辻政信
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辻 政信(つじ まさのぶ、1902年(明治35年)10月11日 - 1961年(昭和36年)?)は、日本の陸軍軍人、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。
辻を巡っては、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見が多い。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。
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[編集] 幼年学校、士官学校と陸軍大学校
石川県江沼郡東谷奥村(現在の加賀市)で4人兄弟の3男として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、部落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中高等小学校から名古屋陸軍幼年学校に入学し、これを首席で卒業後に中央幼年学校を経て陸軍士官学校 (陸士) に入学した。予科二年間を終了後には士官候補生として金沢に駐屯する歩兵第7連隊に6ヶ月配属され、その後本科へと進み大正13年7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、恩賜の銀時計を拝領している。見習い士官として再び歩兵第7連隊に配属され、三ヵ月後に少尉に任官した。1927年(昭和2年)に中尉に昇進し、翌年に陸軍大学校に入学、三年間の学務を経て1931年(昭和6年)11月に陸大を卒業した。卒業時の成績は首席の天野正一と次席の島村矩康に続く3番であり、恩賜の軍刀を拝領している。陸大での同期には秩父宮雍仁親王がいる。
辻が金沢の第7連隊に戻ってからしばらくして、中華民国の上海において第一次上海事変が発生した。第9師団も動員され、辻は第7連隊第二中隊長として上海に派遣された。翌年5月に上海停戦協定が調印され部隊が日本に帰還した後には、師団を代表して実戦の様子を偕行社で演説し、新聞でも彼の名が報じられている。同年9月には陸軍参謀本部付となり、第一課に配属された。
[編集] 参謀本部への転出と陸軍士官学校事件
編成および動員を担当する第一課において当時課長を務めていたのは東条英機大佐であった。翌年8月に大尉に昇進し12月に第一部第三課に転籍した。1934年(昭和9年)9月になると、士官学校の幹事(副校長)に任命されていた東条の誘いを受けて本科の生徒隊中隊長に任命された。この人事は、栄転であるモスクワ駐在武官職を断っての決断であり、また陸大を卒業したエリート将校が生徒隊中隊長を勤めることは前例がなかった。辻がこの人事を望んだのは、陸士本科に入学する予定であった澄宮(後の三笠宮崇仁親王)に接触を図る目的であったとの説が存在する。実際に澄宮は辻が中隊長を勤める第一中隊に配属された。
当時の士官学校は1932年(昭和7年)に発生した五・一五事件の影響もあって、軍部による国家革新を目指す右翼思想が広まっていた。そのリーダー格であった第二中隊の武藤与一候補生は、皇道派に属する陸大の村中孝次大尉や磯部浅一一等主計とも接触しており、さらに陸士第一中隊の佐藤勝朗候補生にも声をかけた。佐藤から報告を受けた辻は彼を皇道派へのスパイとして利用しようと考え、村中大尉との接触を命じた。しばらくして村中大尉らは青年将校と士官学校生徒によるクーデター計画を打ち明けるようになり、この情報を得た辻は参謀本部の片倉衷少佐および憲兵司令部の塚本誠大尉に通報した。正規の指令系統を経て陸士生徒隊長である北野憲造大佐(皇道派)に報告しなかったのは、これを政治問題として利用しようとした為であると指摘されている。さらに辻は陸士構内の堀を深夜に乗り越えて、陸軍次官橋本虎之介中将の官舎へとおもむき、容疑者の摘発を強く主張した。永田鉄山軍務局長の指示によって憲兵隊は村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉らを逮捕し、佐藤、武藤候補生らも軍法会議にかけられることになった。辻がスパイとして利用した佐藤を含め、陸士生徒5名が退学処分をうけ、青年将校らには不起訴、停職処分がくだされた。村中らのクーデター計画は杜撰かつ曖昧で現実味に乏しいものであったことが後の憲兵隊による調査で判明している。
この陸軍士官学校事件における辻の行動、特に候補生を自らのスパイとして扱ったことは、利己的であるとして強く批判された。村中と磯部らは辻を誣告罪で告発し、辻の行動を激しく批判したが、辻への処分は謹慎30日および水戸の歩兵第2連隊への転属のみであった。
これらの処分への不満を募らせた村中と磯部は後に「粛軍に関する意見書」を公表して免官され、さらに統制派と皇道派の対立は激化し、真崎甚三郎大将の教育総監罷免、相沢事件、二・二六事件へとつながっていった。
[編集] 関東軍への転出
二・二六事件後の1936年(昭和11年)4月に辻は片倉少佐の斡旋によって関東軍参謀部へと転出した。兵站を担当する第三課に配属され、満州事変の経過や戦術を詳細に解析している。協和会の基本理念を固めるために上京した際には、当時参謀本部で戦争指導課長を務めていた石原莞爾と面会しており、これを機にして石原を尊敬するようになった。1937年(昭和12年)5月には満州事変後に奉天郊外の寺に安置されたまま弔われていなかった張作霖の葬儀を協和会の名で執り行っている。
同年7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして中華民国軍と関東軍との間に戦闘が発生すると、辻は関東軍の東条参謀長や片倉高級参謀らに同調して戦線拡大を主張した。この際作戦主任の池田中佐に対しては、自身自らが爆撃機にのって中国軍を爆撃すると申し出、この独断専行に驚いた池田がそのようなことをすれば戦闘機を用いて撃ち落とすと話した為これを断念している。
7月末には支那駐屯軍への転出を自薦し、8月に新たに編成された北支那方面軍第一課の参謀となったが、ここで高級参謀を務めていた下山琢磨大佐は以前に辻とトラブルを起こしており、第5師団への一時的な転出を経て関東軍作戦参謀に栄転した。
[編集] ノモンハン事件
1939年(昭和14年)4月に関東軍司令官の名で「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。これは作戦参謀となった辻が策定したものであり、当時国境線が明確に決定されていなかった地点における「現地司令官の自主的な国境線認定」と衝突が発生した際の兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。
同年5月11日、外蒙古と満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の檀権(せんけん)の罪に該当する重罪であった。
紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退した。9月16日に日ソ間で停戦協定が成立し、さらに国境線を確定するための会議が12月にチタおよびハルビンにおいて開催されたが、妥協直前になってソ連側代表が帰国してしまった。この件に関して、辻が白系ロシア人を使嗾してソ連代表と外蒙古代表の暗殺を示唆したことが原因であるとの証言が存在する。
自著『ノモンハン』において辻は、須見新一郎連隊長が第一線でビールを飲んでいるのを目撃した際に義憤にかられて階級を無視して連隊長を怒鳴りつけたと記述している。後に須見はこれに反論しており、自身が下戸であること、当時ビール瓶の空き瓶にハルハ河の水を入れていたことを記している。この記述は須見連隊長の当番兵を務めていた外崎善太郎によっても裏付けられているが、両者の抗議に対しても辻は謝罪をおこなわなかった。
ノモンハン事件において辻とともに関東軍作戦課を取り仕切った主任参謀服部卓四郎中佐は、一旦は歩兵学校付および教育総監部付に左遷されたが、1940年(昭和15年)10月に参謀本部に戻り作戦班長に任命され、翌年には作戦課長に昇進した。独ソが開戦した翌々日の1941年(昭和16年)6月24日付で参謀本部部員として返り咲いた。
[編集] 太平洋戦争(大東亜戦争)
[編集] シンガポール
この時の参謀本部作戦部長は田中新一が、作戦課長は服部卓四郎が務めており、辻はそのもとで作戦課兵站班長に任命された。服部の前に作戦課長を務めていた土居明夫大佐は、辻の呼び戻しを要求する服部作戦班長(当時)と対立し、左遷されたとされている。太平洋戦争開始時の陸軍の作戦は多くが、辻ー服部ー田中のラインで形成されることになった。
太平洋戦争開戦後は、マレー作戦で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行うなど蛮勇を発揮した。ただし作戦参謀としての任務を放棄して第一線で命令系統を無視し指揮をとることにたいして、第25軍司令官山下奉文は、マレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と痛烈に批判している。
シンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の集団検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した。このシンガポール華僑虐殺事件を巡っては、東京裁判においては6000人の華僑と最高裁判所長官ホセ・サントスが殺害されたとされる。当時警備本部で嘱託として勤務していた篠崎護は、この命令は辻が立案したものであると述べている。マレー作戦終了後の1942年(昭和17年)3月に辻は東京に呼び戻され作戦班長に栄転した。
[編集] フィリピン
フィリピン戦線を担当していた本間雅晴中将率いる第14軍は、マニラ占領後にバターン半島にこもる米軍の追撃をおこなった。しかしジャングルの悪環境や情報不足によって攻撃は一時頓挫し、東京の大本営では一部参謀を左遷し、さらに辻を戦闘指導の名目で派遣した。4月3日に開始された第二次総攻撃によって米軍の陣地は占領され、多くの兵士が投降しコレヒドール島を残すのみとなった。この後、米軍捕虜の移送において発生したバターン死の行進を巡っては、当時の日本軍の兵站事情および米軍兵士の多くがマラリアに感染していたことから恣意的な命令ではないとの意見が存在する。その一方で多くの連隊には、「米軍投降者を一律に射殺すべしと」の大本営命令が,兵団司令部から口頭で伝達されていた。大本営はこのような命令を発出しておらず、本間中将も全く感知していなかった。当時歩兵第141連隊長であった今井武夫は、戦後の手記において、この命令は辻が口頭で伝達して歩いていたと述べている。
[編集] ポートモレスビー
辻政信はポートモレスビー作戦で戦略研究命令を受けダバオに行くが、彼が独断で攻略命令にすり変えたとも言われている。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していたが、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま撤退することになった。
[編集] ガダルカナル島
マレー半島攻略作戦において彼は、紀元節、天長節、陸軍記念日などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いた。さらに、翌年のポートモレスビー攻略作戦を大本営の決定前に独断で決定し、ガダルカナル島の戦いでも実情を無視した攻撃を強行している。
特に、ガダルカナル島での作戦の過程では現地指揮官の川口清健少将と対立し、参謀本部作戦参謀の立場を利用して川口少将を罷免させた。辻が攻撃しようとしていた場所は、既に川口が一度総攻撃を行った場所であって、再度の総攻撃でも失敗する確率はきわめて高いと思われた。しかも、総攻撃の日時は、海軍の都合(月齢による夜間に艦隊が運行できる期間)と一致させるために、戦闘準備には無理が生じ、ジャングルの中を通る急峻な道路によって大砲などもほとんど輸送できず、結局小銃での攻撃に頼るのみであった。この条件では作戦の失敗も当然であるが、戦後辻はこの作戦の失敗を川口になすりつけ、自著「ガダルカナル」で「K少将」として専ら自分に都合が良いように描写した。当時の「大流行作家」のこの捏造に怒った川口は辻の地元石川県で講演会を開くものの、辻の賛同者によって講演会は怒号とヤジに包まれ講演会は失敗した。アメリカ軍の基地への総攻撃失敗を体験した兵士は既に「作戦の神様」として有名人だった辻に報告を行い、攻撃方法の改善策を進言する。彼は辻ならば直ぐに全軍に情報を伝え迅速に対応策を練るだろうと期待していたが、辻は同期の多数の指揮官の死などの報告を聞き呆然としたまま迅速な対応をとることができなかったという。辻はガダルカナル島で「胆力をつける」と称して敵兵の死体から切り取った肝(肝臓)を携行していたという。結局ガダルカナル戦で辻は、重度のマラリアに罹り駆逐艦で戦いの途中撤退している。
ガタルカナル以降は、中国大陸、ビルマを転戦する。ビルマにおいては、「軍は龍稜方面の敵に対し攻勢を企図しあり、『バーモ』『ナンカン』地区の防衛は未完なり、水上少将は『ミイトキーナ』を死守すべし」とミートキーナ守備隊水上源蔵少将個人に死守命令を発令。水上少将は部下を救うため、辻の命令を口外せずに「ミートキーナ守備隊の残存しある将兵は南方へ転進を命ず」と部隊に脱出を命じ、自分は部隊の渡河を見届けてから責任をとり自決した。その結果、水上部隊の一部は包囲網の突破に成功して生還したが、辻は状況報告をしようとした水上の副官を「死守せよと言ったのに、おめおめ生きて帰りおって」と殴打。その後、イラワジ河会戦を立案。既に第15軍が壊滅して劣勢の日本軍であったが、15倍の英、米式中国軍に対する遅滞戦闘により、更に損害を増大。この作戦以後インド国民義勇軍は作戦地図より消滅。大部分のビルマ方面軍はタイ/シャン高原付近へ敗走し終戦を迎える。辻自身は作戦指揮中、寝返ったビルマ軍の襲撃を受け負傷。後送される。
[編集] 終戦
バンコクで敗戦を迎えたが、「腹を切ってお詫びするのが道だがアジアの中で民族の再建を図るため」僧侶に変装して逃亡する。この頃、ウィリアム・スティーブンソンの著作・革命の王(原題:The Revolutionary King)によると、当時のタイ国王ラーマ8世の怪死事件に関与していたとされている。この脱出は蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。帰国後、逃走中の記録「潜行三千里」が1950年度のベストセラーとなる。(同時に「十五対一」もベストテン入りしている)。
[編集] 戦後
旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、1952年(昭和27年)に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党 (日本)を経て自由民主党・石橋湛山派に所属。衆議院議員4期目の途中だった1959年(昭和34年)に参議院議員(全国区)に鞍替えした。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。
CIAの資料によると、服部卓四郎ら旧日本軍幹部の一部が1952年、国粋勢力に敵対的であった当時の首相吉田茂を暗殺しようとした際に、辻は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという[1]。
[編集] 失踪
辻は1961年(昭和36年)、参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって外務省は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオスの北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、彼の身におきた詳細については現在でも判明していない。
マスコミにおいては、いくつかの憶測記事が掲載された。その中には、虎に襲われ死亡した、戦犯として訴追されなかったためにイギリス軍が暗殺した、アジアの政治に介入するのを恐れたアメリカのCIAが暗殺した、現地に残留していた元日本兵によって殺害された、現地の共産勢力(パテトラオ)に処刑された、などの説が存在するがいずれも証拠は存在しない。現在では、1962年(昭和37年)1月にスパイとしてラオス解放軍に捕らえられ、カンカイという町で3人の兵士によって銃殺されたという説が採られることが多い。
上記のような死亡説に対して、ベトナムで反共義勇軍で戦った、エジプトのナセル大統領の顧問をしているなどの噂も存在した。
辻の失踪については、1962年5月4日の参議院議院運営委員会で詳細な報告・議論がなされている。
参議院議員としての議席は1965年(昭和40年)の任期切れまで保たれていた。家族の失踪宣告請求により、1969年(昭和44年)6月28日に東京家庭裁判所は1968年7月20日付の死亡宣告をおこなった。1979年(昭和54年)には郷里に銅像が建立されている。
[編集] その他
- 『週刊新潮』2006年2月23日号で、辻が失踪直前に次男に託した手記の存在が明らかになった。ノート6冊に及ぶ手記には、陸軍参謀本部や関東軍での生活など自らの半生が詳細に綴られているといい、研究が待たれている。
- 1946年9月にタイ王国当時の国王ラーマ8世が不審な"事故死"を遂げた。銃の暴発に因るものであると片付けられたが、当時の捜査に参加した英国の作家ウィリアム・スティーブンソンは辻が国王を殺害したという証拠を提示し、確信を持っていたという。いずれにしても真実は未だ謎のままである。
- 毀誉褒貶がきわめて大きな人物である。自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言した。また、金や女に潔癖で、女遊びをしている人物はたとえそれが上司であっても糾弾した。同期の人物や親しい人を親身に扱い、後輩の面倒見も良かった。他人に厳しくする態度はあったが、自分にも厳しかった。また、高級参謀ならば通常なら現地視察などまず行わないものであるが、辻は積極的に現場に赴き現場の人間と会話を交わしている。このように当時の価値観で下克上的思想以外の「軍人としてこうあるべき」という徳目は厳然として守っており、それが彼を非難する意見とは別に、多くの人が彼を支持する原因ともなっている。
- 変装の名人であり、満州では現地人の姿で各地を視察した。戦犯追及を逃れた際にも彼の変装の能力が発揮された。
- 米国立公文書館で2005~2006年に解禁されたCIAの極秘文書によると、CIAなどの米国の情報機関は第二次世界大戦後、辻政信らに接近したという。辻政信には連合国軍総司令部(GHQ)の情報部門が対中工作を指揮させようとしたものの、逆に日本の再軍備のために米国を利用しようとしたと分析し、辻を「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」(1954年の文書)とした。また、1952年10月31日付のCIA文書によると、元参謀本部作戦課長の服部卓四郎らは、自由党の吉田茂首相が公職から追放された者や国粋主義者らに敵対的な姿勢を取っているとして、 同首相を暗殺し、民主党の鳩山一郎を首相に据える計画を立てた。しかし、服部の元部下の辻政信が「今はクーデターを起こす時ではない」と説得し、グループはクーデターは思いとどまったものの、政府高官の暗殺を検討したという。[2]
[編集] 著書
- 『十五対一』(酣灯社、1950年)
- 『1960年』(東都書房、1956年)
- 『亜細亜の共感』(亜東書房、1950年)
- 『ガダルカナル』(養徳社、1950年)
- 『この日本を』(協同出版、1953年)
- 『これでよいのか』(有紀書房、1959年)
- 『シンガポール』(東西南北社、1952年)
- 『自衛中立』(亜東書房、1952年)
- 『ズバリ直言』(東都書房、1959年)
- 『世界の火薬庫をのぞく』(東都書房、1957年)
- 『潜行三千里』(毎日新聞社、1950年)
[編集] 参考文献
- 高山信武『二人の参謀—服部卓四郎と辻政信』(芙蓉書房出版、1999年) ASIN 4829502347
- 田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』(芙蓉書房出版、1986年) ASIN 4829500662
- 生出寿『悪魔的作戦参謀辻政信 稀代の風雲児の罪と罰』光人社文庫 1993年 ISBN 4769820291
- 津本陽 『八月の砲声 ノモンハンと辻政信』 講談社 ISBN 4062129299
- 橋本哲男 『辻政信と七人の僧 - 奇才参謀と部下たちの潜行三千里 』 光人社NF文庫 ISBN 4769820658
- 生出寿 『「政治家」辻政信の最後 - 失踪「元大本営参謀」波瀾の生涯』 光人社 ISBN 4769804989
- 河田宏 『満州建国大学物語 - 時代を引き受けようとした若者たち』 原書房 ISBN 9784562035267