PC/AT互換機
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PC/AT互換機(ピーシーエーティーごかんき)とは、1984年にIBMが発売したパーソナルコンピュータ(パソコン)「PC/AT」と互換性のあるパソコンのこと。「IBM PC互換機」「PC互換機」「PC」「DOS/V機」「Windowsマシン」など、様々な通称がある。
また、パーソナルコンピュータとしては事実上の世界標準機である。「IBM互換機」と呼ばれることもあるが、メインフレームの分野においては「IBM互換機」は富士通や日立製作所が出していたIBMのシステム/360系メインフレームの互換機を指すので注意が必要である。
PC/ATと互換するところから出発したが、拡張を繰り返し、現在ではISA(ATバス)を搭載する製品もほぼ無いなど、本来のPC/ATとの構成パーツなどの物理的な互換性はほぼ失われている。アーキテクチャとしては、CPUには最初期から一貫してインテルの80x86と互換性のあるCPUが使われ、またカスケードされた割り込みやDMAなど、PC/AT、さらにはそのルーツとなるPC/XTなどから続くしがらみ(レガシー)を今に引き継いでいるという点では一貫性を持つ。
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[編集] 概説
事実上、パソコンの標準機となっており、1980年代から日本を除く世界的なパソコンのシェアはPC/AT互換機でほぼ占められていた(日本では1980年代の半ば頃から1990年代の前半頃まで、日本語で使用できるシステムを実用化させた日本電気のPC-9800シリーズが市場をほぼ独占していた)。ハードウェアやBIOSのインタフェースを共通にすることで、ソフトウェアや周辺機器が複数のメーカーのパソコンで利用できる。
PC/ATの仕様公開以後、多くの互換機メーカーや、台湾などを中心とした部品メーカーが登場し、競争によるコストダウンが進み、標準パソコンの地位を築いた。
結果として、PC/AT互換機の規格に基づいて設計された部品は、組み合わせに関して暗黙の保証を与えることとなり、メーカーでは無い個人でも、比較的容易にコンピュータを組み立てられるため、零細なガレージメーカーのほか、自作パソコンと称して個人が必要な部品を買ってコンピュータを組み立てることも盛んである。
ただし、実際には規格に「合致」ではなく、「準拠」させてあるだけであるため、個々の部品特性のバラツキなどから動作に不具合が生じる場合も無いとは言えず、製品の種類数や組み合わせ数が膨大なため、メーカーでもすべての組み合わせの対応を検証することは不可能で、製品の動作を保証しないこともある。これを俗に相性という。
現在ではさまざまな拡張がなされ、厳密にはPC/AT互換ではないが、パソコンの種類を示す通称として使われている。なお、日本では(「DOS/V機」といった俗称に対して)PC/AT互換機という呼称が正式なものと捉えられる傾向が見られるが、IBM PCの本国アメリカ合衆国では、「PC/AT互換機 (PC/AT compatible)」という呼称が用いられることはほとんど無く、「IBM PC互換機 (IBM PC compatible)」もしくは「PCクローン (PC Clones)」と呼ばれるのが一般的である。また、一般市場では単にPCと呼ばれることが多い。
[編集] 日本における普及
[編集] 黎明期
1980年代のうちからPC/AT互換機を独自に日本語化した製品を、各メーカが製品化していた。しかし、各社バラバラの方式で拡張していたため、当時の日本電気 (NEC) のPC-9800シリーズの牙城を崩すには至っていなかった。
かろうじて成功をおさめていたのが、東芝のJ-3100(Dynabook)だった。これはCGA/EGAをベースに日本語化したものである。DOS/V発売後にVGA対応がなされたが、東芝は完全にDOS/Vに移行した。
[編集] AX規格の登場
PC/AT互換機を日本語化する別アプローチからの方策として、1986年には、マイクロソフト主導によるAXという仕様も策定されている。これはEGAをハードウェア的に拡張したJEGAボードによって日本語化を行なうものであった。
当時、NECと東芝、富士通、日本アイ・ビー・エムを除く家電やコンピューターメーカ等は、AX協議会に参加し、AX規格のパソコンを販売したが、本来低価格なパソコンの値段を押上げ、海外ソフトを動作させる必要があった外資系企業で使われた程度で、国内でのシェアは低く、弱者連合と揶揄されることもあった。
また、AX規格の制定の頃から、海外でのPC/AT互換機では、より上位の表示規格であるVGAや、さらに拡張されたスーパーVGAが主流になったが、時代の流れを読み違え、EGAベースで、しかも非常に拡張性の低い方式を採用してしまったため、DOS/Vの登場によって存在意義を失った。AX協議会は発展的な解消をし、参加各社はOADGに「移行」した。
[編集] DOS/Vの登場と日本での夜明け
日本でのPC/AT互換機の本格的な普及は、1990年に日本アイ・ビー・エムが、PS/2ベースの自社製品を対象に、特別なハードウェアなしにソフトウェア処理のみで日本語の取り扱いが可能になるオペレーティングシステム「DOS/V」を発売し、それが、安価で高性能な英語仕様のPC/AT互換機で動くことが知られて、マニアの支持を集めたことで始まった。
- ※このことや、当時日本で「PC」というとNECのPC-9800シリーズを指すことがほとんどだったこともあり、PC/AT互換機という呼び方よりも「DOS/V機」「DOS/Vパソコン」、さらには単に「DOS/V」という呼び方が先に普及した。
当時はWindows 3.0の時代で、アプリケーションも少なかったが、その間、ネットワーカーたちによって環境の整備やノウハウの蓄積が行なわれた。DOSの日本語拡張表示機能であるV-Textは、西川和久やLeptonらネットワーカーたちによって考案され、IBM公認の仕様となったが、当時のDOS/Vブームを大いに煽った。
業界団体として作られたOADGにより、日本語キーボードの標準化がなされたのもこの時代である。初期に富士通が脱退するなどのごたごたもあった(のち復帰)。
[編集] 日本でも標準機の地位を確立へ
日本語版Windows 3.1は、リリースが大幅に遅れたが、1993年に発売されるとブームになり、パーソナルコンピュータを急速に普及させた。その過程で、安価で高性能、かつ内外多数のメーカから機種を選択できるということで、PC/AT互換機は日本でも段々一般化していった。そして、最終的にPC-9800シリーズの牙城を崩すに至ったのである。
しかし、これは諸刃の剣で、世界標準のPC/AT互換機がそのまま日本語環境で使える事になったため、海外、特に低廉な台湾製のPC/AT互換機が大量に流入するに至って、日本メーカの多くは独自の製品開発を放棄してしまうようになった。
現在は、多くのメーカが台湾などのメーカからOEM供給を受けてPCを販売するようになってしまっている。
[編集] 拡張されている機能
オリジナルのPC/ATと今日のPC/AT互換機を比較すると以下のようになる。 互換機といいながら既にオリジナルと共通する部分がほとんどなく、一般的に言われる互換性の大部分は失われている。
オリジナルPC/AT(1984年) | 2007年のPC/AT互換機 | |
---|---|---|
CPU | 80286 (6MHz) | Core 2 Duo, Athlon 64 X2等 (3GHz弱、デュアルコア・マルチプロセッサ) |
フォームファクタ・電源 | AT | ATX |
メモリ | 512KB | 512MB~64GB |
内部バス | AT (後のISA) | PCI Express, PCI |
画面 | 640×350, 64色中16色表示 (EGA) | 1080p(1920x1080)、1600万色、完全ハードウエア3D描画 |
モニタ | ブラウン管 D-sub接続 | 液晶、DVI接続 |
オーディオ | ビープ音 | PCM 5.1ch |
キーボード | 84キー、ATコネクタ | 104キー(+α)、USB, PS/2コネクタ |
マウス | シリアル | USB, PS/2コネクタ |
FDD | 5.25" 1.2MB | 3.5" 1.44MB(未装備機種も多い) |
HDD | ESDI 20~30MB | Serial ATA-300, Ultra ATA/133, 500GB~1TB |
光学ドライブ | なし | 記録型DVD |
拡張ポート | シリアル、パラレル | USB 2.0、IEEE1394、CardBus、ExpressCard |
ネットワーク | なし | ギガビットイーサネット、無線LAN |
電源管理 | なし | ACPI |
OS | IBM PC DOS | Microsoft Windows Vista |
消費電力 | 不明 | 30W~2000W |
用途 | 汎用業務端末、パソコン | オープンシステム端末、パソコン、スーパーコンピューター |