フルロ
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フルロ(FULRO, Front Unifie pour la Lutte des Races Opprimes, 被制圧民族闘争統一戦線)は、ベトナムの少数民族による反政府組織。1992年に解散している。
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[編集] 概説
ベトナムはキン族(京族)が人口の9割を超えるが、山間部や高原地帯にはジャライ族(Jarai)、エデ族(E De)など少数民族が多く暮らしている。フルロは、これら少数民族が集中している中部高原地方にて少数民族の自治運動として1964年に結成された。中部高原地方は、かつてチャンパ、ラオス、カンボジアなどが領有権(宗主権)を主張していた地域であったため、ベトナムに対する帰属意識は薄い傾向にあった。これがフルロの運動を盛り上げることになる。
[編集] 要求
フルロは、少数民族の権利として高度な自治権を有する連邦制の導入や土地所有権の承認、政治参加の機会拡大などを要求した。
[編集] 経緯
第二次世界大戦以降、独立を達成したベトナムは、近代国家建設のために国民の団結を目的として国内の少数民族に対して同化政策を推進していったが、少数民族の反発を招いてしまう。このため、少数民族出身の軍人や役人など有力者が集まり、自治権を要求していた。彼らは自治を認めない政府との軋轢を強め、やがて当時のベトナム労働党がこの争いに介入したことで、少数民族は民族自治区の設置を主張していたベトコン(南ベトナム解放民族戦線)へ参加することになる。
[編集] フルロの結成
しかし、ベトナム労働党の共産主義に反発した少数民族も存在した。その彼らがベトナム戦争中の1964年に結成したのがフルロである。その経緯からフルロは南ベトナム政府と民族的には対立しつつも、同時に当時の南ベトナム政府の反共という思想は共有していた。このため、南ベトナム政府はフルロとの妥協も模索しており、1968年2月、一時的な和解が成立している。しかし、一部の強硬派は和解を不服として武力闘争を継続したため、本格的な共同戦線が張られることはなかった。
[編集] ベトナム戦争の終結後
ベトナム戦争の終結後、南北統一されたベトナムでは期待されていた民族自治区の設置は無視され、逆に少数民族が暮らしていた地域に「新経済区」が設置され、ベトナムの大多数派であるキン族が大量に流入してきた。これはフルロだけでなく一般の少数民族の間にも反発が強まる結果となった。この不満は、フルロが政府に対して武力闘争を継続する基盤となった。
[編集] 衰退
統一が成され社会基盤を整えていくベトナム政府に対してフルロはやがて劣勢となっていき、カンボジア領のジャングルに拠点を移すことになる。
中ソ対立の影響もあってソ連と親しいベトナムは、親中派であるカンボジアのポル・ポト派(クメール・ルージュ)とも対立していた。一時、フルロはそのポル・ポト派との接触を図っていた。しかし1990年6月、東京での「カンボジア和平東京会議」及び1991年10月の「カンボジア和平パリ国際会議」によってカンボジア内戦が終結したことで、カンボジア側にとって「外国の武装勢力」であるフルロは国連暫定統治機構(UNTAC)によってベトナムに送還されることになる。一部はそれでもカンボジア内に潜伏し続けたが、カンボジアの特殊部隊に攻撃され続けた。
[編集] 解散
武力抵抗も困難になったフルロは結局、1992年10月10日、UNTACに武器を引き渡して投降した。これによってフルロは解散し、事実上の難民として約400人がアメリカに移住することになった。