ニューギニア沖海戦
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ニューギニア沖海戦 | |||
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戦争: 太平洋戦争 | |||
年月日: 1942年2月20日 | |||
場所: ニューブリテン島ラバウル沖 | |||
結果: アメリカ軍の勝利 | |||
交戦勢力 | |||
日本軍 | アメリカ軍 | ||
指揮官 | |||
後藤英次中将 | ウィルソン・ブラウン中将 | ||
戦力 | |||
陸攻17 | 航空母艦1、重巡洋艦4、駆逐艦10 | ||
損害 | |||
陸攻15 | 航空母艦1に至近弾、戦闘機2 | ||
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ニューギニア沖海戦(ニューギニアおきかいせん)は太平洋戦争中の1942年2月に発生した日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦。日本軍攻撃機に損害が出た。
目次 |
[編集] 背景
オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルは、天然の泊地やオーストラリア軍が設営した飛行場を擁していた。日本軍は、トラック諸島根拠地の防衛と米豪遮断作戦の構想に基づき、ラバウルを奪取する必要性を見出していた。1942年1月20日から22日にかけて日本軍は4隻の大型空母をニューアイルランド島沖合の北東とビスマルク海に進出させ、21日にニューギニア島のラエ、サラモアを空襲した。この方面に連合軍は有力な基地航空隊を配していなかった。23日、日本軍はラバウルに上陸しこれを占領した。
アメリカ軍は真珠湾攻撃の影響から戦艦部隊の出撃は行えず、空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていた。日本軍のラバウル空襲を知らされたアメリカ海軍はこの方面へウィルソン・ブラウン海軍中将指揮の大型空母レキシントンを基幹とした機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲による占領の阻止を命じた。
[編集] 戦闘
2月20日午前、日本軍の哨戒中の九七式大艇がアメリカ艦隊を発見した。12時20分、日本軍はラバウルから第24航空戦隊の一式陸攻17機を発進させた。零戦の増槽や対艦攻撃用の魚雷は到着していなかったため、戦闘機の護衛はなく、武装も爆装のみであった。14時35分、第2中隊9機が攻撃を開始したが命中弾はなく、F4F戦闘機の迎撃と対空砲火で第2中隊は全滅した。15時、第1中隊8機が攻撃を開始した。レキシントンに至近弾が1発あったのみで、攻撃隊は4機を失った。さらに2機は不時着した。
[編集] 影響
アメリカ機動部隊は日本軍に発見され、燃料の消費も著しかったことから、作戦の継続を断念して引き返した。
日本軍の機動部隊は2月15日にパラオを出航して豪本土ポートダーウィン空襲に向かうためパンダ海にあり、すぐさま反撃できなかった。日本軍は空母1、艦型不詳1を撃沈したとし、この戦いをニューギニア沖海戦と呼称した。
[編集] 戦闘序列
[編集] 日本軍
基地航空機(在ラバウル)
- 第24航空戦隊 一式陸上攻撃機 17機
[編集] アメリカ軍
第11任務部隊
- 空母 レキシントン
- 重巡 インディアナポリス、サンフランシスコ、ミネアポリス、ペンサコラ
- 駆逐艦 ハル、エイルウィン、 バグレイ、ドライトン、パターソン、マクドナー、デウェイ、デラ、フェルプス、クラーク