コンスタンティノス9世モノマコス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンティノス9世モノマコス(ギリシア語:Κωνσταντίνος Θ' Μονομάχος (Kōnstantinos IX Monomakhos)、1000年 - 1055年1月11日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:1042年 - 1055年)。ロマノス3世アルギュロスの縁戚。「モノマコス」は姓で、「孤独な戦士」の意。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス9世モノマホス」。
先帝ミカエル5世は、自身が親政を行なうために邪魔な存在であった皇太后ゾエを追放しようと図ったが、逆に捕らえられて、盲目にされたうえで追放された。その後、ゾエが妹のテオドラとともに女帝として即位したが、二人は仲が悪く、うまく統治できなかったため、わずか2ヵ月後でゾエとテオドラは退位。ゾエが元老院議員であったコンスタンティノス・モノマコスと結婚し、彼を皇帝として即位させた。これが、コンスタンティノス9世モノマコスである。
当時帝国内では文官官僚の元老院議員と地方の軍事貴族とが対立していた。文官出身のコンスタンティノス9世は文官貴族を優遇し、官職を増やして官僚制を肥大化させ、財政支出を増加させた。さらにコンスタンティノスとゾエ・テオドラ姉妹は奢侈に耽って財政の困窮に拍車をかけた。軍事面では兵農兼業の農民を納税者に代えて傭兵制を導入し、同時に財政難を補うために軍縮を推進したが、軍事貴族の反感を買ったばかりか、帝国の軍事力の低下を招いてしまった。
また、首都の有力商人を元老院議員とした。これは支配層に新しい血を導入することになったが、後に商人達が国家に寄生する階層となってしまうことになった。他方、文化面では宮廷に優れた人材を集め、宮廷を中心に法学・文学・哲学が栄えた。
このようなコンスタンティノスの政策に対し、帝国各地でゲオルギオス・マニアケスやレオーン・トルニキオスなどの軍事貴族出身の将軍達が反乱を起こし、帝国はさらに衰退してしまった。反乱は何とか鎮圧したが、南イタリアの守備を担当していたマニアケスが反乱を起して死亡したために南イタリアにはノルマン人が侵入し、イタリア半島の東ローマ帝国領は失われていった。
1054年、共に野心的なローマ教皇レオ9世とコンスタンティノポリス総主教ミカエル1世ケルラリオスとの関係が決定的に悪化。7月16日にフンベルト枢機卿がハギア・ソフィア大聖堂にミカエル1世とその支持者に対する破門状を置き、ミカエル1世も民衆を扇動して皇帝を動かし、ローマ教会の使節団の破門を決定した。コンスタンティノス9世自身はノルマン人の南イタリア侵入に対抗するために両教会の関係改善を望んでいたが、意志が弱いコンスタンティノスはミカエル1世を抑えられず、東西キリスト教会の分裂は決定化(大シスマ)。南イタリアはノルマン人に奪われてしまった。
このように帝国が混迷を極める中での1055年、コンスタンティノス9世は病死した。
[編集] 関連項目
- ウラジーミル2世モノマフ - キエフ大公国の大公。コンスタンティノス9世の娘アンナとヤロスラフ1世の子フセヴォロドの間に生まれた。「モノマフ」は「モノマコスの孫」の意味。
東ローマ帝国マケドニア王朝 | ||
---|---|---|
先代 |
次代 |