エンバーミング
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エンバーミング(embalming)の明確な定義はないが、欧米では遺体を消毒、保存処理を施し、また、必要に応じて修復し、長期保存を可能にしようとする技法とされている。日本語では遺体衛生保全と翻訳されている。また、現在でも土葬の風習が多い欧米では、遺体からの感染症まん延を防止するという目的も含まれている。
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[編集] 概要
人間や動物の肉体は死後、体内にある自己融解酵素及び体の内外に棲息する微生物などによって、細胞レベルで急速に分解が始まり(腐敗)、さらにはこれとほぼ同時進行でクロバエ科やニクバエ科を中心とするハエの幼虫(いわゆる蛆)などの死肉食性の昆虫の摂食活動によって速やかに損壊する。しかしながら、遺体を遠方に運ぶ必要がある場合など、遺体の長期保存が必要となる場合がある。また、感染症で死亡した遺体は通常の保存方法や埋葬方法で衛生上の問題は発生しないものの、遺体そのものへの接触および遺体から浸出した体液・腐敗汁などの汚染によって感染する可能性はゼロではない。
エンバーミングとは、上記の問題に対処すべく、エンバーマーと呼ばれる葬儀の専門の技術者や医学資格を有した医療従事者によって故人の遺体に対して行われる化学的・外科学的処理のことである。
[編集] プロセス
現代のエンバーミングは、具体的には以下の方法で行われている。
- 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。
- 遺体の表情を整え、必要に応じて髭を剃るなどの処理を行う。
- 遺体に少切開(主に頸部など)を施し、動脈より体内に防腐剤を注入。同時に静脈より血液を排出する。
- 腹部に約1cmの穴を開け、そこから鋼管を刺し胸腔・腹腔部に残った体液や、腐敗を起こしやすい消化器官内の残存物を吸引し除去する。また同時にそれらの部分にも防腐剤を注入する。
- 切開を施した部位を縫合し、事故などで損傷箇所がある場合はその部分の修復も行う。この時、切開を行った部分にはテープ等を貼り目立たなくする。
- 再度全身・毛髪を洗浄し、遺族より依頼のあった衣装を着せ、表情を整え直した上で納棺する。
上記の処理を行われた遺体は注入される薬剤の濃度や量により2週間程度は常温での保存が可能になる。もちろんこれ以上に徹底した処理を行えば保存可能期間を更に延ばすことが可能となるだけでなく、防腐剤の交換など、定期的なメンテナンスを行えば、半永久的な保存も可能になる(実際、ロシア革命の指導者として知られるウラジーミル・レーニンの遺体は、現在でもモスクワのレーニン廟で生前の姿のまま保存展示されている)。
また、それ以外にも遺体に美容を施すことにより、あたかも故人が生きて眠っているかのような安らかな容姿を演出することによって遺族の心を慰めるのもエンバーマーの重要な技術とされている。
[編集] 欧米と日本の現状
エンバーミングのはじまりは古代におけるミイラの作成であるが、近代エンバーミングが急速に発展する契機となったのは1860年代アメリカの南北戦争であるといわれている。当時の交通手段では兵士の遺体を故郷に帰すのに長期間を要したため、遺体保存の技術が必要とされ発達した。エンバーミングは北米と[要出典]欧米の一部ではごく一般的な行為であり、死→エンバーミング→葬儀という流れが確立している。特にアメリカでは州法で移動距離によってエンバーミングを義務づけるなど、州レベルの法整備がなされており、州法によりエンバーマーの教育・資格制度も整っている。ただし、州法にもとづく試験と資格のため、資格の発行権者は州知事もしくは州の衛生担当者であり国家資格ではない。そのため、州単位でエンバーミングに関する考えがまちまちであり、州法で資格やその他の規定をしていない州も存在する。また、アメリカでは土葬率の非常に高い南部地区のエンバーミング率は95%以上だが、大都市部や西海岸地区、ハワイでのエンバーミング率は大きく低下してきており、アメリカでの火葬率の上昇にともない、アメリカ全土でのエンバーミング率は低下の一途を辿っている。
一方、日本ではエンバーミングの風習もこれを想定した法規制もない。これは、今日の日本では遺体の最終処理は99%以上が仏教の影響により火葬であり(アメリカのネバダ、アラスカ、ハワイ、ワシントン州などでは火葬率は60%であるが、キリスト教プロテスタント教会保守派の影響が強い中南部の州では火葬率は5%程度)、また狭い国土ゆえ輸送時間も[要出典]欧米に比して短く、欧米ほど長期保存の必要性や感染症まん延のリスクがないためであるといわれている。
キリスト教では最後の審判に際しての死者のよみがえりの教義を持つため、キリスト教会の見解として火葬を禁止してきた。しかし、1913年にはチェコ・カトリック教会、1944年に英国国教会、1963年にフランス・カトリック教会が「火葬は教義に反しない」と火葬を認めた。これに遅れて、1965年にはローマ・カトリック教会が教令1203条の「火葬禁止令」を撤廃し、バチカンの正式見解として「火葬は教義に反しない」としたため、地域による格差はあるものの徐々に火葬が許容されつつある。
これに対して日本では、欧米の様なキリスト教による遺体の復活信仰とそれにともなう火葬の禁忌が乏しく(ただし、神道家の一部に火葬否定の思想はある)、火葬技術の進歩によって近現代に急速に土葬習慣が衰退したために近代的エンバーミングの発達をみることがなかったのである。
今日の日本では、遺体の修復や消毒(欧米のエンバーミングとはやや性格を異にする)は医療機関で死亡すると看護師によりエンゼルケアとして医療機関内で行われるが、その後に商業行為として葬儀のオプションであるエンバーミングが葬儀業者によって行われることがある。また、長期保存の必要性が少なく、国内で死亡したほとんどの遺体は死後3日程度で火葬されるため、長期保存が必要な場合はもっぱら低温保存による。加えて、エンバーミング料金とエンバーミング施設までの搬送料金を加えると、遺族の負担額は20万円程度となり、僅か数日の保存のために20万円の金額も疑問が生じる。(土葬によりエンバーミング率の高いアメリカでは4万円程度)
近年、日本でも遺体の修復や保存に関する商品化が葬儀業界内で高まりつつあり、葬儀業界団体である日本遺体衛生保全協会(IFSA)が1994年に設立され、環境省の行政指導を受けながら、エンバーミングを日本に定着させようとする動きがある。しかしながら、エンバーマーは医学(解剖学、組織学、公衆衛生学など)の知識が必要な専門職であり、現在のところ公的資格者でなく、葬儀業界団体認定資格や企業内資格であるエンバーマーの知識・技術に疑問を投げかける識者も少なくない。また、遺体の処置に関する手法(マニュフェクト)の内容についても法的規制やレベル規定がなく、多くは[要出典]欧米のそれを模したものではあるが日本国内の法や規制には即していない部分もあり、いまだ葬儀業界団体の自主規制の域を出ない。エンバーミング料金についても日本では統一価格が設定されており、業界による価格調整も否定出来ない。
また、医療機関の中で一部エンバーミングを行う施設もあるが、医師や医療関係者が行うエンバーミングであっても法規制に則ったものではなく、医療行為の中での立場(医療行為の範疇か?料金等は適正か?)に問題がある。さらに、医師の管理下であるにもかかわらず意外にマニュフェクトがずさんな施設もあり、環境衛生上問題があるケースも散見される。解剖医師など一部を除いて、医師であっても遺体について必ずしも十分な知識を持っている訳ではないからである。
[編集] これから
2003年に「犯罪被害者の遺体修復費用の国庫補助予算」が国会で成立し、海外でテロの被害によって亡くなった外務官に対し、公費で遺体処置が施された。
しかし、公費負担による遺体修復は国内では北海道と埼玉県以外では行われておらず、海外で犯罪に巻き込まれ死亡した一般市民に対する遺体修復費は適応されていない。厚生労働省、環境省および関係省庁は現在(2005年7月)までにエンバーミングについての明確な見解や指針を示しておらず、国会議員の中からも法整備を求める動きは目立ってみられない。少なくとも現時点では、日本におけるエンバーミングは法の狭間にある存在で「違法とする法令がなく、少なくとも違法ではない」という非常にグレーな立場にある。 厚生労働省ではエンバーミングに関する法令が国内に存在しないことから、「日本国内では誰がエンバーミングを行なっても違法とは言えない」と判断をしているが、その半面に「遺体への切開や縫合を伴うエンバーミングは、医学に関する国家資格を有する者が行なうことが望ましい」と表明している。 しかし、これとて医学資格を有しない葬儀社社員が遺体に対し切開や縫合、エンバーミングを行なったとしても「現行法令では違法ではなく、罰則もない」と判断をしている。
悪いことに、一部の葬儀社が営利追求のため、専門知識を有しない社員にエンバーミングを行わせたり、遺体から抜き出した血液(感染症のおそれがある)を処理せずに公共下水道に流すなど、不適切なエンバーミングが行われた事例があり、エンバーミング施設(多くは葬儀社に付帯する)の周辺住民による反対運動に発展し訴訟に至ったケースもある。また、行政より施設の撤去を求められ移転を余儀なくされた事例、施設からの排水の下水道への放出を禁止した自治体もある。これら以外でも、エンバーミングを行うことにより遺体の顔貌が生前と大きく変わり、苦情となる場合も少なくなく訴訟に至るケースもある。このように、営利を追求しようとする一部の社会責任感を欠く業者は単なる「利益と他社との差別化」としてエンバーミングを捉えており、エンバーミングの歴史が浅い日本では、強力な罰則規定を持つ法によって管理されなければ、不適切なエンバーミングによって様々な問題が発生するのは確実であろう。しかし、資格や届出、許認可も必要ない葬儀業界とその関連した人々が主体で進められた日本のエンバーミングは、法制化や公的資格化の可能性はない。
本来、公衆衛生や遺族感情に貢献するはずのエンバーミングの日本における未来はとても明るいとはいえない。
エンバーミングと法整備。死は誰にでも訪れる必然であるがゆえ今後が注目される。
[編集] エンバーミングを題材とした作品
[編集] 映画
- 『EM/エンバーミング』(主演:高島礼子)
[編集] 海外ドラマ
- 『SIX FEET UNDER シックス・フィート・アンダー』(Super!drama TV/米2001~2005年/脚本:アラン・ボールほか)
[編集] 漫画
[編集] 小説
- 『生ける屍の死』(山口 雅也作)
[編集] 関連項目
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