ウジェーヌ・ド・ボアルネ
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ウジェーヌ・ド・ボアルネ(Eugène de Beauharnais、1781年9月3日 - 1824年2月21日)は、 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの息子。妹はオルタンス・ド・ボアルネ。ナポレオン1世の養子でイタリア副王。 後にロイヒテンベルク公。
[編集] 生涯
ウジェーヌは、1781年9月3日にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵とジョゼフィーヌの長男として、パリで生まれた。1783年には、妹のオルタンスが生まれたが、両親の夫婦仲は悪かった。アレクサンドルは、既にジョゼフィーヌと結婚する前から、年上の未亡人だったマダム・ロンプレという女性との間に私生児をもうけるなど、大変な女好きだった。さらに、彼は教養がなく、あかぬけないジョゼフィーヌを見下していた。
間もなくアレクサンドルは、パリの邸宅に妻を置き去りにして、旅行ばかりするようになった。その後は、愛人のロンプレ夫人とマルティニーク島に戻ってしまった。ついに、2人は1785年の春に離婚した。裁判は、ジョゼフィーヌの勝訴となった。息子のウジェーヌはアレクサンドルが、娘のオルタンスはジョゼフィーヌが引き取る事になった。
ジョゼフィーヌは、1788年の夏にオルタンスを連れてマルティニーク島の実家に戻った。しかし、1790年の秋、黒人奴隷が大挙して白人の農園主を襲うなど、不穏な情勢になったため、彼女はパリに戻った。前夫のアレクサンドルは、自由主義者として進んでフランス革命に同調し、議員として三部会にも選出され、議長まで務めた。しかし新憲法により議席を失って再び軍人に戻り、1793年の春にはライン方面軍最高司令官になっていた。ところが、彼はイギリスとの戦いに敗れ、外敵通謀を疑われ、カルム監獄に投獄された。続いてジョゼフィーヌまで、投獄されてしまった。 1794年7月24日にアレクサンドルは処刑された。しかし、その3日後、ロベスピエールも処刑され、ジョゼフィーヌは8月3日に釈放された。それからジョゼフィーヌは離れていたウジェーヌも引き取り、彼には大工の見習いをさせ、オルタンスにはお針子をさせた。その後、ウジェーヌは1795年に起きたヴァンデミエールの反乱を鎮圧した事で、一躍有名になったナポレオン・ボナパルト将軍の許を、父の形見のサーベルを返してもらいに訪れた。アレクサンドルは素行の悪い父だったが、ウジェーヌは父を尊敬し、美化している所もあった。
ナポレオンは少年の訴えに感動し、剣を返してやった。その後、ジョゼフィーヌがこのお礼にナポレオンの家に出向き、この縁で、ナポレオンとジョゼフィーヌは1796年3月9日に結婚した。母の再婚に、オルタンスは賛成した。しかし、思いがけず自分が取り持つ事になった母の再婚について、ウジェーヌは反対だったらしい。だが、これ以降、彼は、ナポレオンの下で軍人として戦う事になった。1798年5月4日、ウジェーヌはナポレオンのエジプト遠征に同行した。だが遠征の最中にジョゼフィーヌの浮気が発覚し、離婚の危機に発展してしまった。
ウジェーヌは、エジプト遠征中に、いかにナポレオンがイポリット・シャルルの事で悩んでいるか、それにも関わらず自分に愛情を注いでくれ、自分がどれほど感動しているか、直ちにイポリットとの浮気を止める事などを、母に手紙で切々と訴えていたのだった。しかし、このウジェーヌの手紙は、イギリス政府に押収され、ジョゼフィーヌの許には届いていなかった。結局、ウジェーヌとオルタンスの涙の懇願や、まだ残っていたジョゼフィーヌへの愛情から、ナポレオンは離婚を思い止まった。これを境に、ジョゼフィーヌの浮気もなくなり、安定した夫婦生活になったため、ウジェーヌも安堵した。
彼は多くの戦いで、見事な軍功を立て、順調に昇進していった。また、彼は有能なだけでなく、誠実な人柄で、このような点からも、ナポレオンの厚い信頼を寄せられた。1806年に、ナポレオンは今までのウジェーヌの働きを認め、イタリア副王にした。同年に、彼はバイエルン王マクシミリアン1世の娘、アウグステ・アマーリエ・フォン・バイエルンと結婚した。これはアウグステ王女の結婚相手が決まっていたのを強引にナポレオンが押しのけて結婚させたものだったが、ウジェーヌとアウグステ王女の夫婦仲はとても良く、7人もの子供に恵まれた。
- ジョゼフィーヌ・マクシミリアーネ・ウジェニー・ナポレオーネ (スウェーデン国王オスカル1世妃)
- ウジェニー・オルタンス・アウグステ・ド・ボアルネ
- シャルル・アウグスト・ウジェーヌ・ナポレオン・ド・ボアルネ (ポルトガル女王マリア2世の最初の夫)
- アマーリエ・アウグステ・ウジェニー・ナポレオーネ・ド・ボアルネ (ブラジル皇帝ペドロ1世の後妻)
- テオドリンダ・ルイーズ・ウジェニー・アウグステ・ナポレオーネ・ド・ボアルネ
- カロリーネ・クロティルデ・ド・ボアルネ
- マクシミリアン・ヨーゼフ・ウジェーヌ・アウグスト・ナポレオン・ド・ボアルネ (ロシア皇帝ニコライ1世の娘ニコラヴェナの夫)
しかし、野心ばかり強いナポレオンの兄弟達は、ナポレオンに厚遇されている彼の存在を、彼の母のジョゼフィーヌと同様に、敵視していた。1809年には、ウジェーヌは母のジョゼフィーヌに、ナポレオンとの離婚に同意するよう説得している。
1813年、ライプツィヒの戦いでは、ジョアシャン・ミュラが保身のため、妻のカロリーヌと共に敵国であるイギリスやオーストリアと内通し、ウジェーヌはミュラの軍に阻まれてナポレオンを救援に行けなかった。ウジェーヌは、1814年の4月になって義父のマクシミリアン1世に帰順を勧められても、まだ自分の部隊を死守して戦い続けていたが、4月11日にナポレオンが退位するとついに降伏し、マクシミリアン1世にもうナポレオンに協力しない事を誓約した。その後、ウジェーヌはマクシミリアン1世によって、ロイヒテンベルク公の地位を与えられた。1824年に、ウジェーヌはミュンヘンで死去した。
なお、1831年にベルギー国王候補として次男マクシミリアンの名が挙がったが、イギリスの圧力によりザクセン・コーブルク・ゴータ家のレオポルト(レオポルド1世)に敗れた。