワ荘
- 雲と波と少年と
- 第2日本テレビ
- 新電波少年(第2日本テレビのみで視聴可能)
- 1or8:アポ無し、ゲリラ企画、ヒッチハイク企画の原点
- お笑いタレント
- リアクション芸人
- COCO
[編集] 外部関連項
- 電波少年企画リスト(ファン作成)
日本テレビ 日曜夜10時30分枠 | ||
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前番組 | 進め!電波少年 | 次番組 |
笑撃的電影箱 ウッチャンナンチャン with SHA.LA.LA | 進ぬ!電波少年 |