アタリ (企業)
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アタリ(ATARI)は、アメリカのノーラン・ブッシュネルが1972年創業した、世界初のビデオゲーム会社(厳密には、ビデオゲームを作る為だけに創立された会社としては世界初)。アーケードゲームと家庭用ゲームを軸に、パソコン・ピンボール・電子ゲームも作った事がある。
現在もアタリという会社はあり、日本支社にはアタリジャパンがあるが、これは当初のアタリとは異なる会社である。詳しくは「アタリジャパン」を参照。
なおブッシュネルやアタリを説明する場合、各ゲームを中心とする多数の項目が出てくる為、それぞの項目で内容が重複したり、参照が右往左往したりする。そこで現版では、各ゲームやゲーム機から派生した特別な話題(アップル社、アタリショック等)>各ゲームやゲーム機>アタリ>ブッシュネル、の優先順位で各項目を極力まとめ、優先順位の低い項目は概要および優先順位の高い項目へのリンクのみとした。「スペースウォー!」から「アタリショック」までの間に、ゲーム名やゲーム関連の話題が出て来た場合、詳細はいずれもそのリンクを参照されたい。
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[編集] アタリマーク
社紋はATARIのAと富士山(アタリに限らずアメリカのクリエイター達は、揃って日本びいきである)を図案化したもので、別名フジマークとも呼ばれる。零細企業だった1973年春頃に作られた為、生まれたプロセスや初登場日ははっきりしていない。マークの下には関連企業の名前、それが無い場合はキャッチコピーの"Innovative Leisure"(イノベイティブ・レジャー:新鮮な遊び)が入る。1991年6月には創業25周年を記念し、社員で人マーク(人文字みたいなもの)が作られた。スマートなデザインで親しまれた為、アンフォグラム傘下となった今でも使われているが、細部は微妙に変えられている。
[編集] 創業前
ノーラン・ブッシュネルは、ビデオゲームのアーケードゲーム化を目指しコンピュータースペースを発売したが、失敗した。だがこのゲームの発売元であるナッチング・アソシエーツの社長からの情報を元に、世界初の家庭用ゲーム機「Magnavox Odyssey」の発売前展示を見たブッシュネルは感銘を受け、独立して新会社設立を決心した。
「コンピュータースペース」を発売する為、ブッシュネルと共にアムペックスからナッチングまで一緒に転職もしてくれた、ラリー・ブライアンとテッド・ダブニーを誘い、3人で250ドルづつ出す計画だったが、ブライアンは創業前に離脱してしまった。そこでダブニーと2人でカリフォルニア州サンタクララの小さなガレージカンパニーの、一番右の1407号室を借り、1972年6月27日に創業した。ガレージの中をつい立てで仕切り、手前は事務室、奥は工作室とした。
囲碁好きのブッシュネルが囲碁用語から社名を取ったというエピソードは有名である。当初は"Syzygy"にしようとしたが、他の会社が申請済で使えなかった為(Syzygyについてはコンピュータースペース参照)、日本棋院初段のブッシュネルが好きな囲碁用語「センテ」「ハネ」「アタリ」の中から選んだ。アタリを選んだ理由には「どんどん敵を包囲し、自陣を広げてしまう」と言う狙いもあったと言われている。
[編集] 創業時
目的はとりあえず、大手アーケード会社にビデオゲームを売り込む事だったが、当初は「コンピュータースペース」の権利料が僅かに入って来るだけだった。そこでピンボール会社からピンボールを買い、近所のスタンフォード大学の近くでディストリビューター(アーケードゲームを買って設置し、金を回収する業務)を始めた所、ブッシュネルが遊園地のゲームコーナーでアルバイトをしていた経験が役立ったのか、結構儲かり、アタリがすぐ潰れる心配は無くなった。
社員面ではまず3人目の社員として、ブッシュネルの娘のベビーシッターだったシンシア・ビランヌーバを、電話番兼受付嬢として雇った。次にブッシュネルが以前勤めていたテープレコーダー会社、アムペックス社の後輩、アラン・アルコーン(Allan Alcorn 通称アル)を「副社長として、技術者として雇ってやる」と誘った。アムペックスではリストラが始まっていたので、アルコーンはブッシュネルに同意してアタリに引き抜かれ、4人目の社員となった。このアルコーンに「Odessey」と似たゲーム『ポン』を作らせた所大人気となり、ここからアタリおよびアーケードビデオゲームの大躍進が始まった。
[編集] 「ポン」製造開始後
当初は時間と金を作っておく→電気屋等で資材を沢山買い込む→基板など電子部品を作る→空の筐体を置いて部品をあちこち付ける→売る→売り切ったら売れた金でまた資材を買うと言う、全くの自転車操業だった。これでは毎日数台、どんなに頑張っても10台しか作れなかった。だが『ポン』は500ドルで作り、1,200ドル即現金払いが飛ぶように売れた。この頃アメリカで最も人気のあったピンボールは、一日約100ドルを稼いでいたが、『ポン』は200ドル以上稼いだ為、つまり三日で製造コスト、一週間で販売コストが回収出来た。当時のアーケード業界は日米共にまだうさん臭いと思われ、銀行から融資してもらえるゲーム会社は大手だけだったが、アタリはこんな右肩上がりで、軍資金をどんどんためていった。
アタリは隣の部屋も借りる→潰れたローラースケート場を借りて工場に改造→当時アメリカで最新設備の工場と、9ヶ月間に3回も移転、生産ラインの従業員は職安で片っ端から声をかけ、最終的には200人で毎日100台の生産能力を確保した。それでも人手不足だった為、アタリに入って来た者なら誰でも節操無くスカウトした程だった。後にスプライト機能等を生み出す技術者スティーブ・ブリストーは、ハンダづけや現金回収時のボディガードを、妻に手伝ってもらっていた。
従業員は低賃金で一日12時間、忙しい時は20時間働き、疲れた時は作っているゲームで遊んだが、何故か家に帰らない者が多かった。彼らの多数はヒッピーだった為、工場は常にマリファナの臭いとロックの大音響で満たされた上、金に困ったヒッピーが、テレビや部品を勝手に質屋に売り払う事もあった。だがゲームが売れる度に全員にボーナスが頻繁に出るなど、羽振りは大変良かった。資本金500ドルで始まったアタリは翌年、いとも簡単に320万ドル以上の売り上げを記録し、この頃の売り上げと資本金の急成長ぶりは、アメリカの企業として未だ破られていない記録である。「ポン」以外のゲームでは1973年に『ポンダブルス』、ボールとラケットタイプ以外のゲームでは『スペースレース』を発売している。
ただ前述のダブニーはこの急成長について行けないと言い出したので、退職条件として、これまでの直営ロケ(会社が直接機械を設置する事)の権利をダブニーが、株券をブッシュネルが全て持つ事にした。こうして創立後約1年で、アタリは名実共にブッシュネルの会社となった。
1973年には効率よい販売の為、子会社のキーゲームズ(Kee Games)を立ち上げたが、約1年半で早々と吸収合併、キーゲームズ社長のキーナンをアタリの社長に据え、ブッシュネルは会長になった。以後キーナンはアルコーンと共に、ブッシュネルの腹心の片腕として活躍する事になる。この他に日本支社としてアタリジャパン(初代)を作ったが、これについては左記リンクを参照。
1974年初頭には40人目の社員として、スティーブ・ジョブズが技術者として入社している。同じく1974年には初の家庭用ゲーム機として、『ポン』の家庭用版『ホーム・ポン』、1976年には『ポン』に続く大ヒット作として、ジョブズが関わった事でも知られる『ブレイクアウト』(いわゆるブロックくずし)を発表した。
[編集] Atari2600とワーナーの悲劇
家庭用ゲーム部門としてはAtari 2600(当初はVCSと呼ばれていたが、当稿では日本で通りがいいAtari 2600で統一して表記する)の構想を立ち上げたが、儲かっている企業とは言え多くの金がうごめく為、資金のやりくりが大変で、この頃は一歩間違えれば倒産し兼ねない危機をはらんでいた。ブッシュネルは株式公開も考えたが、結局大企業への売却で資金を安定させる方法を思いついた。ユニバーサル・スタジオで有名になるユニバーサルやディズニーに声をかけたが反応が無かった。
そこで映画会社として有名なワーナー・コミニュケーションズ(アタリを傘下にしていた時代に、タイム・ワーナーとなる)のスティーブン・ロス会長は、遊園地でアタリのゲームを見たのがきっかけでアタリと接触、ロスがたたき上げの事業家でブッシュネルと意気投合した事もあり、1976年10月に2,800万ドルでアタリを買収した(うち1,300万ドルはブッシュネルの懐に入り、億万長者となる)アタリ重役陣の役職はそのままとされた。だがブッシュネルは後に「ワーナーへの売却は失敗だった。あと二週間あれば、資金が調達出来た」と語っている。サイトのあちこちに「会社に未練が無かったのか」「金が欲しかったのか」「ワーナーに売却して即引退」と言う説明がよく見られるが、これはもちろん誤りである。
1976年11月にはフリッパーピンボールにも参入しているが、これについてはピンボールを参照。
Atari 2600は1977年に発売できたが、直後からサードパーティーや競合他社の家庭用ゲーム機が撤退する等アクシデントが相次ぎ、なかなか売れなかった。そこでワーナーは繊維業界の営業畑で実績のあったレイモンド・カサールを、家庭用部門のトップとして引き抜いたが、このカサールこそが、ブッシュネルとアタリにとって疫病神とも言えた、Atari 2600とワーナーの動きに油を注いでしまった。
ブッシュネルやアルコーン達は自分たちを「アタリアン」(Atarian)と呼び、自由な格好・時間・雰囲気で、楽しむ様に経営や開発を行っていた。そして新作ゲームも必ずテストプレイに加わり、意見を述べていた。ワーナー売却以前に大切な会議をする時は、ゲームで儲けたブッシュネルの豪邸で、何とジャグジー(あわ風呂)の中でやっていた程である。だがカサールを始めとするワーナーの重役陣はネクタイを締め、目的と言えば事業拡張と売り上げだけ、それもアーケードでなくAtari 2600の売れ行きだけを目標としており、もちろんテストプレイにも加わらなかった。
だがAtari 2600はまだ売れないので、ブッシュネルは前述のフリッパーと、自ら構想したAtari 2600の事業縮小・中止を提案した。だがワーナー側はロスも含めて猛反発、交渉は決裂した。そしてブッシュネルは1978年12月にアタリアンだけで重役会議をやった所、話を聞いたワーナーが激怒する。ブッシュネルは一応YesかNoかの答えを迫られた余裕もあったが、事実上ワーナーがブッシュネルを一方的に解任した。だがブッシュネルには小手先も少々仕込んでいた。ワーナーとの契約時「退職後5年間、アタリと競合する仕事をしてはいけない」等の他に「自分から辞めたら退職金をもらえないが、解任されたら受け取れる」と言う項目があり、ワーナーが解任する様仕向けたのだった。こうしてブッシュネルは、自分が作ったアタリを6年もたたない内に追い出され、二度と戻る事は無かった。
[編集] カサール会長時代
キーナンが会長、カサールが社長に繰り上げ昇格したが、キーナンも程なく1979年10月に退職(その後もブッシュネルと仕事の付き合いがあった)、カサールが会長となった。これまで自由だったアタリは厳しい社風に一変、スーツや入館用ICカードが義務付けられる。異なる部門は出入りが制限され、顔も名前もわかりにくくなった。これは既にワーナー売却前、ある会社のゲームとよく似たゲームが別会社から発売され、訴訟になった事が理由の一つである。現在ゲーム会社では珍しくない、開発部門の情報隠蔽とも言える。
アタリアン達もどんどん解雇か依願退職となった(もちろんそんな環境できちんと在籍し続け、優れたアーケードゲームを開発し続けたアタリアンもいる)退職した有能なアタリアン達の中には、Atari 2600用のサードパーティー会社を立ち上げる者もいた。アルコーンも自分の電子ゲーム企画を没にされた為、81年に退職している(その後後輩とも言えるジョブズの作った、アップルコンピュータに勤めた時もある)
カサールはアタリアン達の企画したゲームをどんどん没にしただけでなく、アーケード部門にも予算節減など様々な妨害を加え始めた。この頃からアタリショックまでのアーケード作品は、フライヤー(チラシ)が白黒になる、毎年の新作数が半分強に減る等からもわかる。しかしそれでも、アタリの売り上げは差別されたアーケード部門が稼ぎ、優遇された家庭用部門はさっぱりだった。
カサールの唯一の功績は、日本の『スペースインベーダー』が売れていた為、Atari 2600への移植を提案した事である。これで1980年にAtari 2600はやっと売れ始めた。逆に『パックマン』はカサールに無許可で移植が決定した為、カサールを激怒させたが、結局これが2発目のキラーソフトとなった。ここに来てやっとAtari 2600の人気は頂点に達し、ワーナーグループ全体の売り上げの3分の1をアタリが占める事になった。
だがその後「人気タイトルならAtari 2600でゲームにすればなんでも売れる」と誤解され、レベルの低いソフトが粗製濫造、特にアタリが自ら作った、人気映画の『E.T.』ゲーム化が大失敗する(ただし「当時はとっつき難かったが、妙に変わっていて面白いゲームだ」と支持する声も現在まで一部に聞かれる)。これで深刻なユーザー離れを起こしたアタリショックが発生、その結果カサールもやっと、1983年7月に解任された。だがカサールはこれに飽き足らず、解任直前にはインサイダー取引の疑いまで起こしている。
カサールの後任であるジェームズ・モーガンの初仕事は社内の無駄減らしで、次に『E.T.』のカセットの大量処分、そして社員のリストラであった。このリストラ直前がアタリの最大社員数で、72年にたった2人で始めた会社が、1983年には約9,800人に膨れ上がっていた。だが努力も空しく、1985年にアタリは下記の2社に分割される。
[編集] 分割前の主なゲーム作品
[編集] アタリゲームズ(アーケードゲーム部門)
業務用ゲーム部門はアタリゲームズ(Atari Games)と名前を変えた。ブッシュネルが創業・届け出た会社としての血筋はこちらが受け継いでいる。『ガントレット』、『マーブルマッドネス』などの秀作ゲームを順調にリリースした。日本へのライセンスはコナミや、後にはSNKからも行われている。
そしてアタリゲームズ製ゲームの家庭用ゲーム移植を目指し、子会社「テンゲン」も設立されたが、セキュリティに関する著作権違反で任天堂から訴えられ、事実上の敗訴をしている。アタリショックから立ち直ろうとしたアタリゲームズは、これで再度傾いた。詳細は「テンゲン」を参照。
その後アタリゲームは、ワーナーが週刊誌で有名なタイム社に買収され、タイムワーナー社となったのに伴い、タイムワーナー・インラクティブ(通称TWI)に改名、一時的にアタリの名が消えた。なおこの時社長を勤めていたダン・ヴァン・エルデレンは「ポン」量産開始直後に入社した、たたき上げである。
しかしタイムワーナーは家庭用(アタリコープ)に続き、アーケード部門もタイムワーナーからの切り離しを決定、買収元には日本のゲーム会社の名も挙がったが、1996年3月にピンボール大手のWMSインダストリーズに買収された。アタリ(ゲームズ)の名はWMS側で復活したものの、結局2000年2月に、アタリの名を使ったアーケード部門は消える事になった(この辺りの変遷はピンボールを参照)この合併の成り行き上、ミッドウェイゲームズは今でもアタリゲームズのゲームの権利を保有しており、またミッドウェイのスロットマシンには『ポン』等アタリのゲーム名を使っているものがある。
[編集] 分割後の主なゲーム作品
- ガントレット
- マーブルマッドネス
- ハードドライビン
- サンフランシスコ・ラッシュ
- ピットファイター
- プライマルレイジ
- ドライバー シリーズ
- Marc Ecko's Getting Up: Contents Under Pressure
- RBIベースボール[1]シリーズ(ファミスタのアメリカ版)
[編集] アタリコープ(家庭用ゲーム・パソコン部門)
家庭用ゲームやパソコン部門は新会社で分割、パソコンメーカーのコモドール社(Commodore)を追放されたジャック・トラミエルに売却され、アタリコープ(Atari Corp)となった。
分割前の1979年には、8ビットのパーソナルコンピュータAtari 400/800を発売し、家庭用パソコン市場に参入した。その後も16ビット機Atari STを発売(1985年)。MIDIを標準装備していることからミュージシャンに愛用者が多く、海外ではAmigaと人気を二分していた。その後、アタリコープは、1989年にポータブルマシンAtari Lynx、1993年にはAtari Jaguarを発売するが、いずれも最終的には失敗。これがアタリ最後のハードウェアとなった。
1996年にハードディスクメーカーのJTS(JTS Corporation)に吸収合併されたが、その後も資産売却や買収が短期間で連続、結局現在はフランスに本社を置くアンフォグラム傘下のアタリ(二代目)となった。詳細は「アタリジャパン」を参照。
結局一つの会社だったアタリのゲーム資産は、ミッドウェイとアンフォグラムに散らばっている。
[編集] 主なハードウェア
- Atari 2600/Atari VCS
- Atari Portfolio
- Atari 260ST
- Atari 520ST
- Atari 1040ST
- Atari Lynx
- Atari Jaguar
[編集] その他
アメリカのメロディアスパンクバンドThe AtarisやドイツのハードコアバンドAtari Teenage Riot はこの辺り(アタリ)からバンド名を付けたといわれている。
[編集] 外部へのリンク
[編集] 参考文献
- NHKスペシャル 新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防: ISBN 4-14-080274-X
- それは『ポン』から始まった:赤城真澄 アミューズメント通信社 ISBN 4-9902512-0-2 C3076
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主要メーカ | 任天堂 - ソニー・コンピュータエンタテインメント - マイクロソフト - セガ - NECホームエレクトロニクス |
その他メーカ | エポック社 - バンダイ - SNK - アタリ |