ボビー・バレンタイン
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ロバート・ジョン・バレンタイン(Robert John Valentine)はメジャーリーグベースボールおよび日本のプロ野球・パシフィックリーグの千葉ロッテマリーンズの監督。1950年5月13日、コネティカット州で生まれる。カリフォルニア州南カリフォルニア大学卒。千葉大学・城西国際大学客員教授。吉本興業所属。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 現役・アメリカでの監督時代
大学入学直後の1968年5月にドラフト1位でロサンゼルス・ドジャースに入団。アメリカンフットボールで奨学金を得ていたが、当時のトミー・ラソーダスカウト(1976年からドジャース監督)に見出され、オフ中は通学させてもらう事を条件に傘下の3A、スポーカン・インディアンズに入団した。現役時代は内野手(遊撃手)と足の速さを生かして外野(中堅)も守った。怪我に泣き、メジャーリーガーとしての実績は目立つものではなかったが指導者としての手腕を買われ、1986年にはテキサス・レンジャーズの監督としてアメリカン・リーグ最優秀監督に輝く。
監督としてはたびたび激昂、1シーズン18回の退場記録を持つ。ただしこの退場記録は、レンジャーズ監督就任時に記者から「アメリカン・リーグとナショナル・リーグの違いは?」と問われた時に「最大の違いはナショナル・リーグの審判の方がずっと優秀だということだ」と答えたために、アメリカン・リーグの審判団から、ちょっとした抗議でもすぐに退場処分になる報復を受けたことによる。この仕打ちはバレンタインが審判団に謝罪するまで続いた。
[編集] ロッテの監督に就任
1995年、千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーに就任した広岡達朗に請われ、同球団の監督に就任(背番号80)。選手の潜在能力を引き出し、当時パ・リーグ5連覇中の西武ライオンズを上回る2位に導く(チームとしても10年ぶりのAクラス)。同年阪神大震災からの復興の象徴であったオリックス・ブルーウェーブの本拠地胴上げを阻止する3連勝(9月15日~9月17日)など、今までのチームカラーを一掃した。また、震災へのチャリティーのために「ドリーム・ゲーム(日本人選手選抜対外国人選手選抜)」を提案し、外国人チームの監督を務めた(日本人チームの監督は王貞治が務めた)。しかし広岡との確執が表面化し、1年で電撃解任。ファンからは解任を惜しまれ、広岡や球団フロントを非難する声が上がった。なお、広岡自身も主力選手との確執などが理由で翌96年に解任されている。
[編集] 再びアメリカで監督
その後ニューヨーク・メッツの監督に就任し、柏田貴史、吉井理人、新庄剛志、小宮山悟ら日本人選手を受け入れるなど、日本でも有名なメジャーリーグ監督となる。2000年にはナショナル・リーグでワイルドカードからの優勝を果たした。
メッツ監督時代の1999年6月9日の対トロント・ブルージェイズ戦では、延長12回に審判に退場を命じられて一旦退場したものの、その後サングラスと付けひげ・黒いTシャツで変装してベンチに戻ってきた(このシーンは日本のスポーツバラエティ番組でもよく取り上げられる)。試合はメッツが延長14回にサヨナラ勝ちを収め、バレンタインも選手の歓喜の輪に加わった。試合後、この件を新聞記者に問われたバレンタインは「自分に似ていない誰かがベンチにいたんだろう」ととぼけ、さらにナショナル・リーグ会長からの電話による事情聴取にも「あの時はベンチとロッカールームの間の通路にいた」と退場後にベンチに戻ったことを頑強に否定した(結局この件で、バレンタインは、罰金5,000ドルと2試合出場停止の処分を受けた)。
[編集] ロッテの監督に復帰
2003年オフ、低迷にあえぐ千葉ロッテマリーンズからのオファーを受けて9年ぶりに監督に復帰(背番号2)。ちなみに背番号2は古巣ドジャースで、バレンタインが恩師と仰ぐラソーダがつけていた。2004年シーズンは、1995年の躍進再び、といった勢いでチームは北海道日本ハムファイターズとの熾烈な3位争い(プレーオフ進出権争い)を演じ、惜しくも0.5ゲーム差の4位だったがチームを9年ぶりの勝率.500へ導いた。
[編集] アジア一、現在
2005年は相手先発投手に合わせ毎日スタメンを変える変幻自在の打線で序盤凄まじい勢いで勝ち続けた。大胆な若手選手の先発起用、ほぼ全てのポジションに複数の選手を充て競争意識を高めつつ適度に休養を取らせる、里崎智也、橋本将の2人の捕手を先発投手に合わせ入れ替える(両選手共に打撃も良く、スタメンマスクを外れても指名打者として出場する事もあった)、クリーンアップトリオを二組作って投入するなど独特の起用法が悉く当たり、それらは「ボビーマジック」と呼ばれる。特に目覚しい活躍を見せた西岡剛、今江敏晃らは「ボビーチルドレン」と呼ばれた。
中盤やや失速するも終盤再び盛り返し84勝でシーズン2位。3位と18.5ゲームと大差をつけてプレーオフ進出を決め、第1ステージで西武ライオンズを、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り、31年ぶりの優勝に貢献。史上初の日米で優勝経験を持つ監督となった。そして日本シリーズで阪神タイガースに対して圧倒的な力を見せ4連勝し、チームを日本一に導いた。その際の優勝監督インタビューで、複雑な因縁のある広岡達朗に対して「日本球界に招き入れてくれた恩人」と、感謝の言葉を贈っている。その後、11月10日から東京ドームで行われた初めてのアジアシリーズの初代王者に導いた。
しかし連覇を期待された翌2006年は首位争いを演じるものの最終的に失速し4位と低迷すると、手のひらを返したような「曖昧な采配止めて」(えちうらの楽曲のタイトルを捩ったものと思われる)などの声が飛ぶことすらあった。
[編集] 性格・監督として
- 普段は笑顔と共に陽気な性格を見せているが、試合中になると、自チームが逆転するなど通常はホームサイドで大歓声が自然に上がる場面でもポーカーフェイスを通す(ただし良い働きに対する労いは忘れず、ハイタッチなどはする)。これは「試合の勝利が決定する瞬間まで指揮官は喜んではいけない。もしそれをするとその時点で試合が決定したような雰囲気になり、選手の緊張感が切れてしまう」という彼の監督としての哲学に基づいたものである。2005年のプレーオフ第2ステージ第5戦、里崎智也の起死回生の逆転タイムリーの後ですら、ベンチ内外で歓喜するロッテ選手の陰で一人落ち着いた表情を保っているバレンタイン監督の姿がTVカメラに映されている。
- 普段の陽気な性格とは反対に審判や相手監督に度々激昂することもあり、復帰一年目の2004年のオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦では当時のオリックスの監督だった伊原春樹と試合中に口論。伊原は「じゃかましいわいこの野郎」と日本語で怒鳴り散らした。また外国人記者クラブで当時東北楽天ゴールデンイーグルスのGMだったマーティ・キーナートの会見が長引き、次の番であったバレンタインは業を煮やし会場に「早くしろ!」と野次を飛ばし、キーナートと一触即発の状態になった。
- 選手を怒鳴りつけることは殆ど無く(ただ10連敗したときやチームに覇気がないと感じたときにはある)、試合に敗れた後も「また明日勝ちましょう」「終わった事は仕方がない、次はキメようぜ」と励ますのみである(しかし橋本将によると「目は全く笑ってない」らしい)。ただし、試合後は西村徳文ヘッドコーチなどによく愚痴をこぼしているそうだ。
- 彼の采配において特筆すべき点は、その選手起用の在り方である。彼自身が現役時代怪我に泣いたせいか、選手の故障・酷使には敏感であり、例えどんなに好調な選手であっても一定間隔で休養をとらせている。特に投手陣にいたっては、5人~6人でローテーションを組み登板間隔を一定に保っている(雨でもスライド登板は行わない)。ただ、しばしばその休養が元で成績が急落した例もある。西岡剛は2005年序盤は首位打者争いをするほど打撃好調(.360程度)だったが、全打席安打を記録した次の試合で休養のため欠場した後、安打のペースが急落し、最終的な打率は.268であった。
- ファンサービスを非常に大切にすることで知られる。予定にない即席サイン会が行われることがしばしばある。2006年のファン感謝イベントでは選手とファンが触れ合う機会が少な過ぎる事に不満を漏らし、フィールドでのイベントには目もくれず、ただ独り、ファンにサインをし続けた。
[編集] エピソード
- 家族構成は夫人と1男。特技のひとつは社交ダンス。本格的にダンスをはじめたのはジュニアハイスクール時代(当時13歳)地域のコンテスト、州内のコンテストで優勝。1965年にはマイアミで行われた国際大会のジュニアクラスで優勝するなど競技ダンスでも活躍していた。大学生時代、パンケーキ(日本で言うホットケーキ)大食いコンテストで優勝したこともあるらしい。
- 1978年のメッツ所属当時、メジャーリーガーで初めて日本製のグラブを使った選手とされていた(最近になってルー・ゲーリッグが1932年に日本製グラブを使っていたことが判明)。日本でも「バレンタインモデル」として同じ型のグラブが限定発売された。愛車はBMW。
(もう一台の愛車であるMTBもBMW。本社が幕張にあるBMWジャパンより提供されているようである。)
- DEENのファンとしても知られる。きっかけは初来日当時の劇空間プロ野球のテーマソングが「未来のために」で、この曲に感銘を受けた事からファンになった。プライベートでDEENのライブに行くほどである。
- 2005年、阪神甲子園球場で日本一を/更に東京ドームでアジア一を決めた時のインタビューで、ファンに向かって「そのチームは世界でイチバンです」と絶叫にも似た答えで返した。「その」の部分は、当初「The team is No.1!!」と英語で考えていたコメントの「the」の部分を直訳したものと思われる(正しくは「このチームこそ一番!」。thisではなくtheをつける事で勝者マリーンズそのものとなる)。
- 31年ぶりに千葉ロッテマリーンズを日本一に導いた采配と、ファンから親しまれる人柄を評価し、背番号2をチームの永久欠番にしようという動きもある。2005年度正力松太郎賞、千葉市特別名誉市民。功績を称え、祝勝パレードが行なわれた千葉市美浜区幕張ベイタウンの「富士見通り」は“バレンタイン通り”に改称。
- グリーンガムのCMに選手達と一緒に出演し、中央でサムアップのポーズをしたり、落ち込んでいるヒロイン「よしこ」を代打で起用、「さぁ、行きましょう!」と励ましたりする演技が光っている(勿論、声は吹き替え)。
- 翌年には、やはりグリーンガムのフィギュアプレゼントのCM、“インタビューで、今欲しい新しいキャラを「Qチャン!」、一番大切なものは「ディープインパクト!」と発言、これを聞いたボビーチルドレンの代表でもある今江・西岡が、選手の事だと勘違いして「Qちゃん!?」「馬かよ…」とガックリ肩を落とす、しかし本人は全く気づかず「当テテイキマショー♪」”篇にも登場し、すっかりロッテを代表する人物になった。
- 更に2006年は、ロッテのグループ会社であるロッテリアにて、『ボビーバーガー』というキャンペーンバーガーが販売される。商品名に名前を提供し、「監修」という形で名前を連ねている他、同商品の広告に大々的に出ている。また、ロッテ以外にも新生銀行のCMにも出演し、選手が乱闘しているにもかかわらず、パソコンを使っていたり、代打を告げる際に「5.5! 5.5!」と審判に言い募る場面が描かれている。ちなみに5.5は新生銀行の金利であり、撮影地も千葉ロッテマリーンズの本拠地の千葉マリンスタジアムでは無く、西武ライオンズの本拠地であるグッドウィルドームを使用している。
- また「WBCで日本が優勝したことで我々の国の野球は世界で一番だと証明されたんだ。なのに、何故皆“メジャーで挑戦”と言う?」と日本人選手のメジャーリ-グ志向に警鐘を鳴らしている。また、松坂大輔のポスティングシステムによるメジャー移籍の際にも「入札には日本の球団も参加できるようにすべきだ」と話している。
- 2006年にベストドレッサー賞を受賞した。
- 2006年5月6日、試合前のスタジアムにタキシード姿で登場。DEENの「ダイヤモンド」に乗せて、寺門亮子プロと華麗なチャチャチャのステップを披露した。この日のダンスが話題を呼びJ SPORTSの「ダンスに片思い~恋するステップ~」や日本テレビ「シャル・ウィ・ダンス?」の「魔女のダンス教室」に講師として出演をしている。
[編集] 監督としてのチーム成績
[編集] メジャーリーグベースボール
年度 | 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | 昭和60年 | TEX | 7位 | 129 | 53 | 76 | .411 | 35歳 |
1986年 | 昭和61年 | TEX | 2位 | 162 | 87 | 75 | .537 | 36歳 |
1987年 | 昭和62年 | TEX | 6位 | 162 | 75 | 87 | .463 | 37歳 |
1988年 | 昭和63年 | TEX | 6位 | 161 | 70 | 91 | .435 | 38歳 |
1989年 | 平成元年 | TEX | 4位 | 162 | 83 | 79 | .512 | 39歳 |
1990年 | 平成2年 | TEX | 3位 | 162 | 83 | 79 | .512 | 40歳 |
1991年 | 平成3年 | TEX | 3位 | 162 | 85 | 77 | .525 | 41歳 |
1992年 | 平成4年 | TEX | 4位 | 86 | 45 | 41 | .523 | 42歳 |
1996年 | 平成8年 | NYM | 4位 | 31 | 12 | 19 | .387 | 46歳 |
1997年 | 平成9年 | NYM | 3位 | 162 | 88 | 74 | .543 | 47歳 |
1998年 | 平成10年 | NYM | 2位 | 162 | 88 | 74 | .543 | 48歳 |
1999年 | 平成11年 | NYM | 2位 | 163 | 97 | 66 | .595 | 49歳 |
2000年 | 平成12年 | NYM | 2位 | 162 | 94 | 68 | .580 | 50歳 |
2001年 | 平成13年 | NYM | 3位 | 162 | 82 | 80 | .506 | 51歳 |
2002年 | 平成14年 | NYM | 5位 | 161 | 75 | 86 | .466 | 52歳 |
- 2000年は地区シリーズでサンフランシスコ・ジャイアンツに3勝1敗、リーグ優勝決定戦でセントルイス・カージナルスに4勝1敗で優勝
[編集] 日本プロ野球
年度 | 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム打率 | チーム防御率 | チーム本塁打 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | 平成7年 | ロッテ | 2位 | 130 | 69 | 58 | 3 | .543 | 12.0 | .254 | 3.27 | 88 | 45歳 |
2004年 | 平成16年 | ロッテ | 4位 | 133 | 65 | 65 | 3 | .500 | 12.5 (注2) |
.264 | 4.40 | 143 | 54歳 |
2005年 | 平成17年 | ロッテ | 1位 (注1) |
136 | 84 | 49 | 3 | .632 | 4.5 (注2) |
.282 | 3.21 | 143 | 55歳 |
2006年 | 平成18年 | ロッテ | 4位 | 136 | 65 | 70 | 1 | .481 | 16.5 (注2) |
.252 | 3.78 | 111 | 56歳 |
- 注1:レギュラーシーズンでは2位。
- 注2:レギュラーシーズン1位とのゲーム差
- 2005年はセ・パ交流試合に24勝11敗1分けで優勝
- 2006年はセ・パ交流試合に23勝10敗で優勝
- 2005年は日本一、アジア一
[編集] 監督通算成績
- メジャーリーグベースボール 2,189試合 1,117勝1,072敗
- 日本 399試合 218勝172敗9分
[編集] 略歴
- 1969年-1972年 ロサンゼルス・ドジャース
- 1973年-1975年途中 カリフォルニア・エンゼルス
- 1975年途中-1977年途中 サンディエゴ・パドレス
- 1977年途中-1978年 ニューヨーク・メッツ
- 1979年 シアトル・マリナーズ
- メジャー通算 実働10年 639試合 1,698打席 441安打 12本塁打 157打点 打率.260
[編集] 監督としての略歴
- 1985年-1992年 テキサス・レンジャース
- 1994年 メッツ傘下3Aノーフォーク
- 1995年,2004年- 千葉ロッテマリーンズ
- 1996年-2002年 ニューヨーク・メッツ
[編集] 参考文献
- 「心に火をつける47の言葉」 PHP研究所刊 ISBN 4569648215
- 「バレンタインの勝ち語録 ―自分の殻を破るメッセージ80」 主婦と生活社刊 ISBN 4391131757
- 「ボビー流」 マガジンハウス刊 ISBN 4838716192
- 「ボビー・バレンタイン 魂の言葉」 毎日新聞社刊 ISBN 4620317489
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。
00 代田建紀 | 0 荻野忠寛 | 1 大嶺祐太 | 3 サブロー | 5 堀幸一 | 7 TSUYOSHI | 8 今江敏晃 | 9 福浦和也 | 10 大松尚逸 | 11 神田義英 | 12 藤田宗一 | 13 浅間敬太 | 14 小宮山悟 | 15 柳田将利 | 16 久保康友 | 17 手嶌智 | 18 清水直行 | 19 マット・ワトソン | 20 薮田安彦 | 21 内竜也 | 22 里崎智也 | 23 大塚明 | 24 平下晃司 | 25 竹原直隆 | 27 古谷拓哉 | 29 小野晋吾 | 30 小林雅英 | 31 渡辺俊介 | 32 根元俊一 | 33 橋本将 | 35 三島輝史 | 36 黒滝将人 | 37 林啓介 | 38 中郷大樹 | 39 田中雅彦 | 40 渡辺正人 | 41 小林宏之 | 42 フリオ・ズレータ | 44 早川大輔 | 45 松本幸大 | 46 呉偲佑 | 47 山崎健 | 48 高木晃次 | 49 川崎雄介 | 50 ベニー・アグバヤニ | 51 龍太郎 | 52 塀内久雄 | 53 相原勝幸 | 54 黒木知宏 | 55 神戸拓光 | 56 木興拓哉 | 57 佐藤賢治 | 58 青野毅 | 59 細谷圭 | 60 成瀬善久 | 61 角中勝也 | 62 金澤岳 | 63 青松敬鎔 | 64 藤井宏海 | 65 南竜介 | 66 末永仁志 | 67 新里賢 | 68 早坂圭介 | 69 江口亮輔 | 70 定岡卓摩 | 99 田中良平
2 監督 ボビー・バレンタイン | 78 西村徳文 | 79 井上祐二 | 75 高沢秀昭 | 85 袴田英利 | 88 荘勝雄 | 83 フランク・ランペン | 87 高橋慶彦 | 90 立花龍司 | 71 二軍監督 古賀英彦 | 76 佐藤兼伊知 | 81 園川一美 | 89 佐野嘉幸 | 72 平井光親 | 73 諸積兼司 | 77 吉鶴憲治 |