ギリシア神話
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ギリシア神話 (ギリシアしんわ、ギリシア語:ΜΥΘΟΛΟΓΙΑ ΕΛΛΗΝΙΚΗ、英語:Greek mythology) は、古代ギリシアの諸民族に伝わった神話・伝説を中核として、様々な伝承や挿話の要素が組み込まれ、累積してできあがった、世界の始まりと、神々、そして英雄たちの物語である。古典ギリシア市民の標準教養として、更に、古代地中海世界での共通知識として、ギリシア人以外にも広く知れ渡った神話の集成を言う。
ローマ神話の体系化と発展を促進し、両者のあいだには対応関係が生み出された。またプラトーンを初めとして、古代ギリシアの哲学や思想、そしてヘレニズム時代の宗教や世界観に影響を与えた。キリスト教の擡頭と共に神話の神々への信仰は希薄となり、やがて西欧文明においては、古代人の想像の産物ともされた。しかし、この神話は古代の哲学思想だけでなく、キリスト教神学の成立にも大きな影響を与えており、西欧の精神的な脊柱の一つであった。中世を通じて神話の生命は流れ続け、ルネサンス期、そして近世や近代の思想や芸術においても、この神話はインスピレーションの源泉であった。
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[編集] ミュートロギア
古代ギリシア語におけるミュートロギア(μυθολογία、mythologia、神話)という語は、μυθος(mythos)と λογος(logos)の合成語である。「ミュートス(mythos)」は、「語ること・語られた内容」、そして語られたものとしての「物語・話・伝説・神話」を意味する。他方、「ロゴス(logos)」は、legein という動詞から派生した名詞であり、legein は大きく分けて、「述べる・語る・話す」と「集める・数える・選ぶ」の二つの意味がある。「ミュートロギア」とは前者の用法で、口承詩人が「神話や伝説を語ること」を意味する。一方で、「ロギア」には「語られた言葉の集成」の意味があり、プラトーンは、後者の用法で、記録され集成された神話の全体をこの言葉で呼んだ。
[編集] 典拠
[編集] 概説
今日、ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語は、およそ紀元前15世紀頃に遡るその濫觴においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作である。当時のヘレネス(古代ギリシア人は、自分たちをこう呼んだ)の世界には、神話としての基本的骨格を備えた物語の原型が存在していた。
しかし人々は、この地上世界の至る処に神々や精霊が存在し、オリュンポスの雪なす山々や天の彼方に偉大な神格が存在することは知っていたが、それらの神々や精霊が、いかなる名前を持ち、いかなる存在者なのかは知らなかった。どのような神が天に、そして大地や森に存在するかを教えたのは吟遊詩人たちであり、詩人は姿の見えない神々に関する知識を人間に解き明かす存在であった。神の霊が詩人の心に宿り、不死なる神々の世界の真実を伝えてくれるのであった。この故に、ホメーロスにおいては、ムーサ女神への祈りの言葉が、朗誦の最初に置かれた。
[編集] 口承から文字記録へ
口承でのみ伝わっていた神話を、文字の形で記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を、体系的に纏めたのは、ホメーロスより少し時代をくだる紀元前8世紀の詩人ヘーシオドスである。彼が歌った『テオゴニア』においても、その冒頭には、ヘリコーン山に宮敷き居ます詩神(ムーサ)への祈りが入っているが、ヘーシオドスは初めて系統的に神々の系譜と、英雄たちの物語を伝えた。このようにして、彼らの時代、すなわち紀元前9世紀から8世紀頃に、「体系的なギリシア神話」がヘレネスの世界において成立したと考えられる。
無論、それは地域ごとで食い違いや差異があり、伝承の系譜ごとで様々なものが未だ渾然として混ざり合っていた状態であるが、しかし、オリュンポスを支配する神々が誰であるのか、代表的な神々の相互関係はどのようなものであるのか、また世界や人間の始源に関し、どのような物語が語られていたのか、それらは、ヘレネスにおいてほぼ共通した了解のある、或るシステムとなって確立したのである。
しかし、個々の神や英雄は具体的にどのようなことを為し、古代ヘレネスの国々にどのような事件が起こり、それはどういう神々や人々・英雄と関連して、どのように展開し、どのような結果となったのか。これらの詳細や細部の説明・描写などは、後世の詩人や物語作者などの想像力が、その詳細を明らかにし、ギリシア神話の壮麗な物語の殿堂を飾ると共に、陰翳に満ちた複雑で精妙な形姿を構成したのだと言える。
ギリシア悲劇の作者たちが、ギリシア神話に奥行きを与えると共に、人間的な深みをもたらし、神話をより体系的に、かつ強固な輪郭を持つ世界として築き上げて行った。ヘレニズム期においては、アレクサンドリア図書館長で詩人でもあったカルリマコスが膨大な記録を編集して神話を敷衍し、ロドスのアポローニオスなどが新しい構想で神話物語を描いた。ローマ帝政期に入って後も、ギリシア神話に対する創造的創作は継続して行き、紀元1世紀の詩人オウィディウス・ナーソの『変身物語』が新しい物語を生み出しあるいは再構成し、パウサニアスの歴史的地理的記録やアプレイウスの作品などがギリシア神話に更に詳細を加えていった。
[編集] 体系的記述
ギリシア神話を体系的に記述する試みは、既に述べた通り紀元前8世紀のヘーシオドスの『テオゴニア(神統記)』が嚆矢である。ホメーロスの叙事詩などでは、すでに聴衆にとっては既知のものとして、詳細が説明されることなく言及されている神々や、古代の逸話などを、ヘーシオドスは系統的に記述した。『テオゴニア』において神々の系譜を述べ、『仕事と日々』において人間の起源を記し、そして現在は断片でしか残っていない『女傑伝』において英雄たちの誕生を語った。
このような試みは、紀元前6世紀から5世紀頃のアルゴスのアクーシラーオスやレーロスのペレキューデースなどの記述にも存在し、現在はすでに湮滅して僅かな断片しか残っていない彼らの「系統誌」は、古代ギリシアの詩人や劇作家、あるいはローマ時代の物語作家などに大きな影響を与えた。
古代におけるもっとも体系的なギリシア神話の記述は、紀元1世紀頃と考えられるアポロドーロスの筆になる『ビブリオテーケ(3巻16章+摘要7章)』である。この体系的系統本は、紀元前5世紀以前の古典ギリシアの筆者の文献等を元にギリシア神話が纏められており、オウィディウスなどに見られる、ヘレニズム化した甘美な趣もある神話とは、まったく異質で荒々しく古雅な神話系譜を記述していることが特徴である。
[編集] 典拠著作・作者
- 古代ギリシア詩
- 系譜学者たち(紀元前6世紀-紀元前5世紀頃)
- アルゴスのアクーシラーオス [著作は湮滅]
- レーロスのペレキューデース [著作は湮滅]
- 古典劇作家詩人
- ピンダロス Πινδαρος (紀元前522年頃-紀元前443年) 『オリュンピア祝勝歌』他多数・合唱詩(コロス)
- 古典悲劇詩人
- 古典喜劇詩人
- ヘレニズム期
- カルリマコス Καλλιμαχος (紀元前310年頃-紀元前240年頃) 詩人・アレクサンドリア図書館長
- ロドスのアポローニオス Απολλωνιος Ροδιος (紀元前295年?/270年頃-紀元前215年) 『アルゴナウティカ(4巻)』
- ローマ帝政期
- アポロドーロス Απολλοδωρος (紀元1世紀頃) 『ビブリオテーケ(系統譜・ギリシア神話)』
- オウィディウス・ナーソ Publius Ovidius Naso (紀元前43年-紀元17年) 『変身物語(Metamorphoses)』『祭暦(Fasti)』
- アプレイウス Lucius Apuleius (紀元124年頃-180年頃) 『黄金の驢馬(Metamorphoses)』-『愛と心の物語』
- パウサニアス Παυσανιας (紀元2世紀) 『ギリシア案内記』
[編集] 構成
ギリシア神話は、大きく分けると、三つの部分または主題から構成される。
- 世界の起源
- 神々の物語
- 英雄たちの物語
第一の「世界の起源」を主題とする神話物語は、分量的には短く、アルカイクな素朴な神話という趣がある。それは、後述するように、主に二つの系統が存在する。(ヘシオドスが『テオゴニア』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。
第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語で、人間の運命の背後にあって神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。
第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述ともある意味で言える『古事記』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『日本書紀』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「半神」としての英雄や、古代の伝説的英雄を祖先として系図作成を試みたからだとも言える。
ギリシア神話では人間の時代を金の時代、銀の時代、青銅の時代及び鉄の時代に分けている。金の時代は人間は仏教でいうところの天人に近く、百年近い寿命を持って神を敬い平安に過ごしたとされ、穏やかに死んだとされる。銀の時代においては神を敬わなくなったためやがて神々に滅ぼされたとされる。青銅の時代は戦いに明け暮れる時代ではあり、人びとは殺しあって滅び、最後の鉄の時代が現代で人間は仏教で言うところの修羅に近い存在とされ、愚かで戦いを好み欲望に苦しめられていると考えられた。
神話的英雄や伝説的な王などは、膨大な数の子孫を持っていることがあり、樹木の枝状に子孫の数が増えて行く例は珍しいことではない。末端の子孫となると、ほとんど具体的エピソードがなく、単なる名前の羅列になっていることも少なくない。
しかし、このように由来不明な多数の名前と人物の羅列があるので、歴史時代のギリシアにおける多少とも名前のある家柄の市民は、自分は神話に記載されている誰それの子孫であると主張できたとも言える。ウェルギリウスの『アイネーイス』が、ローマ人の先祖をトロイエー戦争にまで遡らせているのは明らかに神話的系譜の捏造であるが、これもまた、広義にはギリシア神話だとも言える(正確には、ギリシア神話に接続させ、分岐させた「ローマ神話」である)。ウェルギリウスは、ギリシア人自身が、古代より行って来たことを、紀元前1世紀後半に、ラテン語で行ったのである。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
原典翻訳
- ホメーロス 『イーリアス・上中下』 岩波書店
- ホメーロス 『オデュッセイア・上下』 岩波書店
- ヘーシオドス 『神統記』 岩波書店
- ヘーシオドス 『仕事と日』 岩波書店
- ホメーロス 『ホメーロスの諸神讃歌』 ちくま学芸文庫
- アポロドーロス 『ギリシア神話』 岩波書店
- オウィディウス 『変身物語・上下』 岩波書店
- アプレイウス 『黄金の驢馬』 岩波書店
ギリシア神話体系記述本
- 呉茂一 『ギリシア神話』 新潮社
- ロバート・グレーヴス 『ギリシア神話・上下』 紀伊國屋書店
- カール・ケレーニー 『ギリシア神話-神々の時代』 中央公論社
- カール・ケレーニー 『ギリシア神話-英雄の時代』 中央公論社
参考書
- 高津春繁・斎藤忍随 『ギリシア・ローマ古典文学案内』 岩波書店
- 藤縄謙三 『ギリシア神話の世界観』 新潮社
辞典
- 高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店
- Liddell & Scott 『 An Intermediate Greelk-English Lexicon 』 Oxford
- Liddell & Scott 『 Greek-English Lexicon 』 Oxford
その他
- 里中満智子 『漫画ギリシア神話・全8巻』 中央公論新社
[編集] 外部リンク
- ギリシャ神話
- THE DEITIES OF GREECE MYTHOLOGY
- イリアス土井晩翆訳のイリアス