ハナ肇とクレージーキャッツの映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クレージーキャッツ映画(-くれーじーきゃっつ-えいが)とは東宝及び渡辺プロダクションが1962年から72年にかけて製作した、植木等や谷啓などのクレージーキャッツのメンバーが主演した喜劇映画の総称である。さらに無責任シリーズ、日本一の男シリーズ、クレージーシリーズ、時代劇作品に分類される。全作品カラー、シネマスコープである。
目次 |
[編集] 誕生までの経緯
クレージーキャッツは1955年に結成後、メンバーの植木等がボーカルを務める『スーダラ節』や『こりゃシャクだった』が大ヒットを飛ばし、戦後復興期のサラリーマン群像を歌い上げるスターとして注目されており、コントにも歌にも絶妙の才能を発揮する彼らを映画に起用することは当時のメジャー5社(大映、東宝、松竹、東映、日活)にとっても最重要課題だった。結局、大映と東宝が最後まで残り、クレージーキャッツは大映を選んで弓削太郎監督による『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ』と枝川弘監督による『サラリーマンどんと節 気楽な稼業ときたもんだ』に出演したものの、軽快な歌に反してサラリーマン生活の悲哀をストレートに表現する二本の映画は大ヒットには結びつかなかった。
また、この二本の映画でクレージーキャッツの歌って踊れて演技もできるという魅力を存分に引き出せないことにジレンマを感じていた所属プロ・渡辺プロダクションの渡辺晋社長は、当時サラリーマン喜劇や歌謡映画でヒットを飛ばしていた東宝に話を持ちかけ、メンバーの中で一番のヒットメーカーである植木等を主演に据えた『ニッポン無責任時代』の製作にこぎつける。なぜ東宝でのクレージー映画第一作が『無責任』になったのかは諸説あるが、当時東宝企画部社員でシナリオを書いていた田波靖男本人の証言によると、クレージーものとは全然別にフランキー堺主演を想定して、サラリーマンとしてがんじがらめになっている現状を打破するキャラクターを描いた『無責任社員』というシナリオを会社に提出したが、企画が通らずに眠っていたところを、クレージーキャッツ主演の企画を探していた東宝のプロデューサー・安達英三朗の目に留まり、植木等主演でこれをやろうと決まったという。なお、映画クレジットでは松木ひろしとの共同作品になっているが、松木は最後に少し直しを入れた程度で、実質的には田波単独によるオリジナルシナリオである。
監督には、戦時中パレンバン上陸作戦で落下傘部隊として一番乗りした武勇談を持ち、戦後東宝に入社後も反骨精神で独自の世界を築き上げていた古澤憲吾が抜擢される。古澤は同じ撮影所で黒澤明の仕事を横目で見ながら「向うがクロサワなら俺はフルサワ」と豪語して、新人監督ながら妥協しない制作姿勢を貫く監督として知られていた。古澤はまだ新人ライターだった田波のシナリオを元に、旧来の道徳観念を笑い飛ばし、持ち前の調子の良さと明るさで戦後の世相をポジティブに乗り切っていくヒーロー・平均(たいらひとし)を作り上げていった。
主役を演じる植木等は、元々僧侶の家庭に育ち、主人公の無責任男とは正反対の人柄であり、当初この役に反発して、古澤宅に押しかけ降板を申し出ようとしたが、古澤のキャラクターにかける意気込みと、古澤が植木のまだ隠れている才能を見抜いていることに感服し、古澤に全てを任せようと決意したという。
『ニッポン無責任時代』は1962年7月29日に封切られ(併映作品は『喜劇 駅前温泉』)、ミュージカルありコメディありの作品はこの年の夏の興行収入トップに躍り出る大ヒット作となった。なお、完成作品を見た東宝の重役でプロデューサーの藤本真澄は、社長シリーズをはじめとするそれまでの東宝サラリーマン喜劇の登場人物とは正反対のキャラクターがのし上がるストーリーに激怒したが、ヒットしたため続編製作を決定したという。
1962年10月には人気テレビ番組の映画化『若い季節』が、古澤監督、植木出演で封切られ、こちらも当時の人気歌手を散りばめて「東宝ミュージカル」とでも呼ぶべき洗練された世界を描いた。この二本の作品により、植木等、クレージーキャッツ、古澤憲吾の名前は、従来あり得なかったお洒落でポップなタッチで現実を切り取る表現するスターとして認知されるようになり、日本一の男シリーズ、クレージーシリーズと映画の醍醐味を追求するシリーズ映画へと発展していくことになった。
[編集] 無責任シリーズ
無責任シリーズは植木等演じる正体不明の男が会社に入って出世する物語である。
- ニッポン無責任時代(1962年)
- ニッポン無責任野郎(1962年)
[編集] 日本一の男シリーズ
日本一の男シリーズはクレージーキャッツというよりむしろ植木等の映画であり、植木以外のメンバーはあまり出演していない。植木のキャラクターは無責任からモーレツ社員へと変化している。
- 日本一の色男(1963年)
- 日本一のホラ吹き男(1964年)
- 日本一のゴマすり男(1965年)
- 日本一のゴリガン男(1966年)
- 日本一の男の中の男(1967年)
- 日本一の裏切り男(1968年)
- 日本一の断絶男(1969年)
- 日本一のヤクザ男(1970年)
- 日本一のワルノリ男(1971年)
- 日本一のショック男(1972年)
[編集] 作戦シリーズ
作戦シリーズは7人のメンバー全員が協力する話である。谷啓主演作で他のメンバーが友情出演する『クレージーだよ奇想天外』もこのシリーズに含まれる。このシリーズは坪島孝がメイン監督を務めた。
- クレージー作戦 先手必勝(1963年)
- クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年)
- 香港クレージー作戦(1963年)
- 無責任遊侠伝(1964年)
- 大冒険(1965年)
- クレージーだよ奇想天外(1966年)
- クレージー大作戦(1966年)
- クレージーだよ天下無敵(1967年)
- クレージー黄金作戦(1967年)
- クレージーの怪盗ジバコ(1967年)
- クレージーメキシコ大作戦(1968年)
- クレージーのぶちゃむくれ大発見(1968年)
- クレージーの大爆発(1969年)
- だまされて貰います(1971年)
[編集] 時代劇作品
- ホラ吹き太閤記(1964年)
- 花のお江戸の無責任(1964年)
- クレージーの無責任清水港(1966年)
- クレージーの殴り込み清水港(1970年)
[編集] マドンナ
初期の代表的なマドンナは団令子である。もっとも多くの作品に出演したマドンナは浜美枝である。野川由美子も出演が多い。また、五社協定がゆるんだ結果として『日本一の男の中の男』では日活の浅丘ルリ子が出演している。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 映画関連のスタブ項目 | 日本の映画作品 | 東宝