三十年戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三十年戦争(さんじゅうねんせんそう, dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。「最後の宗教戦争」とも形容されることがあるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。
「三十年戦争」という表現をしたのは17世紀のプーフェンドルフとされる。
目次 |
[編集] 前史
[編集] 概要
三十年戦争は三十年間絶えることなく続いたわけではなく、数ヶ月から2年の小康状態を挟んで継続された。その理由として、当時は近代的な軍隊組織が未発達で、国王直属の常設軍隊は稀であったことが挙げられる。軍の圧倒的多数が傭兵によって賄われていたため、長期間にわたる軍隊の統制が困難だったのである。また、長期にわたって戦争を継続することは国家財政に多大な負担がかかるため、息切れするかのように戦争が中断されることになった。しかし、戦争が泥沼化していくに連れ、戦闘の無い期間は少なくなり、最終段階に至っては13年間の長期にわたる闘争が繰り広げられることになった。
この戦争はおおよそ四つの段階を経て展開され、先へ進むにつれて破壊と殺戮の規模が増大していった。この四段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。
- 第1段階:ボヘミア・ファルツ戦争(1618-23)
- 第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625-29)
- 第3段階:スウェーデン戦争(1630-35)
- 第4段階:スウェーデン・フランス戦争(1635-48)
三十年戦争は新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)との間で展開された宗教戦争と見られがちであるが、それはこの戦争のほんの一面を示しているに過ぎない。当初は宗教闘争に名を借りた民族対立の様相を呈していたが、戦争の第2段階から徐々に権力闘争としての側面があらわになり、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力の間の権力闘争として展開されていく。
この戦争が単なる宗派対立による宗教戦争ではないことは、戦争勃発当初から明らかであった。ボヘミアのプロテスタント諸侯たちと新教派のファルツ選帝侯によるハプスブルク家への反乱に対して、同じ新教派のザクセン選帝侯やブランデンブルク選帝侯は、彼らと新教連合(ウニオン)を結成していながら彼らを見捨て、ハプスブルク家を中心とした旧教派連盟(リガ)を支援したという事実からもわかる。しかもザクセン選帝侯は、皇帝側についたり、皇帝に反旗を翻したりと、情勢と戦争の展開に応じて立場を変えている。
そして、ボヘミアとファルツの新教勢力鎮圧によって新教連合が解体し、ハプスブルク家による新教派弾圧と強圧的なカトリック化政策がドイツ全域に及ぼされるに至って、イギリス、デンマーク、スウェーデンなどの新教派諸国が反ハプスブルクの旗印のもとで干渉の動きを示すようになっていく。
この反ハプスブルク勢力の中にはカトリック教国であるフランス王国も加わっていた。ブルボン朝の支配を確立し、フランスの勢力拡大をねらう宰相リシュリューは、デンマークとスウェーデンのドイツ情勢への介入を裏で手引きし、第四段階には直接軍事介入によって実力でハプスブルク帝国をねじ伏せようとする。
リシュリューがハプスブルク帝国の勢力拡大を阻止しようとした理由は、西ヨーロッパにおけるフランスの優位の確保と共に、フランス王権の確立にあった。もしドイツでハプスブルク家の支配が強固なものとなれば、スペインとドイツに挟まれたフランスにとって大きな脅威となり、固まりつつあったブルボン朝の支配が揺るがされる危険性があった。ブルボン朝の安泰のためには、ハプスブルク家のドイツ支配は何としても阻止しなければならなかったのである。
その一方で、リシュリューは同盟国のスウェーデンがドイツで成功すると、その強大化を阻止するため干渉を行う。これに対してスウェーデンも単独でボヘミアに侵攻するなど、三十年戦争後期は、列強間のパワーゲームの様相を呈していった。
このような大国の思惑によってドイツの小国、民衆は振り回され、激しい戦闘によって国土は荒廃していった。やがて外交交渉による戦争終結の道が開かれ、勢力均衡を原則とする国際秩序が形成されていくことになる。
[編集] ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)
1618-1623年。
当時のボヘミアは、カトリック派であるハプスブルク家の支配下にあった。新旧両教徒の間でたびたび軋轢が生じていたが、神聖ローマ皇帝たちは、プロテスタントの勢力が大きくなるとこれと妥協し、信仰を認めた。時の皇帝兼ボヘミア王マティアスも両教徒の融和政策を進めていた。
しかし、1617年、熱烈なカトリック教徒のフェルディナンド2世は、ボヘミア王に選出されると、新教徒に対する弾圧を始めた。翌1618年、弾圧に反発した新教徒の民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3名を王宮の窓から突き落とすという事件が起きた(第二次プラハ窓外投擲事件)。プロテスタントのボヘミア諸侯はこの事件をきっかけに団結して反乱を起こした。これが三十年戦争の始まりである。

反乱諸侯は他のプロテスタント諸侯に協力を呼びかけ、プロテスタント諸侯連合の賛同を得た。翌1619年、皇帝マティアスが死去し、ボヘミア王フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝も兼任するようになると、ボヘミア諸侯は議会で国王を廃し、プロテスタント諸侯連合の中心的存在だったプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に迎え、皇帝に対抗しようとした。フェルディナント2世はスペイン・ハプスブルク家やバイエルン公マクシミリアン1世などのカトリック諸侯の援助を味方に付け、ティリー伯を司令官とする軍を派遣した。プロテスタントのボヘミア諸侯は、諸侯連合から援軍を得られず、1620年の白山の戦いで大敗し、反乱は鎮圧された。フリードリヒ5世はわずか1年と4日で王位を追われた(冬王と呼ばれる)。
ハプスブルク軍がプファルツに侵攻したため、フリードリヒ5世は1622年にネーデルラントへ逃れた。復位をねらったが、グスタフ・アドルフの戦線復帰要請は拒み、1632年に客死した。1623年、フェルディナント2世はバイエルン公マクシミリアン1世にプファルツを与え、選帝侯の地位につけた。これは金印勅書という帝国の法に反するものであったため、諸侯の怒りを買った(三十年戦争長期化の一因とも言われている)。
これ以後、ハプスブルク家のボヘミアの支配は強固なものとなった。とりわけ1627年の新領法条例によって、議会は権力のほとんどを奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領となった。これにより、多くのボヘミア貴族や新教徒が亡命し、ヨーロッパ各地に散らばった。しかし、財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。
[編集] デンマーク・ニーダーザクセン戦争
1625年5月にデンマーク王クリスチャン4世がプロテスタント側について、参戦した。クリスチャン4世自身はプロテスタントであり、「白山の戦い」の勝利に自信をつけているカソリックに対抗することが参戦理由であった。しかし、実際は神聖ローマ帝国のニーダーザクセンの区長として、長らく空位になっている2つの帝国内の司教職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、皇帝フェルディナント2世は拒絶し、逆にティリー伯をニーダーザクセンに進駐させた為であった。
前1624年に、ハプスブルク家の勢力強化を恐れたフランスのリシュリューがフランスならびにオランダ、イギリス、スウェーデン、デンマークと「対ハプスブルク同盟」を結成し、ハプスブルクとカソリック連合を牽制した。またフランス、サヴォイ、ヴェネツィアがスペインのハプスブルク家への支援の道を阻んでいた。
これをうけ、北ドイツへの勢力拡大とバルト海、北海の覇権確立を狙っていたデンマーク王クリスチャン4世が、息子の司教職就任問題に対するフェルディナント2世の露骨な反発に対し、フランス、英国、スウェーデンの同盟による支援を受けて、1625年5月の介入となった。当初はスウェーデンとの共同介入であったが、両者の主導権争いの結果スウェーデンはポーランド問題に介入し、デンマークの単独での介入となった。デンマーク王の参戦に対し、英国は資金を提供し、マンスフェルト、ブラウンシュヴァイクのふたりの傭兵隊長の指揮下の援軍をよこした。 これにより、本格的な戦争の体制が調う。
一方、デンマークの参戦を受けて、フェルディナント2世は、戦費不足のため窮地に陥った。常備軍による応戦が不可能と判断した皇帝は、傭兵で対抗することとし、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシュタインに戦わせる。 一方、デンマークと傭兵軍では戦略に於いて主導権争いが発生し、ついに3者は別行動を取るようになる。マンスフェルトはデッサウの戦いでヴァレンシュタインに敗北し、ブラウンシュヴァイクも1626年1月13日に戦死。
1626年クリスチャン4世はルッターの戦いで、ティリー伯に敗れてしまう。
クリスチャン4世が一敗地に塗れると、ヴァレンシュタインとティリー伯はデンマークの神聖ローマ帝国におけるポンメルン、メクレンブルクの公爵領のみならず、ユトランド半島をも占領し蹂躙。クリスチャン4世はスウェーデンに支援を求めた結果、同盟が成立。からくもヴァレンシュタインをデンマークから退けた。1629年に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立。デンマークの介入はひとまず終息した。
[編集] スウェーデン戦争
[編集] スウェーデン参戦~レヒ川の戦い
グスタフ・アドルフ率いるスウェーデンがフランスの資金援助を受けて、新教徒を解放するべくドイツに侵入し、スウェーデン戦争は始まる。当初、スウェーデン軍は諸侯の援助を受けられなかったが、食料難に苦しむ皇帝軍がマクデブルクで略奪、虐殺を行ったことから情勢が一変する。ザクセン公と同盟を結んだスウェーデン軍は1631年9月17日、ライプツィヒの北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙。戦いは新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった。翌1632年4月15日にはレヒ川を挟んでスウェーデン軍と皇帝派のバイエルン軍が相対し、砲兵の効果的な運用でスウェーデン軍が圧勝。皇帝側は総司令官ティリー伯が戦死するなど大きな損害を被った。
[編集] ヴァレンシュタイン復活~リュッツェンの戦い
1632年11月16日ライプツィヒ郊外のリュッツェンで、破竹の進撃を続ける、グスタフ・アドルフのスウェーデン軍とヴァレンシュタイン率いる皇帝軍が会戦した。スウェーデン軍1万6千、皇帝軍2万6千である。この戦いでグスタフ・アドルフは戦死した。
レヒ川の戦いでティリー伯を戦死させるなど、スウェーデン軍は向かうところ敵なしの快進撃を果たす。このような事態を予想だにしなかったフェルディナント2世は、大いにうろたえた。ティリー伯の戦死で、有能な指揮官がいなくなったこともフェルディナント2世には痛手であった。皇帝は、ついに1630年8月、「専横極まれり」と罷免していたヴァレンシュタインの「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」という条件を呑んで、彼を皇帝軍の指揮官に再召喚する。ヴァレンシュタインはこれを受諾し、2万6千の軍勢を率いて出発した。
一方、迎え討つグスタフ・アドルフのスウェーデン軍は1万6千である。両者はリュッツェンで戦闘を開始。皇帝軍が方陣形を使用するのに対し、スウェーデン軍は一列隊形、T字隊形なども駆使し応戦する。会戦当初は皇帝軍に不利に戦局は動く。援軍も指揮官パッペンハイムが来着直後に戦死してしまった。ところが、有利だったスウェーデン軍に異変が起きる。総司令官、国王グスタフ・アドルフが戦死した。「スウェーデン王戦死」の報は皇帝軍を元気付け、スウェーデン軍に緊張をもたらした。しかし、スウェーデン軍はベルンハルト将軍が指揮を受け継ぎ、皇帝軍を退けた。
[編集] グスタフ・アドルフ戦死・ハイルブロン同盟
「国王戦死」の報を受けたスウェーデンストックホルムの宮廷では、クリスティナ王女が国王に即位。一方、宰相オクセンシェルナはドイツのプロテスタント諸侯との間に「ハイルブロン同盟」を締結し、「防衛戦争」という形で戦争を続行させた。これを受けてフランスのリシュリューはプロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引をし、カソリック国にも拘わらずフランスもこの同盟に参加する。スウェーデンは戦争を継続するが、新しい局面を迎えることになる。
[編集] ヴァレンシュタイン暗殺~ネルトリンゲンの戦い
グスタフ・アドルフの死は、プロテスタント諸侯を動揺させた。しかもスウェーデン軍とプロテスタント諸侯との分裂と言う事態を引き起こしてしまった。この事は皇帝軍を士気を高めさせることとなった。これに自信を持ったのか、皇帝は、ヴァレンシュタインを暗殺した。ヴァレンシュタインの排除はマイナスであったが、帝国諸侯の意を入れ暗殺に踏み切った。また、皇帝は嫡子フェルディナントの世襲の為に諸侯に譲歩したものの、この時はローマ王には選出されなかった。
しかし皇帝は、幸運にも主導権を奪い返した。嫡子フェルディナントを総司令官に任命し、ネルトリンゲンの戦いで、スウェーデン・プロテスタント諸侯軍(ハイルブロン同盟)を撃破した。この戦いでスウェーデン軍は壊滅し、三十年戦争の主導権を失ってしまった。もっともこの戦闘の最大の殊勲は、スペイン軍であった。しかしスペイン軍の栄光はここまでで、後には皇帝軍の足手まといになって行く。しかし、この勝利によって、皇帝は嫡子フェルディナントのローマ王選出に成功を収めている。
皇帝は、バイエルン公とザクセン公との和解、スペインの参戦に勇気付けられ、他方では戦闘が続いているにも関わらず、三十年戦争終結へ向けてプラハ条約にこぎ着けた。この条約は、皇帝の威光を高めたが、結局は、一時的なものでしかなかった。スウェーデン軍もかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟の危うさもありながらも、スウェーデンの宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスを直接介入させる事に成功し、三十年戦争は第四段階へと突入した。
[編集] フランス・スウェーデン戦争
[編集] 二人の宰相
スウェーデン・フランス戦争は、泥沼化し、1635年から1648年まで続いた。この戦役は皇帝軍の一方的な防衛戦争と化し、一方、フランス軍の参戦を受けたスウェーデン軍は猛然と巻き返しを図る。この時、フランスは後に名将と呼ばれるテュレンヌ将軍をドイツに送り込んだ。この戦役は、フランス宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の戦略戦争ともなった。フランス軍は、主にスペイン軍と、スウェーデン軍は、神聖ローマ皇帝軍と戦った。
[編集] 反ハプスブルクの反撃
その端緒は、スウェーデン軍と、攻勢に出た皇帝軍のヴィットストックの戦いであった。この戦争で勝利したスウェーデンは再び、ドイツ内部へと侵攻を開始する。この勝利から反ハプスブルク勢力の情勢は好転した。ネーデルラントでは、オランダがスペインを敗り、ブレダの要塞を陥落させる。この勝利はオランダの独立を確実なものとし、逆にスペインの覇権に翳りが見えてきた証左であった。
こうした事態の中、皇帝フェルディナント2世が死去した。新皇帝には、ネルトリンゲンの戦いで名声を得た、フェルディナントがフェルディナント3世として即位した。
フランス軍の傭兵隊長となったザクセン=ヴァイマル公ベルンハルトも攻勢に出た。1638年、ラインフェルデン、フライベルク、ブライザッハを陥落させた。ただしベルンハルトはフランスといざこざを起こし、後にザクセン軍とフランス軍は交戦する事となる。
同年、スウェーデン軍はハイルブロン同盟から寝返ったザクセン軍をケムニッツで敗り、ボヘミアに侵攻している。この時は、スウェーデン軍のバネル将軍の野心によって統率が乱れ、ボヘミア征服に失敗し、撃退されている。翌1639年、エアフルトで、フランス軍、スウェーデン軍、プロイセン軍が邂逅している。もっともプロイセン軍は、後に大選帝侯と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルムが翌1640年にプロイセン公となると防衛戦争に切り替え、事実上中立の立場をとった。
[編集] 和平会議の開始と戦争の行方
1640年頃から、皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。しかもスペイン軍は、この時期から、没落の兆しが明らかになって来ていた。フランス・オランダの前に敗退を重ね、皇帝もスペインの存在を疎ましく思い始める。この年、スペインのくびきを脱したポルトガル王国が独立した。
1642年、皇帝軍は、ブライテンフェルトで再びスウェーデン軍に敗れた。皇帝軍は1631年にもこの地で一敗地にまみれていた。皇帝はさらに逼迫し、和平の道を模索し始めた。この頃になると、帝国全体で厭戦気分が行き渡るようになる。1642年の暮れには、ライン川の両岸で和平会議が設置された。そしてようやく1644年に交渉が開始される。戦争を終わらせるには、両勢力の一方の決定的な勝利しかありえない。戦争は、交渉を優位に運ばせる為に、戦争を終わらせる為の戦いという矛盾した状況に追い込まれて行く。
帝国法によって、国際会議は設置されたが、戦争の主導権を奪い返したスウェーデンが和平会議も牛耳って行く。この時期フランスでは、1642年に宰相リシュリュー、翌1643年にフランス王ルイ13世が相次いで死に、リシュリューの政策は、新宰相マザランに引き継がれるが、新国王ルイ14世は幼くフランス国内は不安定となる。マザランは、引き継いだ政策の内、国王を神聖ローマ皇帝に戴冠するという野心を放棄せざるをえなくなる。しかし、1642年にフランス王族ルイ・ド・ブルボンがロクロアの戦いで、スペインを殲滅、1644年のフライブルクの戦いで、カトリック軍の牙城バイエルン公を敗った事で、三十年戦争における勝利を確実なものとした。
[編集] トルシュテンソン戦争~ボヘミア侵攻
一方スウェーデンは、ドイツで転戦するスウェーデン軍を背後から脅かすデンマークと戦端を開いた。この戦争は、トルステンソン戦争と言い、オランダ海軍も巻き込み、デンマークを屈服させた。三十年戦争によって中断されたバルト海の制覇をついに成し遂げた。また、この戦争で、グスタフ・ホルン将軍が三十年戦争に復帰した。この戦争には、皇帝軍も駆けつけたが、スウェーデン軍の前に惨敗した。
スウェーデンは、三十年戦争の勝利を確実にするために再びボヘミアへ侵攻する。1645年、プラハ近郊で、皇帝軍とヤンカウの戦いを起こすが、またしても皇帝軍は大敗してしまった。この時、プラハにいた皇帝フェルディナント3世は狼狽しウィーンへと逃亡した。この逃亡は、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミア冬王)の逃亡に酷似していた為、「フリードリヒの逃亡」と揶揄された。この事件は、ハプスブルク家の決定的な敗北であった。同年、バイエルン軍もスウェーデン軍に敗れた。バイエルン公は、フランスとよりを戻し、孤立したザクセン公も、スウェーデンと休戦条約を締結した。
[編集] ヴェストファーレン条約の締結
この一連の戦況によって、和平会議は一気に進んだ。国際会議には、イングランド、ポーランド、ロシア帝国、オスマン帝国を除いた全てのヨーロッパ諸国が参加した。しかし1646年の状況はさらに混沌の渦と化した。まず、皇帝軍がヤンカウの敗戦から驚異な復活を成し遂げた。皇帝軍のバイエルンへの合流の恐れが生じると、スウェーデンがバイエルンに再度侵攻する。フランスは、これを越権行為として、スウェーデン牽制の為にテュレンヌ将軍を派遣した。結果、両者に挟まれたバイエルンは屈服した。この後、バイエルン軍の将軍が反乱を起こし皇帝軍に合流する。
それでも皇帝は、最後のあがきを試みた。1618年、あのボヘミア・ファルツ戦争が勃発した地で最後の戦闘が行われた。三十年戦争は、回り回って、再びボヘミアの地へ回帰した。1648年、スウェーデン・フランス連合軍は、皇帝・バイエルン連合軍を敗った。万事休すであった。しかもスウェーデン軍はプラハを包囲した。スウェーデンは、プラハを占領した後、帝都ウィーンを攻める状勢を築き上げようとしていた。皇帝はついに力尽き、和平条約への署名を決断する。10月24日の事であった。
[編集] 三十年戦争終結
しかし、スウェーデンはなお、ボヘミアの征服とプロテスタント化を諦めなかった。1648年7月26日以降、プラハでは絶え間なく戦闘が繰り広げられた。しかし、カトリックの牙城となったプラハは、激しく抵抗し降伏には応じなかった。後にスウェーデン王となるカール10世(スウェーデン軍総司令官)も援軍に駆けつける。包囲戦は3ヶ月にも及んだ。
この地にヴェストファーレン条約の締結の報が届いたのは、11月2日であった。この日をもって、ついに三十年戦争は終結した。しかしスウェーデンは、親政を開始したクリスティーナ女王の政策によって、和平交渉において新たな展開が待ち受ける事となる。
[編集] 結果・影響
この戦争は、神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパの情勢に多大な影響を与え、その後のフランス革命に至るヨーロッパの国際情勢を規定することになった(ヴェストファーレン体制)。1648年に締結された史上初の多国間条約であるヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)によって戦争に最終的な決着がつけられ、この結果、おおよそ300に及ぶ領邦国家の分立状態が確定することになった。神聖ローマ帝国は、1806年にナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)によって滅ぼされるまでの間存続しつづけたが、亡霊のごとく単に名ばかりの実体のない国家として生き続けることとなる。オーストリア・ハプスブルク家はドイツ王ではなくオーストリア大公、後にオーストリア皇帝として18世紀、19世紀を生き延びることとなった。
長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していたペスト(黒死病)の影響もあり人口は激減し、交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。
なお、フランスとスペインの戦いは三十年戦争以後も継続し(西仏戦争)、1659年、ピレネー条約によって終結した。この条約は「ルシヨン、セルダーニャ、アルトワの割譲」「ルイ14世とフェリペ4世の王女マリア・テレサの結婚」「マリア・テレサは50万エスクードを持参金とし、その代償としてスペイン王位継承権は放棄」というものであった。この戦争を境としてスペインの覇権は失われ、フランスの覇権の時代が開始された。
またオスマン帝国は、三十年戦争に直接参戦していないが、属国トランシルヴァニア侯の介入によって、間接的に三十年戦争に関与し、ハプスブルク家を圧迫した。
[編集] 年表
- ボヘミア・ファルツ戦争1618年-1623年
- デンマーク・ニーダーザクセン戦争1625年-1629年
- スウェーデン戦争1630年-1635年
- フランス・スウェーデン戦争1635-1648年
- 1635年、スウェーデン、ポンメルンに撤退。フランス参戦
- 1636年、ヴィットストックの戦い、スウェーデン、皇帝軍撃退
- 1638年、スウェーデン、ボヘミアに侵攻、敗退
- 1638年、フライベルクの戦い、ザクセン、皇帝軍を撃破
- 1639年、フランス軍、スウェーデン軍、プロイセン軍、エアフルトで合流
- 1640年、皇帝フェルディナント3世、和平交渉を開始
- 1642年、ブライテンフェルトの戦い、スウェーデン、皇帝軍を撃破
- 1642年、ロクロアの戦い、フランス、スペインを壊滅させる
- 1644年、フライブルクの戦い、フランス、バイエルンを撃破
- 1644年、オスナブリュック、ミュンスターで和平会議始まる
- 1645年、ヤンカウの戦い、スウェーデン、皇帝軍を撃破。プラハに肉薄
- 1646年、バイエルン選帝侯、降伏
- 1648年、スウェーデン、プラハを包囲
- 1648年、ヴェストファーレン条約締結
[編集] 関連項目
[編集] 事項
[編集] 事件
- フス戦争
- 宗教改革
- トリエント公会議
- アウグスブルク宗教和議
- オランダ独立戦争
- プラハ窓外投擲事件
- 白山の戦い
- フライブルクの戦い
- リュッツェンの戦い
- トルシュテンソン戦争(スウェーデン・デンマーク戦争)
- ヴェストファーレン体制
[編集] 人物
[編集] その他
- ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ(三十年戦争を題材に取った戯曲「ブレダの開城」を執筆)
- フリードリヒ・シラー『三十年戦争史』『ヴァレンシュタイン3部作』
[編集] 参考文献
- 『ドイツ三十年戦争』 シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド 著, 瀬原義生 訳 刀水書房 ISBN 4887083173
- 『戦うハプスブルク家―近代の序章としての三十年戦争』 菊池良生 著 講談社 ISBN 4061492829
- 『傭兵の二千年史』 菊池良生 著 講談社 ISBN 4061495879
[編集] 歴史ゲーム
- ダブル・チャージ第4号 『三十年戦史』、国際通信社
カテゴリ: 書きかけの節のある項目 | 三十年戦争 | 17世紀のヨーロッパ史