インカ帝国
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インカ帝国(正式名称「タワンティンスウユ(Tawantin Suyu / Tahuantinsuyo)」) は、南アメリカのペルーとボリビア(チチカカ湖周辺)を中心にケチュア族が作った国。13世紀に成立し、16世紀にスペインに侵略されるまで続いた。最盛期には、チリ、エクアドルにまで広がっていた。
インカ帝国は、メキシコ・グアテマラのマヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。
首都をクスコに置いた。
インカ帝国は、被征服民族については、比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。
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[編集] 名称
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、場合によっては国を表す。訳すと「四つの邦」という意味である。「四つの邦(スウユ)」とは、クスコの北方の旧チムー王国領やエクアドルを含む北海岸地方のチンチャ・スウユ、クスコの南側からチチカカ湖周辺、ボリビア、チリ、アルゼンチンの一部を含むコヤ・スウユ、クスコの東側のアマゾン川へ向かって降るアンデス山脈東側斜面のアンティ・スウユ、クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域のクンティ・スウユの4つを指す。4つの地方へは、全てクスコから伸びる街道があり、インカの宇宙観に基づいて4つの区分を象徴するようクスコ自体も建設されていた。
なお、インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉だった。スペイン人はこの言葉をケチュア族をさす言葉として使い、しだいに国をさす言葉として使われるようになった。
[編集] 文化
文字文化を持たなかったため、口語伝承に拠る物が、インカ帝国崩壊後に布教のために入ってきたスペイン人修道士による記録(年代記)の形で僅かに残されているに過ぎず、歴史や文化面で不明確な部分もあり、今後の研究が待たれる所もある。ただしキープと呼ばれる結び縄による数字表記が存在し、近年になって、このキープが言語情報を含んでいる事が研究によって明らかにされている。
ヨーロッパの技術が伝わるよりも前から、プレ・インカ時代の伝統を受け継いで金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)を精錬する技術を持っていた。
また、幾何学文様が描かれた長頸の尖底土器が特徴で、チャビン文化などプレ・インカ時代の土器や織物のように蛇、コンドル、ピューマなどの動物をモチーフにしたものは少ない。
[編集] 風土
アンデス高原地帯を中心とする範囲に栄え、ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕とリャマ、アルパカによる牧畜が行われていた。またモルモット等の食用鼠も広く民衆によって飼育されていた。広漠とした平野は極めて降雨量が少なく、農耕に適さないために、そこに住む者も稀であったが、高原地帯は海から吹き上げる風によって雲が出来、霧雨が降るため、湿潤な環境となり、農耕に適した。このような気候条件から、今日でも驚異的な高山都市を形成するに至った。
[編集] 政治
君主制国家で、近親結婚によって生まれた一族による世襲政治である。これは彼らの宗教観から、広く交雑する事で、「皇族」の血筋が汚されると考えたためである。「皇帝」は神の化身としても考えられ、当時の官僚は、同時に神官でもあった。
貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。税金の代わりに、農産物などを国に献上していた。
鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度はミタ制と呼ばれる。この労役の成果の一つとして、チャスキと呼ばれる飛脚による通信網を確立させていた。この通信網を使って広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。
「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化活動は貴族階級だけに許された行為であった。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだけを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。
[編集] 伝承
昔、チチカカ湖にある太陽の島 (Isla del sol)に、マンコ・カパック (Manco Capac)とその妹ママ・オクリョ (Mama Ocllo)が現れた。彼らは湖の彼方からやってきたとも、天から降り立ったとも、湖の中から現れたともいわれる。ママ・オクリョは太陽の島ではなく隣の月の島 (Isla de la luna)に現れたともいわれる。
マンコ・カパックは太陽の神インティ (Inti)の子であるという言い伝えと、チチカカ湖周辺の民族を巨大な津波により征服したビラコチャ (Viracocha)の子であるという言い伝えがある。天の神パチャカマック (Pachacamac)の兄弟ともされる。ママ・オクリョはマンコ・カパックの妻でありビラコチャの娘であるともいわれる。
インティ伝説によると、太陽の神はマンコ・カパックとその兄弟たちをパカリタンボ (Pacaritambo)という洞窟からこの世に遣わした。インティはタパク・ヤウリ (Tapac Yauri)と呼ばれる金の杖を与え、その杖が地面に沈む地に太陽の神殿を作るように指示した。 マンコ・カパックはママ・オクリョたちとともに地下の道を通ってクスコに行き、父インティを讃える神殿を建設した。クスコへの旅の途中、何人かの兄弟は石になり、偶像(ワカ : Huaca)になった。
ビラコチャ伝説によると、マンコ・カパックと兄弟はビラコチャの子供で、クスコに近いパカリ・タンプ (Paqariq Tanpu)という所で暮らしていた。アヤ・アンカ (Ayar Anca)、アヤ・カチ (Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ (Ayar Uchu)、ママ・オクリョ、ママ・ワコ (Mama Waqu)、ママ・ラウア (Mama Rawa)、ママ・クラ (Mama Cura)という兄弟姉妹たちとクスコの谷へ遠征しながら近隣の10の部落を併合していった。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説にはマンコ・カパックは兄を嫉妬と裏切りで殺してクスコの支配者になったとされる。
複数の伝承の矛盾に気づかせないために、庶民はビラコチャの名を口にすることが禁じられていたといわれる。
なお、伝承に残っているインカ帝国の王(皇帝)のうち、この初代のマンコ・カパックだけは実在しない人物であるという説もある。
[編集] 関連項目
[編集] インカ帝国を題材にした作品
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