シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州
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- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州
- Land Schleswig-Holstein
-
州旗 州の紋章 -
州都 キール 面積 157,62.90 km² (第12位) 人口
- 総計
- 人口密度(2005/12/31)
2,832,950 人 (第9位)
179.7 人/km²ISO 3166-2 DE-SH 公式サイト シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州政府 政 治 州首相 ペーター・ハリー・カルステンゼン (CDU) 与党 CDU・SPD連立 前回選挙 2005年2月20日 次回選挙 2010年 連邦参議院(上院)
での投票権数4 地 方 市町村数
* 独立市1125
4備考欄
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 (Land Schleswig-Holstein) は、ドイツに16ある連邦州のひとつで、最北端に位置する。
目次 |
[編集] 州名
州の4つの公用語での表記(ドイツ語のみ発音も)は、以下の通りである(言語の詳細は、後掲)。
- ドイツ語: Schleswig-Holstein - /ˈʃleːsvɪçˈhɔlʃtaɪn/
音声ファイル! ?
- 低ザクセン語: Sleswig-Holsteen
- フリジア語: Slaswik-Holstiinj
- デンマーク語: Slesvig-Holsten
日本語でのカタカナ表記には、様々なバリエーションがある。まず、前半の「シュレースヴィヒ」の部分について、長音の「ー」を省くもの、「ヴィ」を「ビ」または「ウィ」とするもの、最後の「ヒ」の前に促音「ッ」を入れるものがある。次に、後半の「ホルシュタイン」は「ホルスタイン」とすることもある。さらに、両者の間を等号「=」でつなぐ他に、中点「・」やハイフン「-」でつないだり、あるいは、間に何も入れずに直接続けることもある(最後のものは地図帳に多い)。以上を単純計算すると、96通りの表記があることになる。
州の北半分が「南シュレースヴィヒ地方」、南半分が「ホルシュタイン地方」と呼ばれてきた地域で、州名は両地方名の合成語である。また、今日、デンマークのセナーユラン県となっている「北シュレースヴィヒ地方」もあわせて、「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方」と呼ばれる。
牛の品種である、ホルスタインフリーシアンも、この州名に由来する。
[編集] 地理
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州はユトランド半島の付け根にあり、バルト海と北海に挟まれている。州の北部は、かつてホルシュタイン公国のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン南部にあたる南シュレースヴィヒと呼ばれる地域であった。その後、デンマークのセナーユラン県 (Sønderjylland) と呼ばれていたが、1866年にデンマークからドイツへと割譲された(このときのデンマークの国の建て直しを内村鑑三が『デンマルク国の話』に書いている)。ドイツが第一次世界大戦に敗北した後、1920年の住民投票により北シュレースヴィヒはデンマーク領に再度分割され、現在の国境線が画定した。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州は北部はデンマークと接し、東はバルト海及びメクレンブルク=フォアポンメルン州、南はニーダーザクセン州およびハンブルク、西は北海に面している。州都はキールである。
田園地帯はほぼ平らで山が全くない。最も標高が高いブンクスベルク山 でも168m しかない。州内には多数の湖があり、特にホルシュタイン東部の ホルシュタイン・スイス (Holsteinische Schweiz) と呼ばれる地方には多くの湖が見られる。この地方の作家テオドール・シュトルムの『みずうみ』にもその描写がある。北部にある島の一群は北フリージア諸島と呼ばれる島々である。これらは西岸に位置しており、さらに遠くにヘルゴラント島とよばれる小島がある。東岸にはフェーマルン島ひとつだけで他に島はない。州で最も長い川はエルベ川に沿って流れるアイダー川である。
[編集] 歴史
この地域には5世紀以降デーン人が進出し、デンマーク人住居地となったが、中世初期にシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国が形成された。長い歴史のなかで、両公国はデンマーク王国に属した時期もあれば、神聖ローマ帝国に属した時期もある。15世紀にデンマーク王クリスチャン1世がシュレースヴィヒ公、ホルシュタイン公を兼ねてデンマークに帰属し、1544年にはデンマーク王家の分家であるホルシュタイン・ゴットルプ家がホルシュタイン公爵(神聖ローマ帝国領)を世襲するようになった。その後、18世紀にデンマーク王家がホルシュタイン公爵位をも兼務するようになった。
しかし、近世以降ドイツ人が両公国内へ移住し、次第にドイツ語が支配的な言語となっていったが、シュレースヴィヒはなおデンマーク人が多数を占め、1842年11月11日の地方議会での一議員による”彼はデンマーク語を語り続けた”事件は今なお語りぐさである。ナポレオン戦争後、ドイツの国民意識が高揚して(プロインセン王国主導の)ドイツ再統一の機運が高まり、1848年には両公国在住ドイツ人が反デンマーク蜂起を行ったが、失敗に終わった。このためプロイセン王国が介入して第一次シュレースヴィヒ戦争(1848年~1850年)が勃発した。デンマーク側は、シュレースヴィヒ中北部のデンマーク系の住民の後押しの元、ヘルスタート(統一国家)政策と立憲君主制を定めた「六月憲法」を制定して対抗した。これはデンマーク人独自の国民国家へのナショナリズムの現われであった。この戦争は、スウェーデンが義勇軍を送り、ロシア、イギリスの圧力で現状維持が認められ、デンマークの勝利にとなった。しかしデンマーク側の決議された六月憲法は、公国には採用されず反乱者の断罪すら行なわれなかった。その後、ビスマルクがオーストリアと連携して第二次シュレースヴィヒ戦争(1864年)を起こした。そしてビスマルク外交により列強は中立して沈黙した。最早、士気のみで戦うしかないデンマーク軍は圧倒され、屈服させられた。両公国はプロイセン・オーストリアの共同管理とされた。それはデンマークの国土の40%にも及ぶものだった。
1866年の普墺戦争でオーストリアが敗北したことにより、プロイセンの単独管理に移され、ドイツ統一によってドイツ帝国領となった。この時代には1895年北海とバルト海を結ぶキール運河が全通している。第一次世界大戦後、民族自決がパリ講和会議の方針となったこともあり、デンマーク人の多い北部シュレースヴィヒは住民投票により本来の祖国デンマークに復帰した(1920年)。
第二次世界大戦後、イギリス占領地区になり、1946年8月23日にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州は、プロイセンの州(プロヴィンツ)の地位から、バイエルン州などと同格の州(ラント)に再編された。そして、1949年5月23日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、その1州となった。
第二次世界大戦後に南シュレースヴィヒ返還の話が連合国側から打診されている。デンマーク側はドイツとの国際関係上断わっているが、南部のフレンスブルクなどにも民族デンマーク人は多く、デンマーク人社会を形成している。
[編集] 政治
[編集] 州議会
州議会 (Landtag) の定数は69で、2005年2月20日に行われた前回選挙での政党別議席配分は以下の通りである。
- ドイツキリスト教民主同盟 (CDU) 30
- ドイツ社会民主党 (SPD) 29
- 自由民主党 (FDP) 4
- 緑の党 (B90/G) 4
- 南シュレースヴィヒ有権者同盟 (SSW) 2
CDUとSPDが連立与党を組んでいる。
[編集] 歴代州首相
- 1946年-1947年: テーオドール・シュテルツァー (Theodor Steltzer)
- 1947年-1949年: ヘルマン・リューデマン (Hermann Lüdemann) SPD
- 1949年-1950年: ブルーノ・ディークマン (Bruno Diekmann) SPD
- 1950年-1951年: ヴァルター・バルトラム (Walter Bartram) CDU
- 1951年-1954年: フリードリヒ=ヴィルヘルム・リュプケ (Friedrich-Wilhelm Lübke) CDU
- 1954年-1963年: カイ=ウーヴェ・フォン・ハッセル (Kai-Uwe von Hassel) CDU
- 1963年-1971年: ヘルムート・レムケ (Helmut Lemke) CDU
- 1971年-1982年: ゲールハルト・シュトルテンベルク (Gerhard Stoltenberg) CDU
- 1982年-1987年: ウーヴェ・バルシェル (Uwe Barschel) CDU
- 1987年-1988年(代行): ヘニンク・シュヴァルツ (Henning Schwarz) CDU
- 1988年-1993年: ビョルン・エングホルム (Björn Engholm) SPD
- 1993年-2005年: ハイデ・ジモーニス (Heide Simonis) SPD
- 2005年より: ペーター・ハリー・カルステンゼン (Peter Harry Carstensen) CDU
[編集] 地方行政
州の下級行政単位は、11の郡 (Landkreis) と、郡には属さない4つの独立市 (kreisfreie Stadt) から成る。各郡の下には、小規模の基礎自治体(ゲマインデ)の集合体であるアムト (Amt) と、アムトには属さない市町村 (Amtsfreie Gemeinde/Stadt) 、そして基礎自治体未設置地区が含まれる。アムトに属さない市町村は97、アムトは116、アムトに属する自治体は1024あり、市も含めた広義の「ゲマインデ」の総数は1125である。また、基礎自治体未設置地区は2ある。
[編集] 郡
郡と郡庁所在地。郡名のみドイツ語綴りを付記した。
- ディトマルシェン郡 (Kreis Dithmarschen) - ハイデ
- ヘルツォークトゥーム・ラウエンブルク郡 (Kreis Herzogtum Lauenburg) - ラーツェブルク
- ノルトフリースラント郡 (Kreis Nordfriesland) - フーズム
- オストホルシュタイン郡 (Kreis Ostholstein) - オイティン
- ピンネベルク郡 (Kreis Pinneberg) - ピンネベルク
- プレーン郡 (Kreis Plön) - プレーン
- レンツブルク=エッケルンフェルデ郡 (Kreis Rendsburg-Eckernförde) - レンツブルク
- シュレースヴィヒ=フレンスブルク郡 (Kreis Schleswig-Flensburg) - シュレースヴィヒ
- ゼーゲベルク郡 (Kreis Segeberg) - バート・ゼーゲベルク
- シュタインブルク郡 (Kreis Steinburg) - イツェホー
- シュトルマルン郡 (Kreis Stormarn) - バート・オルデスロー
[編集] 独立市
[編集] シンボル
紋章の左半分は、シュレースヴィヒ公国のシンボルであった2頭の獅子、右半分はホルシュタイン公国のシンボルであったイラクサの葉で、両地方の統合を象徴する。
州旗は、青・白・赤のストライプで、州の紋章に使われている色と同じである。この旗のデザインは、1992年以降のユーゴスラビア、および、それを継承したセルビア・モンテネグロの国旗と同一であった。また、オランダの国旗と上下逆になっており、1843年にシュレースヴィヒ=ホルシュタインの旗のデザインを考案する際に参照したと解説するものもある[1]。州政府庁舎などで掲揚される政府旗には、中央に紋章が入る。
[編集] 言語
公用語としてドイツ語、低地ザクセン語、デンマーク語、フリジア語が使用されている。低地ザクセン語はこの地域の古語であるが、州内のほとんどの地域で使用されている。デンマーク語は小数のデンマーク人が話し、フリジア語は北フリジア諸島及び北海沿岸、Hallun と呼ばれる言語が一部のヘルゴラント島で使用されている。ドイツ語(高地ドイツ語)は16世紀から公用目的でこの地域に導入されたが、1864年にプロイセン王国の制圧を受けてからこの地域で最も話される言語となった。
[編集] 名所・旧跡
[編集] 世界遺産
- ハンザ同盟都市リューベック - 1987年登録
[編集] その他
[編集] 脚注
- ^ 『世界の国旗大百科』(辻原康夫編著、人文社、2001年)
[編集] 外部リンク
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