藤本真澄
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藤本 真澄(ふじもと さねずみ、1910年7月15日 - 1979年5月2日)は、日本の映画プロデューサー。旅順生まれ。日本映画の黄金時代を支えた。
慶應義塾大学卒業後、明治製菓で宣伝の仕事をしていた。そこで明治製菓とタイアップしていた松竹蒲田撮影所に出入りして成瀬巳喜男や高峰秀子と知り合う。1936年、森岩雄に誘われて東宝の前身であるPCLに入社する。
初のプロデュース作品は、関連会社の南旺映画に出向して撮った1941年の『結婚の生態』(今井正監督)。
東宝争議を機に東宝を退社、独立プロ・「藤本プロクダクション」を設立して各社の製作を請け負う。1949年の『青い山脈』は大ヒットを記録した。
1951年、東宝に復帰。翌年の『三等重役』を契機としてサラリーマン喜劇を多く製作し、これが1956年からの『社長シリーズ』につながる。1955年に東宝の取締役となる。
1950年代の日本映画黄金時代では次々にヒット作を量産した。同じ東宝プロデューサーの田中友幸がアクション映画、特撮、時代劇などを得意としたのに対して、藤本は『社長シリーズ』などのサラリーマン喜劇、『若大将シリーズ』などの青春もの、成瀬巳喜男監督作品などの文芸作品を主として製作し、共にドル箱路線を確立したふたりは東宝映画の両輪として会社を支えた。稲垣浩監督『日本誕生』『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』、松林宗恵監督『世界大戦争』、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』など、東宝が社を挙げて大作映画を製作する時は、藤本と田中が共同でプロデュースに当たった。
予算や撮影日数をオーバーする監督を信用しないと著書で述べていて、1958年の黒澤明監督『隠し砦の三悪人』で大幅な予算・日数超過が出て以降、黒澤とは組まなかった。また、豊田四郎監督にも不信を抱いて、東宝の重役になってからは一度も一緒に仕事をしなかった。
生涯独身を通したが、寂しがり屋な性格で、藤本プロ以来の盟友でもある越路吹雪ら、気の合った仲間と毎晩飲み歩いていたという。
[編集] 主な製作映画
- 秀子の車掌さん(成瀬巳喜男監督、1941年)
- 蒼い山脈(今井正監督、1949年)
- 浮雲(成瀬巳喜男監督、1955年)
- 社長シリーズ(1956年-1970年)
- 流れる(成瀬巳喜男監督、1956年)
- 隠し砦の三悪人(黒澤明監督、1958年)
- 若い獣(石原慎太郎監督、1958年)
- お姐ちゃんシリーズ(1959年-1963年)
- 野獣死すべし(須川栄三監督、1959年)
- 私は貝になりたい(橋本忍監督、1959年)
- 日本誕生(稲垣浩監督、1959年)
- 大学の若大将(杉江敏男監督、1961年)
- 世界大戦争(松林宗恵監督、1961年)
- 五十万人の遺産(三船敏郎監督、1963年)
- 江分利満氏の優雅な生活(岡本喜八監督、1963年)
- 乱れる(成瀬巳喜男監督、1964年)
- 君も出世ができる(須川栄三監督、1964年)
- 海の若大将(古澤憲吾監督、1965年)
- 大冒険(クレージーキャッツ結成10周年記念、古澤憲吾監督、1965年)
- けものみち(須川栄三監督、1965年)
- エレキの若大将(岩内克己監督、1965年)
- アルプスの若大将(古澤憲吾監督、1966年)
- 日本のいちばん長い日(岡本喜八監督、1967年)
- 乱れ雲(成瀬巳喜男監督、1967年)
- 激動の昭和史 沖縄決戦(岡本喜八監督、1971年)
[編集] 関連項目
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