キプチャク
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キプチャク(Qipchaq)は、中央ユーラシアのテュルク系遊牧民に起源をもつ部族集団。東ヨーロッパの歴史にあらわれるクマン人と同じ人々である。
現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでペルシア語でDasht-i Qipchāq(キプチャク草原)と呼ばれる。キプチャク草原を支配したジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、これに拠っている。
[編集] モンゴル帝国以前のキプチャク
キプチャクと呼ばれる遊牧民集団は、11世紀頃にハザールにかわってロシア南方の草原地帯にあらわれ、黒海北岸からアラル海北方の草原地帯に広がって遊牧するようになった。彼らは北のヴォルガ川中流域ではブルガール、東のアラル海方面ではカンクリ、西ではハンガリー王国とビザンツ帝国に接していた。ルーシ(ロシア)ではポロヴェツ、ヨーロッパではクマン(コマン)と呼ばれ、東ヨーロッパの諸国はたびたびキプチャクによる略奪目的の遠征を受けたり、時には同盟したりしながら密接な関係をもった。
当時のキプチャクはシャーマニズムを信仰しており、少し後の14世紀の記録によれば、トクサバ、イェティア、ブルジ・オグル、オルベルリ、クングル・オグル、アンチョグリ、ドルト、フェラナ・オグリ、ジェズナン、カラ・ブルグリ、ケネンの11部族に分かれていた。[要出典]
キプチャク遊牧民は騎兵として優秀であり、かつイスラム法において奴隷として売買されることが許可される非イスラム教徒であったため、クリミア半島や中央アジアを経てマムルーク(奴隷軍人)としてイスラム世界の広い地域で活躍した。
1223年、イランからカフカスを抜けてモンゴル帝国の将軍ジェベとスベエデイが率いるモンゴル軍がキプチャクの居住地に侵入した。キプチャクの諸部族はルーシの諸公と同盟してアゾフ海に近いカルカ川の河畔でモンゴル軍と戦ったが大敗した。1236年にはバトゥを総司令官とするモンゴル帝国の西方に対する大遠征軍が派遣されるが、キプチャクは翌1237年春にモンゴル軍の攻撃を受けた。キプチャクの一部は抵抗して滅ぼされ、一部は東ヨーロッパに走ったが、その大多数はほとんと戦わずしてモンゴル軍に降伏し遠征軍に荷担した。
抵抗したキプチャク遊牧民の中ではオルベルリ部の首長バチュマンが唯一頑強な抵抗を続けた。バチュマンはモンゴル軍の輜重を奇襲して悩ませた。バチュマンはヴォルガ川流域の森林に隠れてゲリラ戦を続けたので、遠征軍に参加した王族のひとりモンケは森林を囲んでバチュマンを追い立てた。追い詰められたバチュマンはヴォルガ川の中州の島に逃げ込んだが追いつかれ、捕らえられてついに処刑され、キプチャクの全てはモンゴルに併合された。
モンゴルによる征服後、抵抗して捕虜となった多くのキプチャク遊牧民がマムルークに売却されていった。そのうちのバイバルスやカラーウーンらはエジプトで権力を確立し、マムルーク朝を建設するに至る。また、4万戸のキプチャクはモンゴル軍の支配を逃れてハンガリーに移り住み、クン人と呼ばれるハンガリーで独自の文化を持った集団となった。[要出典]
[編集] 中央アジアのキプチャク
バトゥが建国したジョチ・ウルスでは、降伏したキプチャク遊牧民の多くは解体され、コンギラトやマンギトなどといったモンゴル高原からきた部族の支配下に組み入れられた。ジョチ・ウルスでは東方から移り住んできたモンゴル人はごく少数であったため、やがてジョチ・ウルスの領域である現在のキルギス共和国からクリミア半島のテュルク系民族のほとんどは、テュルク諸語のうちキプチャクの言語を基礎とするキプチャク語群に属する諸言語を話すようになる。
また、キプチャクの首長で降伏してジョチ・ウルスに仕える将軍となった者もあり、彼らの支配下の遊牧民はキプチャクの名前を保ったままモンゴル政権に加わった。その後の中央アジアの歴史において少なからぬ役割を果たした。14世紀後半以降、ジョチ・ウルスでは「カラ・キシ」あるいは「カラチュ」(いずれもテュルク語で「黒い人」)の意と呼ばれる部族の長たちが、「白い骨」と呼ばれるチンギス・ハーンの末裔たちを推戴して、ほとんどチンギス家にかわる支配者として振舞うようになるが、その中にはキプチャク部を称する者も多く、15世紀に成立したジョチ・ウルスの継承政権カザン・ハン国やクリミア・ハン国ではキプチャク出身のカラチの将軍たちがハンと並ぶ強い権力をもった。[要出典]
同じ15世紀にはジョチ・ウルスの東方で遊牧民たちはウズベクと呼ばれるようになるが、その中にもキプチャク系の集団が主要な構成要素として参加し、キプチャクの名をもった集団がウズベクのシャイバーン朝やウズベクから分立したカザフに参加した。カザフに接したノガイ、バシキール、キルギス、トルクメンなどの周辺の諸勢力にも、キプチャクの名をもった集団が加わっていた。現在も、これらの民族の中にはキプチャクの名をもった下位集団が存在し、それぞれの現代語では、クプチャク、クプシャクなどと呼ばれている。
[編集] 東アジアのキプチャク
キプチャクは、中国史料には「欽察」という漢字であらわれる。オルベルリ部族のバチュマンがモンケに倒された後、モンケに投降した多くのキプチャク部族の人々は東アジアに連れてこられ、モンケが第4代大ハーンに即位した後には南宋との戦争に投入された。[要出典]モンケの死後、第5代大ハーンに即位したクビライもキプチャク軍団を引継ぎ、キプチャクの王族出身の将軍トクトガを司令官とするキプチャク親衛軍(欽察親軍)を設立した。[要出典]元朝のキプチャク親衛軍はとくにモンゴル高原において行われたモンゴル同士の戦争で力を発揮し、シリギの乱、ナヤンの乱の鎮圧に戦功をあげた。クビライの晩年にはその秘蔵の精鋭部隊となった彼らは、クビライの次のテムルのとき、テムルの甥カイシャンの指揮下に付属されて、カイドゥを破りオゴデイ家を滅ぼした一連の戦役に活躍、1307年にカイシャンが第7代ハーンに即位すると、キプチャク軍団はアスト軍団、カンクリ軍団など他の非モンゴル系の軍団とともにモンゴルに等しい待遇を与えられるに至る。[要出典]
トクトガの孫エル・テムルは、1328年にイェスン・テムル・ハーンが上都で没した好機をとらえ、ついにクーデターを起こしてもうひとつの首都大都を占拠した。カイシャンの遺児トク・テムルを迎えてハーンに即位させたエル・テムルは絶大な権力を握り、元をエル・テムル率いるキプチャク軍閥の傀儡同然にさせた。エル・テムルは1333年に没するが、同年に即位したトゴン・テムル・ハーンにはエル・テムルの娘が皇后として配され、キプチャク軍閥の影響力は維持された。しかし次第にアスト軍閥のバヤンがキプチャク軍閥よりも権力を握るようになったため、1335年、エル・テムルの子タンキシは実権を奪還しようとクーデターを起こして失敗し、キプチャク軍閥は滅ぼされてしまった。[要出典]
『元史』によれば、元におけるキプチャク部族は濁りがなく味の良い馬乳酒をつくって宮廷に献上する決まりであった。これを「黒馬酒」と呼んだので、元ではキプチャクの人々はモンゴル語では「黒い人」という意味のカラチ(ハラチ)という名前で呼ばれたという。[要出典]元が明に追われて北元となった後、15世紀の中葉から16世紀に内モンゴルの中部で勢力を持った人々にハラチン部族がいるが、これを元のキプチャク軍団と関係づける説もある。[要出典]