ニューギニアの戦い
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ニューギニアの戦い(ニューギニアのたたかい, New Guinea Campaign)は、太平洋戦争中期以降、ニューギニア戦線において、日本軍と連合軍との間で行われた一連の戦闘である。
1942年3月7日、連合軍の拠点ポートモレスビーの攻略を狙った日本軍がラエとサラモアへ上陸して本格的な戦端が開かれ、ダグラス・マッカーサー大将が率いる連合軍との間で1945年8月15日の終戦まで戦いが続けられた。連合軍の優勢な戦力の前に日本軍は次第に制海権・制空権を失って補給が途絶し、将兵は飢餓や過酷な自然環境とも戦わねばならなかった。ニューギニアに上陸した20万名の日本軍将兵のうち、生還者は2万名に過ぎなかった。
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[編集] 背景
ニューギニア島は、日本から真南に5,000キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯の島である。面積は77万平方キロであり、島としてはグリーンランドに次いで世界で2番目に大きい。脊梁山脈には4,000メートルから5,000メートル級の高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。19世紀の帝国主義の時代、ニューギニア島は西半分がオランダ領、東半分の北側がドイツ領、南側がイギリス領に分割された。その後1901年のオーストラリア独立に伴って旧イギリス領はオーストラリア領となり、第一次世界大戦後は旧ドイツ領がオーストラリア委任統治領となった。1942年当時、ニューギニア全島のほとんどは熱帯雨林と湿地帯によって占められ、人口密度は1平方キロあたり2人以下で人口調査ができないほどの未開の地であった。沿岸部にはポートモレスビーなどの小都市が存在したが、山間部には狩猟・採集や、サゴヤシの澱粉質である「サクサク」の採取、芋類の畑作などによって生活する原住民が居住していた。
太平洋戦争が開始されると、日本軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略し前進拠点とした。しかしラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にあった。日本軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦を視野に入れてポートモレスビーの重要性を認識し、海路からの上陸作戦を計画した。作戦は「MO作戦」と名づけられ、ニューギニア島の北岸のラエやサラモアには前進航空基地の設営が計画された。
連合軍にとっても、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点であった。また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る対日反攻ルートの起点でもあった。1942年3月7日、日本軍がラエとサラモアへ上陸してニューギニアにおける本格的な戦端が開かれた。以後1945年8月15日の終戦に至るまで、ニューギニアで戦火がやむことはなかった。
[編集] 参加兵力
ニューギニアの戦いに参加した両軍の部隊を列挙する。参加部隊には入れ替わりがあり、同時期に全部が揃ったわけではない。
[編集] 日本軍
- 第17軍(一部が参加) - 司令官:百武晴吉中将
- 南海支隊 - 支隊長:堀井富太郎少将(~1942/11)、小田健作少将(~1943/1)
- 第55師団第55歩兵団司令部、歩兵第144連隊、歩兵第41連隊、独立工兵第15連隊基幹、(増援)歩兵第229連隊の一部
- 南海支隊 - 支隊長:堀井富太郎少将(~1942/11)、小田健作少将(~1943/1)
- 第18軍 「猛」集団 - 司令官:安達二十三中将、参謀長:吉原矩中将、高級参謀:杉山茂大佐
- 山県支隊 - 支隊長:山県栗花生少将(~1943/6)、独立混成第21旅団
- 第20師団 「朝」兵団 - 師団長:青木重誠中将(~1943/6)、片桐茂中将(~1944/4)、中井増太郎中将
- 歩兵第78、第79、第80連隊、騎兵第28連隊、野砲兵第26連隊、工兵第20連隊、輜重兵第20連隊基幹
- 第41師団 「河」兵団 - 師団長:阿部平輔中将(~1943/6)、真野五郎中将
- 歩兵第237、第238、第239連隊、山砲兵第41連隊、工兵第41連隊、輜重兵第41連隊基幹
- 第51師団 「基」兵団 - 師団長:中野英光中将
- 歩兵第66、第102、第115連隊、捜索第51連隊、野砲兵第14連隊、工兵第51連隊、輜重兵第51連隊基幹
- 独立工兵第8、第30、第33、第36、第37連隊
- 第1船舶団 - 船舶工兵第5、第9連隊
- 第4航空軍 - 司令官:寺本熊市中将
- 第6飛行師団 - 師団長:板花義一中将(~1944/4)、稲田正純少将(~1944/5)
- 第7飛行師団 - 師団長:須藤栄之助中将
- 第8方面軍(一部が参加) - 司令官:今村均大将
- 第17師団、第65旅団
- 第2方面軍(一部が参加) - 司令官:阿南惟幾大将
- 第2軍 - 司令官:豊島房太郎中将
- 第36師団 「雪」兵団 - 師団長:田上八郎中将
- 歩兵第222、223、224連隊、捜索第36連隊、山砲兵第36連隊、工兵第36連隊、輜重兵第36連隊基幹
- 第35師団 「東」兵団 - 師団長:池田浚吉中将
- 歩兵第219、220、221連隊、捜索第35連隊、野砲兵第35連隊、工兵第35連隊、輜重兵第35連隊基幹
- 第36師団 「雪」兵団 - 師団長:田上八郎中将
- 第2軍 - 司令官:豊島房太郎中将
[編集] 連合軍
- 南西太平洋方面連合軍総司令官:ダグラス・マッカーサー大将
- アメリカ第6軍 - 司令官:ウォルター・クルーガー中将、第1軍団 - 軍団長ロバート・アイケルバーガー中将
- 第6歩兵師団、第24歩兵師団、第31歩兵師団、第32歩兵師団、第33歩兵師団、第38歩兵師団、第41歩兵師団、第43歩兵師団、第93歩兵師団、第11空挺師団、第1騎兵師団
- オーストラリア陸軍 - 司令官:トーマス・ブレーミー大将
- 第3師団、第5師団、第6師団、第7師団、第9師団、第11師団
- 連合国海軍 - 司令官:トーマス・キンケイド中将
- 連合国空軍 - 司令官:ジョージ・ケニー中将
- アメリカ第6軍 - 司令官:ウォルター・クルーガー中将、第1軍団 - 軍団長ロバート・アイケルバーガー中将
[編集] 経過
[編集] ポートモレスビーをめぐる戦い
[編集] 珊瑚海海戦
- 詳細は珊瑚海海戦を参照
1942年3月7日、連合軍の拠点ポートモレスビーの攻略を視野に入れて、日本軍の南海支隊の一部がサラモアに、海軍陸戦隊がラエに上陸した。上陸はやすやすと成功したかに見えたが、3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とするアメリカ軍空母機動部隊が日本軍を空襲した。この攻撃で輸送船3隻と駆逐艦弥生が沈没し、輸送船4隻が損傷した。連合軍はこの地域での日本軍の進攻をやすやすと許すものではなかった。
4月末、日本軍は「MO作戦」を発動し、第1航空艦隊の空母機動部隊の一部と第4艦隊、および上陸部隊の南海支隊がポートモレスビー攻略へ向かった。連合軍もこれを阻止すべく空母機動部隊を投入した。5月7日、8日の2日間に渡った珊瑚海海戦は史上初の空母同士の戦闘となり、連合軍が空母レキシントンを失った一方、日本軍は空母「祥鳳」と艦載機多数を失った。日本軍にとって艦載機喪失の影響は大きく、MO作戦は中止せざるを得なくなった。その後、ミッドウェー海戦の敗北が影響して、海路からのポートモレスビー攻略は不可能となった。
[編集] ポートモレスビー作戦
- 詳細はポートモレスビー作戦を参照
日本軍はMO作戦に代わる作戦として、ニューギニア島のソロモン海側から最高峰4,000メートルのオーウェンスタンレー山脈を越えて、ポートモレスビーまで直線距離にして220キロを陸路侵攻するという「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を立案した。5月18日、ソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面を担当する戦略兵団として第17軍が編成され南海支隊を指揮下に置いた。第17軍司令官百武晴吉中将は初め南海支隊に対して「リ号研究」と称した偵察を命じたが、大本営参謀辻政信中佐は作戦の即時実行を指示、この影響で第17軍はろくな事前調査もないまま7月18日にポートモレスビー攻略命令を発した。
7月21日、先遣隊の独立工兵第15連隊がギルワに上陸し、8月18日に南海支隊主力も上陸した。南海支隊はオーウェンスタンレー山脈の標高2,000メートル以上の峠を越え、9月16日にポートモレスビーの灯を遠望できる直線距離50キロのイオリバイワまで進撃した。しかしそこで食糧弾薬の補給が途絶えた。馬匹や人力による搬送はすでに地形的に限界を超えていた。またアメリカ軍のガダルカナル島上陸によりソロモン諸島の戦いが激化、作戦機が引き抜かれて制空権を失い空輸による補給も不可能だった。南海支隊には後退命令が出され、将兵は飢餓とマラリアに苦しみながら元来た山道を引き返した。
さらに10月、アメリカ軍第32歩兵師団の一部が山脈を越えて空輸され、南海支隊に先回りしてブナを窺う形勢となった。第17軍は南海支隊に対してブナへの転進を指示した。転進の途上南海支隊長堀井少将は、11月19日カヌーでクムシ川を下り海路ブナへ向かったが、突風にあおられてカヌーが転覆し溺死した。
[編集] ラビの戦い
ニューギニア島の東端に位置するミルン湾は海空の基地の好適地であり、6月よりオーストラリア軍がラビに飛行場建設を開始していた。日本軍はラビの飛行場の奪取を狙い、8月24日、第8艦隊の支援の下に海軍陸戦隊が上陸作戦を実施した。しかし制空権を欠いた状況での上陸戦闘は極めて不利であった。海軍陸戦隊は8月31日に退却を開始し作戦は失敗した。
[編集] ブナ・ゴナの戦い
- 詳細はブナ・ゴナの戦いを参照
日本軍は11月9日、第17軍の上に第8方面軍を、第8方面軍の下に第18軍と第6飛行師団を新設した。これは第17軍にはソロモン諸島方面に専念させ、東部ニューギニア方面は第18軍をあてて戦線の建て直しを図るものであった。第18軍司令官には北支那方面軍参謀長の職にあった安達二十三中将が起用された。南海支隊長の後任には小田健作少将が任じられた。
そのころオーストラリア軍第7師団とアメリカ軍第32歩兵師団がブナ・ゴナ地区へ向けて前進していた。ブナ・ゴナ地区は日本軍のポートモレスビー作戦の策源地であり、ここを失えばポートモレスビー攻略は不可能となる。だが日本軍ではブナ・ゴナ地区へ南海支隊の補充兵と独立混成第21旅団、歩兵第229連隊の一部を増派するのがやっとであった。
連合軍は攻勢を強め12月8日にバザブア、1943年1月2日にブナの守備隊が玉砕した。最後に残ったギルワ守備隊は玉砕の覚悟を決めたが、安達軍司令官は玉砕を戒めクムシ河口への撤退を命じた。1月17日、小田少将は歩行可能な将兵をギルワから脱出させた後、自らは拳銃で自決した。南海支隊の上陸以降の一連の地上戦闘により、投入された日本軍将兵1万1,000名のうち7,600名が戦死あるいは戦病死し、ブナ、ゴナ、ギルワにおける日本兵の捕虜はわずか200名から250名余りという結果となった。
[編集] ラエ・フォン半島をめぐる戦い
[編集] ワウの戦い・ビスマルク海海戦
- 詳細はビスマルク海海戦を参照
1943年1月、日本軍は第20師団と第41師団を第18軍指揮下に編入してニューギニア島北部のウェワクへ輸送するとともに、連合軍の次の攻撃目標をラエ・サラモア地区と予測し、ガダルカナル島の戦いへの投入が予定されてラバウルに集結していた第51師団を、横滑りでラエ・サラモア地区へ輸送することとした。ブナ・ゴナ地区の各部隊は第51師団の指揮下に入り、ラエ・サラモア地区へ集結後ラバウルへ後退することとなった。
ラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は1月5日にラバウルを出発、空襲による損害を受けながらも岡部支隊(支隊長:第51歩兵団長岡部通少将、歩兵第102連隊基幹)の大半をラエへ輸送することに成功した。上陸後、岡部支隊は山間部の鉱山町ワウの攻略作戦を実施した。ワウは飛行場を有し、連合軍の攻勢拠点となる潜在性があったため、機先を制して占領しようとしたものである。しかし作戦は失敗し岡部支隊はサラモアへ後退した。
日本軍は続いて、第18軍司令部や歩兵第115連隊など7,300名をラエへ輸送する「第八十一号作戦」を実施した。だが輸送船団は3月2日から3日にダンピール海峡で連合軍の空襲を受け、輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻が撃沈され3,600名が戦死した(ビスマルク海海戦)。その後、小規模に分かれた舟艇や駆逐艦による輸送により、連合軍の目をかいくぐって歩兵第66連隊の大半の輸送に成功し、第51師団師団長中野英光中将もサラモアに到着することができた。だが安達軍司令官、吉原参謀長、杉山作戦主任参謀らからなる第18軍司令部は、前線のラエではなく北方のマダンへ進めざるを得なかった。
[編集] カートホイール作戦
- 詳細はカートホイール作戦を参照
連合軍はソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面で本格的反攻に転じようとしていた。3月28日、アメリカ軍統合参謀本部はカートホイール作戦を発令した。作戦はダンピール海峡の突破とラバウルの孤立化を目標とし、以下の地域を攻略するものであった。作戦遂行のためマッカーサーは新たに編成されたアメリカ第6軍を増援として与えられた。
- ニュージョージア島ムンダの攻略(ニュージョージア島の戦い)
- ニューギニア島のラエ、サラモア、フィンシュハーフェン、マダンの攻略
- ニューブリテン島西部の攻略
- ブーゲンビル島南部の攻略(ブーゲンビル島の戦い)
[編集] ラエ・サラモアの戦い
- 詳細はラエ・サラモアの戦いを参照
サラモアにあった第51師団は本格戦闘可能な戦力は歩兵第66連隊のみ、補給・増援はほとんど期待できないという状況下であったが、6月にウイバリで積極的攻撃を行った。だが6月22日にウイバリの外郭のミネ高地を占領したところで限界に達した。6月29日にアメリカ軍第162連隊戦闘団がサラモア南方のナッソー湾へ上陸、サラモアへの圧迫を強めた。
日本軍は7月に第4航空軍と第9艦隊司令部をホーランジア(現在のジャヤプラ)へ進出させ、航空戦力の増強を図った。しかし8月17日から18日の連合軍による大規模な空襲によって第4航空軍は作戦機100機を一挙に失い壊滅状態となる。
9月、連合軍はラエの攻略へ向けて攻勢に出た。9月4日、北アフリカ戦線から戻ったオーストラリア軍第9師団がラエ東方のホポイに上陸、翌5日にはマッカーサー大将自らB-17に搭乗して督戦する中、ラエ北西20キロのナザブ平原にアメリカ軍第503空挺連隊とオーストラリア軍第7師団の一部が空挺降下した。ラエの守備兵力は、第41歩兵団長庄下亮一少将が率いる歩兵第238連隊の一部の他は、後方部隊や海軍部隊のみであった。サラモアの第51師団は退路を絶たれる危機に陥った。
第51師団はサラモアを脱出してラエへ後退、さらにラエからも撤退した。連合軍は9月11日にサラモアを、9月16日にラエを奪還した。日本軍の撤退は標高4,000メートルの峻険サラワケット山系を越える経路で行われ、飢えや寒さ、落石や転落によって多くの将兵が命を落とした。ラエ・サラモア地区に投入された2万の陸海軍兵力のうち、1万が戦死し、1,000名以上が山越えで命を落とした。フォン半島北岸のキアリにたどり着いた者は7,500名、その大半が傷つき疲れ果てた半病人であった(サラワケット越え)。
[編集] フィンシュハーフェンの戦い
- 詳細はフィンシュハーフェンの戦いを参照
これより先、日本軍はマダンからラエへ向けて道路建設を行っていた。補給路確保を目的としたもので、連合軍の制空権下で輸送船がぎりぎり到達可能なマダンから、フィニステル山系を横断し、ラム河谷からマーカム河谷を通って最前線のラエへ至る全長300キロの道路が計画された。作業には工兵に加えて第20師団の歩兵も動員された。連合軍のような重機は日本軍にはほとんどなく、多くがつるはしともっこによる人力作業であったが、それでも4月から工事を開始し、6月までに180キロを完成させた。だがラエとフィンシュハーフェンに危機が迫り工事は放棄される。
ラエを攻略した連合軍の次の目標はフォン半島先端フィンシュハーフェンであった。フィンシュハーフェンはダンピール海峡を扼す拠点であり、日本軍の船舶輸送の基地でもあった。8月時点の守備兵力は第1船舶団長山田栄三少将の指揮する後方部隊しかなく、安達軍司令官は第20師団から歩兵第80連隊を急派した。9月22日、オーストラリア軍第9師団の第20旅団がフィンシュハーヘン北方のスカーレット海岸(アント岬)に上陸した。歩兵第80連隊はサテルベルグ高地へ後退し、10月2日、オーストラリア軍はフィンシュハーフェンを占領した。
オーストラリア軍では第26旅団が増援に到着した。日本軍も歩兵第79連隊を基幹とする第20師団主力を送り込み、安達軍司令官自身もマダンから司令部を前進させ反撃に移った。10月17日未明、歩兵第79連隊杉野中隊は大発3隻に分乗してオーストラリア軍の背後のスカーレット海岸へ奇襲上陸を仕掛けたが、第20師団本隊との連携が十分ではなくオーストラリア軍に打撃を与えることはできなかった。1週間後、敵中を横断して日本軍の本営にたどり着いた生還者は7名に過ぎなかった。
その後も第20師団による攻撃は続けられた。日本兵は夜間オーストラリア軍の防衛線に進入し、ついでに原住民の畑から芋を失敬してくるという「芋掘り夜襲」で食いつないだ。だが食糧弾薬の補給の乏しい日本軍の攻勢は徐々に弱まり、逆に押し戻されていった。オーストラリア軍は11月27日にサテルベルグ高地を制圧した。第20師団の残余の将兵はフォン半島北岸のキアリに向けて後退していった。
さらに1944年1月2日、マダンとキアリの中間にあるサイドル(グンビ岬)にアメリカ軍第126連隊戦闘団が上陸し、キアリにあった第20師団と第51師団は退路を絶たれてしまった。日本軍は海岸を迂回し、フィニステル山系の中腹を横断してガリからマダンへ撤退した(ガリ転進)。第51師団将兵にとってはサラワケット越えに続く2度目の山越えであり、兵士たちは自らの様を「安達軍の蟹の横ばい」と自嘲した。山脈の中腹では山の上に降ったスコールが鉄砲水となって襲い掛かってくることもあった。フィンシュハーフェンの戦いにおけるオーストラリア軍第9師団の死者は1,028名に達した。日本軍第20師団は投入兵力の三分の二を失った。
[編集] ラム河谷の戦い
その頃オーストラリア軍第7師団は、日本軍が道路を建設していたルートを逆にたどってラム河谷にまで進攻していた。この地区を守備していたのは中井増太郎少将(後に中将)の率いる第20師団歩兵第78連隊であった。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山系の歓喜嶺を守る日本軍と戦闘を重ねた。ことにシャギーリッジ(屏風山)では守備する片山中隊が頑強に抵抗し激戦となり、オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させ片山中隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山系から撤退させ、マダンの日本軍拠点の手前まで迫った。
[編集] 西部ニューブリテン島の戦い
ニューブリテン島西部は第8方面軍指揮下の第65旅団と第17師団の一部が守備していた。連合軍はダンピール海峡の確保を目的としてニューブリテン島西部へ進攻した。1943年12月14日、連合軍はアラウエ(マーカス岬)一帯に激しい空襲を行い、翌15日未明、アメリカ軍第112騎兵連隊戦闘団(「騎兵」の名称を冠する機械化部隊)が同地に上陸した。日本軍はこれを追い落とそうと激しく反撃したが、12月26日にアメリカ海兵隊第1海兵師団がニューブリテン島西端のグロスター岬に上陸、西部ニューブリテン島を攻略した。これによりダンピール海峡は突破されビスマーク海は連合軍の制圧下となり、ラバウルからのニューギニア方面への補給は絶望的となった。
[編集] アドミラルティ諸島の戦い
1944年2月29日、ビスマーク海の北西端に位置するアドミラルティ諸島のロスネグロス島へアメリカ軍第1騎兵師団(「騎兵」の名称を冠する機械化部隊)が上陸した。アドミラルティ諸島の守備兵力は輜重兵第51連隊長江崎義雄中佐の指揮する歩兵2個大隊弱他3,830名であった。ロスネグロス島守備隊は3月10日頃には玉砕し、生き残った将兵はロスネグロス島からマヌス島へ転進して山中で抵抗を続けたが、4月下旬には通信が途絶した。アドミラルティ諸島の陥落によってラバウルは包囲下に置かれ、連合軍は西部ニューギニア進攻へ向けての基地を確保した。
[編集] 連合軍の飛び石作戦
[編集] ホーランジアの戦い
連合軍のビスマーク海制圧によりラバウルの第8方面軍によるニューギニア方面の作戦指揮は不可能となった。1943年10月30日、日本軍は豪北方面(インドネシア東部)防衛のため満州から第2方面軍を転用して司令部をメナドに置き、西部ニューギニアの防衛を第2軍の担当とした。また、1944年3月25日、第18軍を第8方面軍から第2方面軍指揮下へ移した。第2方面軍司令官阿南惟幾大将は、アドミラルティ諸島を奪取した連合軍の次の目標はウェワクであると判断し、第18軍に対してマダンを捨ててウェワクへ転進するよう命じた。
マダンからウェワクへ行くには山越えの代わりにセピック川河口の大湿地帯を横断せねばならない。湿地では水に囲まれていながら飲める水は全くないのである。第18軍将兵は渇きに苦しみ、泥の中に直立して仮睡するような数日を経て湿地帯を通過した。小数の大発は残っていたが、連合軍の魚雷艇が活発に活動していたため海上移動はより危険であった。第20師団長片桐茂中将も魚雷艇の襲撃を受けて戦死した。
こうして第18軍はウェワクへ到達したが、連合軍は日本軍の拠点を素通りして必要な拠点のみを攻略していく飛び石作戦に移っていた。4月22日、マダン、ハンサ、ウェワクなどの日本軍の拠点を一気に通り越し、アメリカ軍第24歩兵師団がホーランジア西側のタナメラ湾へ、第41歩兵師団が東側のフンボルト湾へ、第163連隊戦闘団および第32師団がアイタペへ上陸した。ホーランジアにあった日本軍は第18軍の後方部隊や第6飛行師団、海軍根拠地隊など7,300名で、ほとんど抵抗できないまま壊滅、将兵は西方のサルミへ陸路敗走したが、到着できた者は500名、うち内地へ生還できた者は143名という有様であった。マッカーサーは自らホーランジアへ司令部を進め、そこからフィリピン奪還作戦を指揮することとなった。
[編集] サルミ・ワクデ島の戦い
連合軍の次の大きな目標はビアク島であったが、その前段階としてサルミと沖合いの小島ワクデ島を攻略し、同地の飛行場を確保することが必要であると判断していた。サルミ・ワクデ島地区は第36師団(1個連隊欠)を基幹とする1万4,000名が守備していた。5月17日、サルミ東方のマッフィン湾へ、アメリカ軍第6歩兵師団、第31歩兵師団(1個連隊欠)、第123連隊戦闘団、第158連隊戦闘団が上陸、翌18日にワクデ島へ第163連隊戦闘団が上陸した。
歩兵第224連隊石塚中隊を基幹とする800名のワクデ島守備隊は26日までに玉砕した。マッフィン湾岸のローントリーヒル(入江山)では日本軍がアメリカ軍第158連隊戦闘団と激戦を繰り広げ、アメリカ軍に大きな出血を強いた。その後日本軍は後退して持久体制に入り終戦まで持ちこたえたが、当初の1万4,000名のうち生還者はわずか2,000名であった。
[編集] ビアク島の戦い
- 詳細はビアク島の戦いを参照
ビアク島はニューギニア西部ヘルビング湾(現在のセンデラワシ湾)で最大の島である。石灰岩質の広く平坦な飛行場適地を有し、日本軍から見ればフィリピンから東部ニューギニアの前線へ至る飛行経路に、連合軍から見ればパラオとフィリピン南部を爆撃圏に収める位置にあった。日本軍は1943年以降モクメル飛行場の建設を進め、第36師団の歩兵第222連隊を基幹とするビアク支隊(支隊長:葛目直幸大佐)と海軍の第19警備隊(司令官:千田貞敏少将)を配置していた。
日本軍ではさらに北支から第35師団をビアク島へ転用し、玉突きで歩兵第222連隊をニューギニア本島へ移動させる計画であったが、第35師団は輸送途上で潜水艦攻撃を受けて大損害を被り、ニューギニア島西端のソロンまでしか到達できなかった。最終的にビアク島に配置できた兵力は、陸軍1万1,267名、海軍1,947名を数えたが、飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊が多数を占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊の3,815名を中心に、海軍陸戦隊を加えても4,500名に過ぎなかった。
5月27日、アメリカ軍第41歩兵師団(1個連隊欠)がビアク島への上陸作戦を開始した。5月28日から29日にかけてアメリカ軍は飛行場へ向けて前進し、日本軍も九五式軽戦車9両が出撃して、M4中戦車との間で日米で始めての戦車戦が生起した。日本軍は戦車の大半を失ったが、アメリカ軍も逆包囲される危機に陥り後退した。飛行場占領の予定は大幅に遅れた。アメリカ軍は第34歩兵連隊を追加投入するとともに、第41歩兵師団長ホレース・ヒュラー少将は解任され、第1軍団長アイケルバーガー中将が直接作戦の指揮を取った。
大本営はビアク島守備隊の善戦を見て、まず舟艇により歩兵第219連隊の1個大隊を増援し、さらに本格的増援として海上機動第2旅団(旅団長:玉田美郎少将)を送り込む渾作戦を立案した。6月2日の第一次、6月8日の第二次作戦は誤判断や空襲により失敗した。連合艦隊司令部はビアク島周辺の水上部隊を撃破しない限り渾作戦は無理と判断、「大和」「武蔵」以下の戦力を整え第三次作戦を試みたが、6月11日にアメリカ機動部隊がマリアナ諸島へ来襲したため、ビアク島どころではなくなり作戦は中止となった。
ビアク島では司令部の置かれていた西洞窟が1か月の抵抗の末に6月27日についに陥落、葛目支隊長も7月2日に自決した。各部隊はジャングルに逃げ込み分散自活した。戦後の生還者は520名、アメリカ軍の戦死者は471名、戦傷者2,443名であった。
7月、連合軍はビアク島近くのヌンホル島にも飛行場確保を目的として進攻した。7月2日にアメリカ軍第158連隊戦闘団が上陸し、翌3日に第503空挺連隊が降下した。日本軍の兵力は歩兵第219連隊の1個大隊に過ぎなかった。アメリカ軍は8月31日に完全制圧を発表、日本軍の生存者はわずか12名であった。
[編集] イドレ死の行軍
連合軍のニューギニア最後の上陸作戦はフォーヘルコップ半島(現在のドベライ半島)のサンサポールに対して行われた。フォーヘルコップ半島における日本軍の兵力は、東岸のマノクワリに第2軍司令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団司令部をはじめとする1万2,500名があった。アメリカ軍第6師団は7月30日、マノクワリとソロンの中間のサンサポールに上陸、日本軍を東西に分断して飛行場を設営し、次のモロタイ島上陸作戦に向けた基地とした。
ソロンの陸海軍部隊は孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。一方マノクワリでは、第2軍司令官豊島房太郎中将が2万名の自活は不可能と判断、1万5,000名に対して、南方200キロのベラウ湾奥のイドレへ転進しそこで自活するよう命じた。1万5,000名の将兵は7月1日に出発、食糧補給の全くない熱帯雨林を横断し1か月を費やしてイドレにたどり着いたとき、人数は6,000から7,000名にまで減っていた。さらにイドレにはそれだけの人数を養えるサゴヤシは存在しなかった。将兵は終戦までの1年間、飢えとマラリアの生活を送った。戦後イドレ地区からの生還者は3,000名に満たなかった。
[編集] アイタペの戦い
- 詳細はアイタペの戦いを参照
6月、ウェワクには第18軍の残存兵力が集結していた。東部ニューギニアに投入された総計16万名の兵力は、このとき5万4,000名にまで減少していた。第51師団はラエで、第20師団はフィンシュハーフェンで損耗し、他の部隊も空襲と艦砲射撃と飢餓とマラリアに斃れ、一定の戦闘能力を保持しているのは第41師団の一部のみであった。兵士はみな骨と皮の栄養失調者で、軍服は擦り切れ、軍靴は破れ、加えてほぼ全員がマラリアや赤痢の既往症者であった。制海権・制空権は連合軍が完全に掌握し、第18軍には補給が全く届かなくなった。
6月20日、大本営は第18軍を第2方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、「東部ニューギニア要域における持久」を命じた。もう敵を攻撃しなくて良いから現地で自活せよという趣旨である。だが安達軍司令官は最後の決戦を決意していた。連合軍にアイタペとホーランジアに先回りされて黙って見過ごすわけにはいかなかった。そして理由はもう一つ、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、5万4,000名を養うことは不可能だったのである[1]。
こうして、第20師団、第41師団、歩兵第66連隊の2万の兵力が200キロ西方のアイタペへ向けて移動を開始した。連合軍も偵察によりこの動きを察知し、アイタペ東方30キロのドリニュモール川(坂東川)に防衛線を敷き、アメリカ軍第112騎兵連隊戦闘団、第32歩兵師団、第124連隊戦闘団、第43歩兵師団を順に急派した。投入兵力は双方2個師団半であったが、日本軍の1個師団は実数1個連隊に過ぎなかった。
7月10日21時30分、日本軍はドリニュモール川沿いのアメリカ軍陣地へ攻撃を開始した。なけなしの砲弾による10分間の準備射撃の後、第20師団と歩兵第237連隊が河口から2マイル上流の渡河点を渡河し前進した。この時点で川沿いのアメリカ軍は3個大隊に過ぎず、渡河点を守っていた第128連隊第2大隊は突破され、日本兵はアメリカ軍の物資を奪いルーズベルト給与にあずかった。歩兵第237連隊はアメリカ軍を海岸へ圧迫、第20師団は上流側に旋回して川沿いのアフア陣地を包囲した。緒戦の戦果に、第18軍司令部ではうまくいくかもしれないという期待が広がった。第18軍では渡河点へ第41師団と歩兵第66連隊を追加投入しようとしたが、両部隊の移動は空襲と艦砲射撃に阻まれて遅れていた。
7月13日以降アメリカ軍の増援は続々戦場へ到着し、7月15日には渡河点が奪回され歩兵第237連隊は川向こうに取り残されてしまう。17日、歩兵第239連隊が渡河点の再奪取を試みるが撃退され、歩兵第237連隊は22日までに壊滅状態となって押し戻された。ようやく戦場に到着した第41師団と歩兵第66連隊には第20師団を援護してのアフア陣地への攻撃が命じられ、両部隊はジャングルを南に大きく迂回して8月1日にアフア陣地の南側から攻撃に参加した。
だが日々増強される連合軍に対して日本軍の食糧弾薬は底をつき、8月4日には各連隊の兵力は100名以下にまで損耗していた。もはや作戦継続の不可能は明らかであった。8月4日、安達軍司令官は攻撃停止を指令し撤退を開始した。7月10日から8月5日までの戦闘で、日本軍は1万3,000名が戦死した。アメリカ軍の戦死者は450名、戦傷者は2,550名であった。
[編集] 終戦
アイタペ決戦に敗れた第18軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、オーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ、昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。後の証言によれば、日本兵が日本兵を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。オーストラリア軍の包囲の輪が次第に狭まり、1か月後の玉砕全滅を覚悟していた1945年8月15日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。
9月13日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は1万1,197名であった。日本政府はニューギニアの惨状に配慮し復員船を優先的に送ったとされる。ムッシュ島には11月末に最初の復員船「鹿島」が到着し、1946年1月末までに将兵は順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら1,148名が衰弱し息を引き取った。
[編集] 影響
ニューギニアの戦いにおいてダグラス・マッカーサーはしばしば最前線に出て将兵を激励し、また大胆な飛び石作戦を実施するなど優れた指導力を発揮した。1944年4月にホーランジアへ司令部を進めたマッカーサーはそこからフィリピン奪還作戦を指揮し、10月20日にレイテ島への帰還を果たした。戦いの焦点はフィリピン、硫黄島、沖縄へと移り、ニューギニアは次第に戦略的価値を失っていった。
東部ニューギニア戦線に投入された第18軍将兵は16万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は20万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は2万名に過ぎなかった。犠牲者には徴用船でニューギニアへ赴いた船員たちなど軍属や民間人、シンガポールの戦いで降伏したインド人捕虜も含まれ、正確な全貌は不明である。連合軍の戦死者もオーストラリア軍8,000名、アメリカ軍4,000名に上った。現地人の犠牲者数は明らかではないが4万人から5万人とも推定されている。
安達軍司令官は温厚で将兵と苦難を分かち合い、よく部下を掌握したという。戦後、第18軍幹部がラバウルに収容され戦犯容疑で裁判を受けたときも、部下の弁護に力を尽くした。1947年9月10日、全ての責務を果たし終え、安達軍司令官は自決した。遺書には「此作戦三歳の間、十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪ひ、而して其大部は栄養失調に基因する戦病死なることに想到するとき、御上に対し奉り、何と御詫びの言葉も無之候・・・打続く作戦に疲憊の極に達せる将兵に対し、更に人として堪え得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致候・・・」と綴られていた。
[編集] 自然環境と原住民
ニューギニアにおける戦いは過酷な自然環境との戦いでもあった。日本兵の死因の多くは直接の戦闘によるものでなく、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱、腸チフスなどの熱帯性の感染症と飢餓であった。自然環境との戦いには連合軍も苦しめられ、マラリアを媒介するハマダラカの駆除にDDTが活用された[2]。ジャングルにおける行軍では方向感覚を失った部隊が同じところを回ることが少なくなかった。これは人間が左へ、左へと進む習性を持つためであり、誘導員か方位磁石が不可欠であった。
ニューギニアの原住民は日本軍と連合軍の双方から過酷な仕事を命じられながら忠実に物資の輸送や案内を行い、負傷者の面倒見に一役買った。中には逃亡する現地人もいたものの、日本軍から「まじめで忠実」と賞賛され、連合軍からも黒い天使(Fuzzy Wuzzy Angels)と呼ばれた。ただし、現地人は食料よりタバコを欲しがるということで、日本軍では訓練された台湾の高砂族(詳細は高砂義勇隊を参照)に対する評価の方が高いケースもある。
戦争末期に日本軍が分散自活の体制に入ると、原住民の中には連合軍と通じて日本兵を襲撃する者も現れた。ジャングルでの行動に慣れた原住民に対して、衰弱し少人数に分散した日本兵はなすすべもなかった。一方で、食糧採取などにおける原住民の協力なしには、日本兵の多くは生きながらえることはできなかったであろうことも事実である。
[編集] 参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(1)ポートモレスビー・ガ島初期作戦』、1968年、『豪北方面陸軍作戦』、1969年、『南太平洋陸軍作戦(2)ガダルカナル・ブナ作戦』、1969年、『南太平洋陸軍作戦(3)ムンダ・サラモア』、1970年、『南太平洋陸軍作戦(4)フィンシュハーヘン・ツルブ・タロキナ』、1972年、『南太平洋陸軍作戦(5)アイタベ・ブリアカ・ラバウル』、1975年
- 吉原矩『南十字星―東部ニーギニア戦の追憶』、東部ニーギニア会、1955年
- 尾川正二『極限のなかの人間―極楽鳥の島』国際日本研究所・創文社、1969年、(文庫)『「死の島」ニューギニア―極限のなかの人間』、光人社、2004年、ISBN 4769821883
- 尾川正二『野哭―ニューギニア戦記』、創元社、1972年、(文庫)『東部ニューギニア戦線―棄てられた部隊』、光人社、2002年、ISBN 4769823584
- 御田重宝『人間の記録―東部ニューギニア戦〈進攻篇〉』『人間の記録―東部ニューギニア戦〈全滅篇〉』(文庫)、講談社、1977年、ISBN 4061842986、ISBN 4061842994
- 鈴木正己『東部ニューギニア戦線』、戦誌刊行会、1982年、(文庫)『ニューギニア軍医戦記―地獄の戦場を生きた一軍医の記録』、光人社、2001年、ISBN 4769823010
- 小松茂朗『愛の統率 安達二十三―第十八軍司令官ニューギニア戦記』、光人社、1989年
- 奥村正二『戦場パプアニューギニア―太平洋戦争の側面』(文庫)、中央公論社、1993年
- 森山康平『米軍が記録したニューギニアの戦い』、草思社、1995年、ISBN 4794206313
- 小田切重徳『白骨街道 死の転進―食べること生きること死ぬこと』、文芸社、2002年、ISBN 4835539893
- 深津信義『鉄砲を一発も撃たなかったおじいさんのニューギニア戦記』、日本経済新聞社、2003年、ISBN 4532164427
- 西村誠『太平洋戦跡紀行 ニューギニア』、光人社、2006年、ISBN 4769813163
- 三根生久大『ニューギニア南海支隊「モレスビーの灯」』、光人社、2006年、ISBN 4769812949
- Center of Military History, United States Army, United States Army in World War II, The War in the Pacific - Victory in Papua, 1957, CARTWHEEL: The Reduction of Rabaul, 1959, The Approach to the Philippines, First Printed 1953(米国公刊戦史)
- Center of Military History, United States Army, Reports of General MacArthur - Volume I: The Campaigns of MacArthur in the Pacific, First Printed 1966, Volume II, Part I: Japanese Operations in the Southwest Pacific Area, First Printed 1966(米国公刊戦史)
- Center of Military History, United States Army, New Guinea (米国公刊戦史小冊子)
- Australia's Official War Histories - Second World War, Volume V - South-West Pacific Area - First Year: Kokoda to Wau (1st edition, 1959), Volume VI - The New Guinea Offensives (1st edition, 1961), Volume VII - The Final Campaigns (1st edition, 1963)(オーストラリア公刊戦史)
[編集] 外部リンク
- Australia-Japan Research Project(豪日研究プロジェクト)
- ニューギニア戦跡案内
[編集] 関連項目
- 太平洋戦争の年表
- ソロモン諸島の戦い
- 南の島に雪が降る
- オーストラリアの歴史
- パプアニューギニアの歴史
[編集] 脚注
- ^ アイタペの戦いの目的が「口減らし」であったとは当時この戦いに参加した第18軍将兵の間でも噂になっていた(尾川正二『野哭―ニューギニア戦記』)。だが5万4,000名の自活が不可能であったかどうかに関しては議論がある。ラバウルでは10万名が自活できた。ラバウルよりはるかに広大なウェワクで自活が全く不可能であったとは考えにくい(森山康平『米軍が記録したニューギニアの戦い』)。
- ^ Fenner, F., "Malaria control in Papua New Guinea in the Second World War: from disaster to successful prophylaxis and the dawn of DDT", Parassitologia, 1998 Jun, 40(1-2), pp.55-63