ジョーウチ・ヴォードィ
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ジョーウチ・ヴォードィ(ウクライナ語:Жовті Водиジョーヴチ・ヴォードィ)は、ウクライナのドニプロペトローウシク州にある都市である。
名称は、ロシア語名ではジョールトィエ・ヴォードィ(Жёлтые Водыジョールトィイェ・ヴォードィ)、ポーランド語ではジョウテ・ヴォドィ(Żółte Wodyジョーウテ・ヴォードィ)となる。いずれも直訳すれば「黄色い水」という意味になるが、ジョーウタ川(Річка Жовта)に由来する名称である。
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[編集] 概要
[編集] 地勢
ジョーウチ・ヴォードィはウクライナで最も若い都市のひとつで、市制が敷かれたのは1957年のことであった。人口は5万1500人で、総面積は33 k㎡である。町は、ジョーウタ川の谷間に位置しており、州都ドニプロペトロウシクからは136 km隔たっている。
都市名称の由来となっているジョーウタ川は、ドニエプル川に流れ込むインフレツィ川(Інгулець)の支流である。その水はその名の通り黄色く濁っており、これは鉄鉱石の成分が流れ出て酸性を帯びているためとされる。中国の黄河とはその成り立ちが異なる。
[編集] 歴史
1648年春には、ボフダン・フメリニーツキイがジョーウチ・ヴォードィ渓谷でポーランド・リトアニア連合軍を撃破し、この戦いをきっかけにウクライナ独立の機運が高まった。この戦いはフメリニーツキイの蜂起の最初の重要な合戦であり、のちにジョーウチ・ヴォードィの戦いとして記憶された。
ジョーウチ・ヴォードィ渓谷に最初の居住区が作られたのは17世紀のことで、ザポロージエ・コサックの小村(хутор)が置かれた。その後、村は発展し、セロー・ジョーウテ(село Жовте)となった(セローは規模の大きな村のこと)。18世紀末には200人が居住し、農業と牧畜が行われていた。19世紀末にはジョーウタ川の水が多量の鉄鉱石を含むことが判明した。1895年からその採集が開始され、村はジョーウタ川居住区(селища Жовті Ріка)と呼ばれるようになった。採集作業は1901年から本格化した。
大祖国戦争開戦時には6万5000人が居住した。1941年8月13日にジョーウタ川居住区はナチス・ドイツによって占領され、居住区では反ファシズム組織が結成された。ドニエプル川の戦いののち、1943年10月20日にはイヴァーン・コーネフ将軍率いる赤軍によってドイツ軍の占拠から解放された。
1950年にはウラン鉱石を含むということが発見され、すぐさまその採取が始められた。1951年7月24日には、東鉱山選鉱コンビナート(Східний гірничо-збагачувальний комбінат)が開設され、現代に至るまでウラン産業が発展している。