ミッドウェー海戦
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ミッドウェー海戦 | |
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B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母「飛龍」。 |
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戦争: 太平洋戦争 | |
年月日: 1942年6月5日~7日 | |
場所: ミッドウェー島周辺 | |
結果: アメリカの戦術的、戦略的勝利。 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指揮官 | |
山本五十六大将 南雲忠一中将 |
F・J・フレッチャー少将 R・A・スプルーアンス少将 |
戦力 | |
航空母艦6、戦艦11、重巡洋艦10、軽巡洋艦6、駆逐艦53他 | 航空母艦3、重巡洋艦7、軽巡洋艦1、駆逐艦15、ミッドウェー島の航空隊 |
損害 | |
航空母艦4、重巡洋艦1沈没、重巡洋艦1大破、駆逐艦1中破、戦死3,057 | 航空母艦1、駆逐艦1沈没、戦死307 |
ミッドウェー海戦(日本側作戦名 MI作戦)は第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけて行われたミッドウェー諸島沖で行われた海戦。アメリカ海軍は航空母艦1隻を失ったが、日本海軍は航空母艦4隻を失う敗北を喫した。
目次 |
[編集] 日本の作戦決定の背景
[編集] 山本長官の作戦思想
日本海軍の対米作戦における基本的な方針としては守勢の邀撃作戦を採っていたが、連合艦隊の司令長官であった山本五十六は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた。[1]これにはまず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しかありえないと判断したためであると思われる。さらに山本長官は太平洋戦争開戦当初より敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと山本長官が考えていた点も関係している。[2]すなわち相当の危険性を承知の上でも米国に対しては戦争という局面で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。
[編集] 次期作戦構想
真珠湾攻撃より半年、日本軍は第一弾作戦の目標であった太平洋における米英基地攻略を達成したので、続く第二段作戦構想を昭和17年2月前半には決定する必要があり、大本営陸海軍部は検討を始めた。また連合艦隊も作戦研究を行い、海軍部(軍令部)に意見を上申した。しかし海軍部と山本長官には作戦思想に相違があった。
大本営陸海軍部は開戦前から南方要地の攻略作戦を進め、以前より企図していた外郭要地の建設を検討し始めた。当時の海軍部はジャワで進攻を止めてしまうことに作戦的な不利を感じていたが、まだオーストラリア攻略までは計画していなかった。しかしオーストラリアは米国の反攻拠点となり、南方戦線の戦況に脅威であると考えられていた。[3]開戦後、海軍部は戦況が好転しているためにオーストラリアの一部の要地を攻略することを考えた。その構想においては南方戦線への作戦的な不安を排除し、また北部東部の要地は土地の殆どが砂漠であるため大規模な兵力を要せずとも攻略確保が可能であり、加えてオーストラリアを英連邦から脱落させることが期待でき、戦争終末促進に繋がるとの案を陸軍部に示した。対ソ事態、対蒋施策、ビルマ進攻、インド進攻を念頭においていた陸軍参謀本部は同案に必要性を認めたものの、攻略範囲の限定が困難であり、膨大な兵力が必要になる危険性がどうしても残るとして反対した。そのため代替案として海軍部はオーストラリアとハワイとのシーレーンを遮断することを目的として、サモア、フィジー諸島、ニューカレドニア島の攻略確保するオーストラリアとの休戦に持ち込む作戦を示し、陸軍部も使用兵力が少なく、またインド方面の作戦に負担にならない作戦計画であったために同作戦(FS作戦)を採用した。
一方山本五十六連合艦隊司令長官は、敵の空母部隊の奇襲を防止し、また補足撃滅する作戦研究を命じていた。またFS作戦については、攻略地点が策源地より遠方であり、攻略確保が困難である。また米空母が健在であるため攻略作戦は危険である。さらに米豪のシーレーンは他のルートがあり、目的が達成できない。また戦争終結促進としてはあまりに不適当かつ迂遠であるとして、反対した。連合艦隊はFS作戦に変わる案として、セイロン島を攻略し、ポートダーウィン(オーストラリア北岸)を攻略し、FS作戦は占領せずに破壊のみ行い、ハワイを将来的に攻略する案を海軍部に示して第二段作戦として採用することを求めた。しかし、海軍部はFS作戦は占領が必要であり、またハワイ攻略は危険すぎるとして反対した。
[編集] ミッドウェー作戦着想
山本長官が懸念していた通り、昭和17年になってから米空母部隊はハワイを出撃し、その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。そのため、マーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。奇襲は敵の技量が低かったために被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。連合艦隊はセイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間に代替案を作成しなければいけない立場に置かれた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかず、またこれまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、加えて守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断し、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に作戦計画を立案した。
このミッドウェー作戦は、ミッドウェー島を攻略することにより、米艦隊特に空母部隊を誘出、これを補足撃滅する作戦であった。これは米軍の要点であるミッドウェー島を占領することで軍事上・国内政治上から全力で奪回しようとすることが明白であったので、米空母部隊が出撃するであろうという前提に基づくものであった。しかし、ミッドウェー島を占領してからの確保は極めて困難であることが考えられており、連合艦隊はあくまでこの作戦は米空母を撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、敵にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦にまで確保できると考えた。すなわち、このミッドウェー島の占領は直接的なハワイ攻略作戦の準備ではなく、空母の補足撃滅を第一の目標として考えたものであり、ハワイ攻略作戦にとっては間接的、補助的な役割に限定した作戦であった。
大本営と連合艦隊司令部はこの作戦については激しく対立し、黒島参謀は山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして軍令部と折衝したが、交渉は暗礁に乗り上げた。山本長官は工業力で圧倒的に劣る日本がアメリカと講和するには、一時的にでもミッドウェー攻略の後ハワイを占領し、アメリカ国民の戦意を衰えさせる必要があると考えていた。それには、真珠湾攻撃で取り逃がし、その後の数回の空襲で捕捉、撃滅できずにいた米空母部隊を誘い出して決戦し、これを壊滅させることが絶対的に不可欠であると考えた。海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は伊藤次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。そこで伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定し、ミッドウェー諸島の占領および米空母部隊の補足撃滅を狙うこととなった。さらに後日アリューシャン列島西部要地攻略作戦をミッドウェー作戦に追加することを海軍部が提案し、連合艦隊もこれに同意し、ミッドウェー作戦の全体像が固まった。これには以前行われた図上演習においてアリューシャン方面から米国の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景がある。
5月5日に、海軍部は「聯合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」という命令(大海令第18号)を下す。この命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、宇垣纏参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された[4]。 しかし、空母「瑞鶴」、「翔鶴」を主力とする第五航空戦隊は5月7日の珊瑚海海戦によって、参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊して補充を待っている状態であり、また同海戦で中破した翔鶴は修理を必要としたため、本作戦に参加できなかった。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では米軍より優勢であった。
[編集] ドーリットル空襲
1942年4月18日のドーリットル空襲による被害は微小であったが、日本上空にやすやすと敵機の侵入を許してしまったことは日本にとって大きな衝撃を与えた。また敵が航続距離の大きいB-25を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった。[5]山本長官は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。
[編集] アメリカ軍の対応
[編集] 情報収集と分析
米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェー作戦に準備していた。昭和17年3月4日に太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機二機が爆撃し、同月11日にミッドウェーに新型飛行艇一機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。(ただし実際には攻勢作戦とは関係のない妨害作戦に過ぎなかった)日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。
真珠湾攻撃直前に変更された日本軍の暗号は、アメリカの諜報部よりJN-25と呼ばれており、4月頃に情報隊が日本軍の暗号を談判的に解読し、日本軍が太平洋正面で新たな作戦を企図していることについてもおおまかに把握されていた。しかし、その時点では時期・場所などが不明であった。5月ごろから暗号解読を進めるにつれて資料が増え、検討していくにつれて作戦計画の全体像を明らかにしていくと、解読文中に登場する「AF」という場所が主要攻撃目標であることはわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。しかし「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白だと判断した。
ワシントンは攻撃目標をハワイ、陸軍航空部隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。決定的な情報がなく、5月中旬になっても米軍は日本軍の進攻目標も時期も分からなかったが、ニミッツ大将はミッドウェーが目標であると各種情報と戦略的な観点から予想して、ハワイ情報関係者らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼はミッドウェー島の基地司令官に対して、ハワイ島に向けた、「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信するように伝えた。(オアフ島、ミッドウェーの間には海底電信もある。)その後程なくして日本のウェーク島守備隊から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、ミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツは大将はミッドウェー部隊に伝えたが、ワシントンでは全面的に信用されず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、ニミッツ大将は自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号を変えたために解読はできなくなった。
[編集] 作戦準備
ハワイ諸島とは米国にとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であり、ミッドウェーはこのハワイ諸島の前哨であり、戦略要点であった。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせ、兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将は要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。集結した航空機は約120機、人員は3027人に達し、陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めた部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。
日本海軍のミッドウェーへの攻撃は、6月3日から5日までに行われることをハワイの情報隊は事前に察知していた。日本側は陽動作戦として空母「龍驤」、「隼鷹」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせ、アッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する攻略作戦を計画していたが、これは陽動であることは事前に米軍が察知していた。ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。しかし日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン、アラスカ方面を最低限の戦力を送り、主力部隊をミッドウェーに集中した。この作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』を発令した。そこで第一に敵を遠距離で発見補足して奇襲を防止、第二に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第三に潜水艦は哨戒及び攻撃、第四にミッドウェー守備隊は同島を死守などを述べた。しかしニミッツ大将は2隻の空母しか本作戦で使用が期待できなかった。
第17任務部隊(TF-17)のフレッチャー少将は珊瑚海海戦で日本のポートモレスビー攻略を防ぎ、敵主力空母へもダメージを与えることに成功した。しかし自身も主力空母「レキシントン」を失い、「ヨークタウン」も中破するという犠牲も払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊するという重大なダメージを受けていた(排煙が正常に排出されずにいるためボイラーが出力を出せなくて速力が低下していた)。また2発の至近弾により燃料タンクの溶接が外れ燃料が漏れ出していた。特に油槽船「ネオショー」を失っていたため、この燃料漏れは重大な結果(海上で立ち往生)を招きかねなかった。
ニミッツ大将は、来たるべき侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「ヨークタウン」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられ驚異的な応急修理が実施された。燃料タンクの損傷はアメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港で長期の修理が見込まれていたのだが72時間の不眠不休の作業により応急修理が施され、なんとか戦闘艦としての機能を取り戻すことに成功した。5月28日に第16任務部隊(TF-16)の「エンタープライズ」「ホーネット」が真珠湾を出撃。そして「ヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出たが修理工を乗せたままで出航し、航行中も修理が続けられた。また、珊瑚海海戦にて損害のあった飛行機隊は「サラトガ」(雷撃の損傷修理のため本国へ戻るときに飛行隊は降ろしていた)の隊と取り替えて乗船させるなど、ニミッツ大将の持ちうるすべての戦力を日本軍に向けさせるという信念と豪腕により、アメリカ軍は3隻目の空母を戦闘に参加させることができた。
もしもニミッツ大将が準備できた空母が、(入院したハルゼー中将に代わった)スプルーアンス少将の第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみだった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。[6] 6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。
[編集] 戦闘の経過
[編集] 南雲機動部隊
5月27日午前5時、日本の南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする南雲機動部隊(第一機動艦隊)が広島湾柱島から出港し、主力部隊も2日後に同島を出港した。 南雲機動部隊は6月5日1時、作戦海域に到達。同時30分、ミッドウェーへ第一次攻撃隊が各艦より護衛戦闘機(零式艦戦)9機、急降下爆撃機(九九艦爆)9機、攻撃機(九七艦攻)9機づつ合計108機が出撃、空母赤城、加賀からそれぞれ1機、巡洋艦利根、筑摩から2機づつ、戦艦榛名から1機索敵機が発進した。そのうち利根の1機(利根4号機)は発進が30分ほど遅れた[7]。第一次攻撃隊の発進から間もなく、アメリカ海軍艦隊の出現に備えて急降下爆撃機には通常爆弾、攻撃機には魚雷(対艦攻撃兵装)で第二次攻撃隊の準備を始めた。
南雲機動部隊から発進した第一次攻撃隊の爆撃によりミッドウェー島の基地は相当な被害を受けた。しかし、アメリカ側が暗号解読によって反撃準備を整え、偵察機とレーダーが南雲機動部隊と基地に襲来する攻撃隊を捕捉して奇襲の阻止に成功し、F2A バッファロー戦闘機20機、F4F ワイルドキャット戦闘機7機など迎撃機を発進させ、迎撃機以外の航空機を攻撃に向かわせるか退避させた。ミッドウェー基地戦闘機隊の多くは第一次攻撃隊の護衛戦闘機に撃墜され要撃に失敗したが、このような反撃により第一次攻撃隊はミッドウェー基地に駐留する航空隊の殲滅(地上撃破)に失敗した[8]。
攻撃の成果が不十分と判断した第一次攻撃隊長の友永丈市大尉は南雲機動部隊の旗艦である「赤城」に対し、「第二次攻撃の要あり」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。これに対し赤城の司令部では偵察機からの敵艦隊発見の報告がないことや、事前の敵情分析と照らし合わせて再度ミッドウェー島の攻撃の必要性を重く感じ、4時15分に急降下爆撃機、攻撃機共に陸用爆弾(対地攻撃兵装)へ転換を指示して第二次攻撃隊をミッドウェー島の基地に対する攻撃準備を始めた。
4時40分からミッドウェー基地から攻撃隊が順次発進していった。陸軍のB-26B マローダー爆撃機4機(雷装)と海軍の新鋭機TBF アヴェンジャー雷撃機6機、海兵隊のSBD ドーントレス急降下爆撃機16機とSB2U ビンジケーター爆撃機11機、陸軍B-17E フライング・フォートレス爆撃機15機、それぞれによる南雲機動部隊へ反撃を実施したものの、直掩機の零戦の妨害を受けて直接的な効果を挙げられなかった。しかし、この攻撃で南雲機動部隊を油断させる効果があった。
同じ頃、アメリカ海軍機動部隊の指揮官フレッチャー少将はミッドウェー基地航空隊の活躍によって、日本側より先に南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを伺っていた。スプルーアンス少将は4時過ぎから指揮下の空母エンタープライズからF4F戦闘機10機(VF-6)、SBD爆撃機33機(VB-6, VS-6)、TBD デバステイター雷撃機14機(VT-6)と空母ホーネットからF4F戦闘機10機(VF-8)、SBD爆撃機35機(VB-8, VS-8)、TBD雷撃機15機(VT-8)の計117機、ほぼ全力の発進を開始した。しかし、5時40分過ぎに日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、スプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した(全力攻撃なので、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができないからである)。また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認したフレッチャー少将も警戒のため出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当だった)の収容を終えた後の6時頃に空母ヨークタウンからF4F戦闘機6機(VF-3)、SBD爆撃機17機(VB-3)、TBD雷撃機12機(VT-3)の35機が発進させた。結果的にこのスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。なお、ヨークタウン攻撃隊だけは戦闘機と爆撃機の数が少ない。これはつい一か月前の珊瑚海海戦の教訓から、母艦を守る戦闘機の数を増やすためと、SBD装備の偵察機隊(VS-5)を用心のため残していたからである。
[編集] 急降下爆撃
南雲長官のもとに遅れて発艦した重巡洋艦「利根」の4号偵察機[9]から、「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーよりの方位10度240浬地点」という打電を受けた。 その後付近の天候情報などを打電してきた。しかし、これでは敵がどんな部隊かわからない。「艦種知ラセ」との問い合わせに5時になって同じ利根4号偵察機から、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻ナリ」といった続報で、危急性はないと判断された。しかし、5時半に、「敵ハソノ後方ニ空母ラシキモノ一隻伴ウ」との打電が入ったとき、南雲中将らの首脳部は混乱する。
しかし偵察機の報告によれば敵までの距離はまだ遠い(実際は敵はもっと近くにいた)ので、攻撃兵装の転換は間に合うと判断、急降下爆撃機、攻撃機共に陸用爆弾(対地攻撃兵装)転換中の第二次攻撃隊は急降下爆撃機には通常爆弾、攻撃機には魚雷(対艦攻撃兵装)へ再度換装することが命令された。
第二航空戦隊を率いていた山口多聞少将はこの混乱は危険と判断し「地上爆撃用の爆弾でもアメリカ海軍空母の甲板を破壊すれば発艦できなくなるのですぐに攻撃すべし」との考えから、信号で駆逐艦を中継して「直ちに発艦の要ありと認む」と進言したが却下された。このとき、甲板上には兵装転換の終わった第二次攻撃隊が並べられ始めていたが、また格納庫へ戻す作業が始められた。さらに5時半になると友永隊長率いる第一次攻撃隊が機動部隊の上空へ戻ってきたが、燃料が切れかかっている機、パイロットや機体に被弾し墜落しそうな機もあった。このため南雲機動部隊の空母では、第一次攻撃隊の収容も実施せねばならず、格納庫内は一層混乱し、格納庫内には爆弾や魚雷が乱雑に置かれるという危険な状態にあった。
この状況下、6時20分頃にホーネット、エンタープライズの攻撃隊のうち雷撃機29機が日本の機動部隊上空に襲来、対空砲火と直掩機により25機が撃墜された。また、7時10分頃に襲来したヨークタウンの雷撃機隊12機も、戦闘機の援護があったにも関わらず10機が撃墜された。 先に発艦したエンタープライズ爆撃機隊は日本の機動部隊を見つけられず、予想海域の周辺を捜索した。その時、駆逐艦を発見。この駆逐艦は空母部隊へ向かっているものと判断してその進路上を索敵した結果、日本の機動部隊を発見した(ホーネット戦闘機隊・爆撃機隊は機動部隊を発見できず引き返して一部は燃料不足で水没、エンタープライズ戦闘機隊は燃料不足で引き返している)。7時23分、まさに絶妙なタイミングでヨークタウン爆撃機隊も戦場に到着、エンタープライズ爆撃機隊とヨークタウン爆撃機隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどの雷撃機隊に対応して直掩機のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の艦載機に気をとられていたため「敵、急降下!」と見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。
この急降下爆撃機による爆撃によって「加賀」4発、「蒼龍」3発の爆弾を受け瞬く間に炎上、旗艦である「赤城」にも2発の爆弾が命中して炎上した。「加賀」では最初の命中弾に被弾した燃料車が爆発し、艦橋にいた岡田艦長以下指揮官らは戦死した。10時半頃、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた飛行長が総員退去を決め、駆逐艦に移乗してなお機を見て救出も行ったが、15時26分「加賀」は沈没する。「蒼龍」と「赤城」は爆弾そのものの被害は復旧可能な範疇であったが、被弾して生じた火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷や準備中だった航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生した。両艦のダメージコントロールの悪さもたたって火災の鎮火ができなかったため復旧が進まず、「蒼龍」は16時10分過ぎから乗員の駆逐艦への移乗を開始して、柳本艦長ともに沈没した。「赤城」は18時になって総員退去命令が下され、火災が続いたまま漂流していたが、20時半頃に山本長官の指示により味方駆逐艦による雷撃処分が行われた。
[編集] 空母「飛龍」の反撃
雷撃機回避のため他の3隻の空母からやや離れていた空母「飛龍」はこの難を免れた。7時50分、山口少将は南雲中将の指示を待つことなく独断で即時攻撃を決意し、「全機発進」を指示した[10]。そして第一次攻撃隊として零戦6機、九九艦爆18機の計24機(急降下爆撃機隊)を発艦させた。途中、急降下爆撃機隊は攻撃を終えて帰投するアメリカ軍機の編隊を発見し、アメリカ海軍艦隊上空まで追跡した。急降下爆撃機隊は9時から攻撃を開始し、小林隊長機を含む以上の損失を出しながらも、9時10分頃に250kg爆弾3発を空母「ヨークタウン」に命中させ、航行不能に陥れた。しかし「ヨークタウン」は11時過ぎに爆撃による火災を鎮火させ航行可能にした。
続いて「飛龍」は10時半に零戦6機、九七式艦攻10機の友永大尉率いる第二次攻撃隊(雷撃機隊)16機を発進させた。また、第一次攻撃隊を収容する直前に空母「蒼龍」から飛び立っていた十三試艦上爆撃機(後の二式艦上偵察機や彗星)が8時半頃にアメリカ軍機動部隊を発見していたが、無線機の故障で報告できていなかった。「蒼龍」上空に帰ってきた時にはすでに母艦は炎に包まれており、10時45分に空母「飛龍」へ着艦して山口少将に対しアメリカ海軍の空母が3隻であることを報告した。11時半、雷撃機隊はアメリカ海軍艦隊を発見するが、それは復旧作業中の「ヨークタウン」だった。火災を鎮火し、戦闘航行中の米空母を見て友永大尉は、損傷を受けていない別の空母と判断して攻撃し、雷撃機隊は約半分が撃墜されながらも魚雷2本を命中させ「ヨークタウン」を大破させることに成功した[11]。山口少将は先の攻撃と合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母に二度攻撃したことに気付かなかった。 この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた。遂に最後の空母の位置がアメリカ側に知られてしまったのである(離れた所にいたため発見されていなかった)。
山口少将は、帰還した攻撃隊の損害がひどい(半分以下に減っていた)ために白昼の攻撃を断念し、12時半に南雲中将へ「薄暮敵残存空母を撃滅せんとす」と報告した。第三次攻撃隊(14機)が薄暮攻撃を待って待機している時にアメリカ軍の急降下爆撃機隊の奇襲を受けた。14時30分頃、エンタープライズとヨークタウンのSBD爆撃機が襲いかかり、3発の爆弾が命中・炎上し、戦闘不能状態に陥った。航行不能となった飛龍はしばらくは洋上に浮いており、横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの復旧の見込みがたたないことから、山口少将は南雲中将に総員退艦させると報告した。山口少将は、加来艦長と共に、味方駆逐艦の雷撃によって沈む艦と運命を共にした[12]。
[編集] 撤退
飛龍の攻撃隊により空母「ヨークタウン」は深刻な損害を二度も負った。応急修理で沈没こそしなかったものの(一時は総員退艦まで出した)、「ヨークタウン」の戦闘継続不可能と判断したフレッチャー少将は撤退を決め、同艦を率いて真珠湾に向かった。 指揮権を引き継いだスプルーアンス少将の第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れていなかったため、一時的に東へ退避した。翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始し、3時頃に艦載機が退避中の三隈、最上を発見した。
支援隊の第7戦隊(重巡洋艦・三隈、最上、鈴谷、熊野)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって、新たにミッドウェー基地砲撃の命を受けて全速力で前進した。その後、第7戦隊がミッドウェーまで距離があると判明したため、夜戦中止に先立って山本長官から砲撃中止命令が出された。しかし第7戦隊は、転進を行おうとした矢先にアメリカ海軍潜水艦「タンバー」(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に衝突事故を起こした。「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第7戦隊司令官の栗田健男中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻をあてて残存艦を率いて主力部隊との合流に向かった。残された4隻には6時40分頃から「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊が襲来、「最上」を護衛していた「三隈」が炎上し、10時半頃に沈没した。また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。翌8日0時過ぎ、「最上」は応急修理の結果、速力20ノットまで復帰し、駆逐艦の護衛を受けながら空襲圏外へ脱した。
戦艦「大和」をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して21時に夜戦を中止し、0時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。南雲機動部隊の残存艦と第7戦隊を含む第2艦隊を率いて撤退した[13]。
6月7日、「ヨークタウン」は曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていたが、「ヨークタウン」撃沈の任を受けて接近した潜水艦「伊-168」の放った4本の魚雷のうち2本が命中、空母対空母の戦いを連戦、日本軍の侵攻阻止に活躍した「ヨークタウン」は沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦「ハンマン」にも1本が命中して沈没してしまった。
6月13日、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」は艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。
[編集] 両軍の損害
- 日本軍
- アメリカ軍の攻撃により主力空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」4隻が沈没、248機の艦載機、108名の熟練搭乗員を含む3,057名を失った。
- アメリカ軍
- アメリカ側は合計で約130機の艦載機が失われ、「ヨークタウン」と「ハンマン」の沈没で約100名を失った。
- 沈没喪失
- 航空母艦:ヨークタウン
- 駆逐艦:ハンマン
- 航空機:喪失艦載機95機、基地航空機35機
[編集] 本海戦の影響
- 日本軍側
- 山本長官が戦前に、日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろうと述べていた通り、開戦から6ヶ月目に当たるこの戦いの敗北以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦では勝利を手にするものの、ニューギニアやマキン・タラワ島をめぐる戦いで敗北を喫するなど、1年を経たずに日本の戦局は徐々に悪化した。開戦後2年が経った1943年の年末には日本軍の敗色が濃くなった為、後年太平洋戦争の転換点とも評されるようになった。
- また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「信濃」となる。戦艦伊勢・日向は航空戦艦となった。 商船改装の空母の建造や飛龍を元にした雲龍型空母の15隻追加建造が計画されるが、完成したのはわずかであった。また、熟練搭乗員を大量に失ったことによって、空母の数ではこの状態を上回っても、質的にはかなり下回る内容でしかなく、結局、日本海軍はこのとき失った戦力を二度と持つことはなかった。
- 作戦失敗により短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなる。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとしたが、これ以降国民に対して嘘の戦果報告を行なうようになり、この状態は日本海軍がなくなる日まで続く。これは戦果を正確に厳しく記録できていた開戦初頭に比べて、搭乗員の経験不足もさることながら、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感からか搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも大きい。[14]
- アメリカ軍側
- アメリカ軍は航空戦力の優位性を確信し、それまでは単鑑による作戦行動が多かった空母を空母部隊として集中運用するようになり、エセックス級の大型空母の建造やタンカー改装の護衛空母の建造を積極的に行う[15]。このため、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では20隻もの大艦隊を運用するようになる。
- もしも日本軍が勝利し、ハワイ攻略に成功しても、国力の差が歴然としていることから結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説が主流である[16]。
[編集] 戦闘の分析
[編集] 指揮体系
空母対空母戦では、刻一刻と変わる情勢の変化に即応できる指揮体系が要求される。アメリカ軍は、現場の戦闘部隊の指揮官で、空母部隊指揮経験のある(しかも直前に史上初の空母対空母の戦いを指揮した)フランク・フレッチャー少将が作戦全体を指揮した。彼は戦闘中に自分の空母を失うと、即座に指揮権をスプルーアンス少将に移し、その空母によって日本の残存空母を仕留めることに成功した。一方、日本の機動部隊の司令官は、利根4号機のアメリカ海軍空母発見の報告の際、士気旺盛な山口多聞少将の臨機応変の攻撃要請に応える事もできず、再びの兵装転換の命令を出さざるを得なかった。これらのことは、空母部隊の指揮運用に不安要素があった南雲忠一中将であった事に加えて、アメリカ空母部隊とミッドウェー基地攻撃との二方面作戦を厳命されていた日本海軍と、日本機動部隊のみの捕捉撃滅を目指すアメリカとの戦略の根本的な違いなどに起因すると思われる[17]。
[編集] 日本軍の敗因
本作戦が失敗した原因は多岐にわたる要素が挙げられるが、ここでは主要なものに関してのみ述べる。
[編集] 情報戦
米海軍が日本海軍の暗号解読に成功し、これに状況判断を加えることで、作戦計画の概要をほぼ完全に把握し、的確な邀撃作戦を準備していたことがまず挙げられる。一方日本軍は米軍の暗号をほとんど解読できず、主に通信状況、方位測定、平文傍受などの情報から状況判断を加えて分析しており、確度は低かった。
日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前より使用していたため寿命が尽きかけていた。ハワイの米軍情報隊に暗号は解読され、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇が判明しており、作戦全体像がほぼ察知されていた。日本軍としては暗号書などを改訂しようとしていたが主力部隊の出撃に間に合わず、作戦準備期間の電報が大量に解読されてしまう事態があった。
加えて珊瑚海海戦、5月15日にマーシャル諸島南方において敵空母を発見したことにより、敵空母の所在についての判断を誤る結果となったことも作戦行動に影響している。日本側が想定した米空母数は2隻。日本側の6隻と比べると倍の戦力差があり、このため今まで通り米空母は決戦を避けるのではないかということも考えられていた。情報戦における敗北については戦闘後に宇垣参謀総長も「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」「敵情偵察不十分」を敗因として挙げている。
[編集] 楽観的気運
日本海軍の空母部隊の精強さについては少なからず自負があり、当時の多くの関係者らが状況判断に間違いがあっても空母部隊が何とかしてくれるという楽観的な観測を持っていた。これは開戦後にマスコミによって大々的に戦果が報じられ、また珊瑚海海戦で空母同士の戦闘で勝利を得たために、また長年の訓練研究によって日本空母部隊の戦力は世界レベルに達しているという自信があった。また陸海軍部の国民指導も大きな影響があった。
[編集] 作戦計画
前述のとおり、連合艦隊幕僚が作戦計画を性急に策定したため、実際の実施部隊に対して攻撃目標を絞とをさせなかったため、作戦計画の各所に慎重さを欠いていた。実施部隊は比較的安易に最初の兵装転換命令を出してしまった。これは連合艦隊がミッドウェー近海の潜水艦による空母部隊掃航を実施しなかった。これは米空母の発見の遅れに繋がった。作戦計画について例えば事前の図上演習において赤城沈没が予想されたにもかかわらず、「アメリカ軍側航空機の命中率は低い」として、敵側の命中弾を日本側の「三分の一」に減じて図上演習をやり直したと言われている。望ましくない結果が生じたならば、作戦のあり方を(遂行すべきか否かも含めて)見直すべきところを、望ましい結果が出るように、客観的であるべき確率の方にバイアス加えてしまったのである。いわば「航路に合わせて天気図を描く」ようなものであり、慎重さの欠けることを示すエピソードといえる。
[編集] 哨戒
まず、あらかじめ敵空母部隊の進出が一応予想されていたにもかかわらず、ハワイとミッドウェーの間に敷く、潜水艦による哨戒線の展開が敵空母の通過後になってしまった(結果として敵機動部隊発見の報告がない事になる)。このことによって南雲機動部隊は、アメリカ海軍空母部隊の進出はミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった(敵発見の報告がない=敵は進出していない)。そのため、索敵よりもミッドウェー攻撃に重点をおいて攻撃隊の機数を減らさないようにした。主要攻撃機である九七艦攻を2機のみ使用し、あとは巡洋艦の水上機を割り当てている[18]。また、利根4号偵察機の発艦が遅延することが分かったとき(南雲司令部では把握していない説有り。現場レベルでも遅延した認識なしの説有り。巡洋艦の水上機は潜水艦索敵任務もあるので、発進が重なったことも考えられる)即座に代わりの偵察機を飛ばす考えを起こさなかった。これらのため、直線距離約240kmで対峙しながら空母の発見が遅れた。また、無事に飛び立った他の偵察機(筑摩一号機、都間信大尉<兵66期>)が米機動部隊上空を通過しながら雲の上を飛行していたためこれを発見出来ず(当時の日本の飛行機にはレーダーなどの装備はされていないため、雲の上を飛ぶと海上の状況がまるっきりわからなくなる)、しかも敵艦爆と遭遇しながら報告もしないという怠慢を犯した。これはそもそも、敵空母の進出は自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きい。この先入観による錯誤は、利根4号偵察機が実際に敵を発見した際の南雲部隊首脳部の混乱ぶりからも明らかと考えられる。
- レーダー
- 米軍にはレーダーがあり、日本軍にはないという装備上の差があった。しかしまだレーダーの運用のノウハウが足りなかったため、まだ絶対的な優位とはならなかった。(まだ見張りにしか使っておらず、レーダーと戦闘機を連動して迎撃するようなシステムはできていなかった。しかしレーダーがある方が有利であることに変わりはない。)
[編集] 用兵
山口少将の言うとおり、陸用爆弾で飛行甲板の破壊は(少なくとも数時間は運用不能にする事は)可能であったにもかかわらず、雷装換装を行った。だが現実的問題として空母機動部隊の主力攻撃力である艦攻は、雷撃か水平爆撃しか出来ない機種で、水平爆撃では高速空母はおろか、戦艦に対して用いても回避行動をとられればほとんど命中を得られないとされていた。(今海戦時、水平爆撃能力に関してより高性能の米機も全弾外している)軽快な急降下爆撃機が重大な結果をもたらす事は、まさにこの戦いで初めて実証されたのである。(南雲中将は、この点と、護衛の零戦隊を艦隊直掩に回している為、護衛に欠いた味方攻撃隊に甚大な損害がでる事を理由に雷装換装を行ったと言われている。)比較的優位はずの本海戦で、ここに至るまで多くの功労と世界随一の経験量を持つ貴重な艦攻隊に高速空母に対して(確率を上げるため自殺的低高度となる)効果の薄い水平爆撃を命じる判断は、非常な物であったとは言える。もっとも、この戦いの正否と結果を思えばそれでも直ちに出撃させるべきではあった。米空母が日本空母のようにダメージコントロールに失敗したかどうかはわからないが、戦力の差で圧倒することは可能だっただろう。そもそも、山本長官から直々に第二次攻撃隊の対艦攻撃兵装のままで待機させておくようにとの指示(文書上ではなく、口頭のみ)があったにもかかわらず、まだ索敵機が全て折り返していない(未偵察の海域がある)にもかかわらず、軽々と兵装の転換を命令している事が大きく作用した。これも前述した敵の進出はミッドウェー攻撃後であるという先入観が大きく影響している。雷撃装備は数時間を要する作業であり、これを攻撃を受ける可能性のある艦で軽々しく出来ないことは誰よりも水雷の専門家である南雲が良く知ることであった。 数瞬で変転する最先端の空母戦でその一瞬に強いられる判断は、あらゆる立場からあらゆる可能性を予期しておかなければ必勝など無し得ない物であった。 不足する(やもすると誤った)情報と策敵力の中で、明瞭に出撃を瞬時に主張した山口少将だけが空母戦の恐ろしさをその立場から予期し尽くしていたのではないだろうか。彼に決定権が全く無かった事が組織の能力を示していたとも言える。
[編集] 情報伝達
南雲機動部隊を前衛に出し、後方を戦艦大和を旗艦とする本隊が進んでいたのだが、大和には高性能のアンテナと優秀な情報収集班が配置され、ミッドウェー付近の敵の状況を推測の範囲ではあるがある程度まで把握していた。片や南雲機動部隊側のアンテナは性能が悪く、敵の情報をつかむことが困難であるため、本隊からの情報が必要であったが、最後まで的確な情報提供がなされなかった。映画「連合艦隊」でこの情報伝達の不備が敗因のひとつであったと指摘されている。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督はハワイで指揮を執り、空母部隊に逐次連絡していたのに比べ、連合艦隊司令長官山本提督は無線封鎖中の戦艦大和で指揮を執り、情報は一切発信しないという状況であった。
[編集] 参加兵力
[編集] 参考
- ^ 大島一太郎大尉(後に大佐、昭和三年海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べていることから分かる。
- ^ 及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いが米海軍・米国民の士気を喪失させることであったこと、また本土空襲の精神的な打撃を大きいと認めている点が分かる。
- ^ 当時軍令部第一課部員であった佐薙中佐の記録『佐薙日誌』『軍令部作戦日誌』『佐薙メモ』を参考。
- ^ 戦艦大和他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃し、戦闘に参加しようとしたのはこの作戦が始めてであった。
- ^ このことは当時連合艦隊参謀であった三和義勇大佐の『三和日誌』、宇垣連合艦隊参謀長の日誌『戦藻録』より窺える。
- ^ 後述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の戦闘可能空母をこの時点で2隻と見積もっており、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えた米空母「ヨークタウン」がミッドウェー作戦に間に合うとは夢にも思わなかった。
- ^ カタパルト故障、または対潜警戒機先発発進による遅れなどが原因と言われている。
- ^ 参考『ミッドウェー』:南雲機動部隊の任務は第一が機動部隊撃滅であったものの、攻略部隊の同島接近と上陸を易しくするため、ミッドウェー基地航空隊を殲滅して制空権を確保しておくことが必要であった。
- ^ 南雲機動部隊と米空母部隊の位置関係には考察する部分があり、利根4号機が定時発進しても敵を発見できたかは不明である。遅れて発進したから発見できたとする説有り。
- ^ 参考『ミッドウェー』:8時50分になって次席指揮官阿部弘毅少将が「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が被弾炎上していることを主力部隊に通報。
- ^ 友永大尉の九七式艦攻は、ミッドウェイ島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。修理する十分な時間も無く、搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。黄色い尾翼の友永機は魚雷を投下するまでは部下により確認されているが、その後その機を見ていないため体当たりを試みたのではないかとその部下は述べている。
- ^ 参考『ミッドウェー』:空母「飛龍」が雷撃処分されたのは6日2時だが、沈没は5時である可能性が高く、空母鳳翔の偵察機が写真を撮影している。
- ^ 参考『ミッドウェー』:主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加出来ず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戦艦に移乗させ、収容と手当てに留まる。
- ^ 国を問わず戦闘では、自身や戦死者の名誉の為からか戦果を多く報告する傾向が有り、また戦闘で戦果の誤認は付き物だった。事実、先の珊瑚海海戦でアメリカは、自軍の戦果を過大放送している。
- ^ スプルーアンス個人は「空母を全滅させていたとしても、(大和以下の)戦艦群が突撃してきたら防げなかっただろう」と感想を残している[要出典]。レイテ沖海戦でもハルゼーがこれと同義の意見を残している。
- ^ 参考[ Why Japan Really Lost The War ]:国力とアメリカから見た危険な思想などの観点から、対応を予定していたのは対ドイツ戦で、対日戦は片手間に過ぎなかっただろうとする説もある。
- ^ 南雲が航空畑出身ではないことを真っ先に上げられがちだが、山口も、対比して上げられやすい小沢治三郎中将も、さらにはスプルーアンスも水雷出身(元巡洋艦部隊指揮官)であることを考慮すべきである。
- ^ 南雲機動部隊は今まで5~6隻の空母指揮をしていたが、今回は4隻しかなく、攻撃力では2/3に低下している。
[編集] 文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書ミッドウェー海戦』 朝雲出版社 昭和46年3月1日
- 淵田美津雄・奥宮正武 『ミッドウェー』 PHP研究所、PHP文庫、1999年07月01日、ISBN 4-569-57292-8
- P・フランク、J・D・ハリントン、(訳)谷浦英男『空母ヨークタウン』、朝日ソノラマ、1984年10月15日、ISBN 4-257-17048-4
- サミュエル・エリオット・モリソン・(訳)中野五郎「ミッドウェイ海戦」、筑摩書房、1966年11月25日(「真珠湾攻撃」「サイパン日記」と同時収録)
- 亀井宏 『ミッドウェイ戦記 さきもりの歌』、光人社NF文庫、ISBN 4769820741
- 澤地久枝
- 『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち文春文庫(全3巻)
- 『記録ミッドウェー海戦』、文藝春秋社、1986年5月
[編集] ミッドウェー海戦を扱った作品
- 映画
- 太平洋の鷲
- ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐
- ミッドウェイ
- 連合艦隊
- ゲーム
- 提督の決断
- 空母戦記
- アーケードゲーム
- シミュレーションゲーム(ボード)
- ミッドウェー(アバロンヒル社)
[編集] 関連項目
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