反共主義
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反共主義(はんきょうしゅぎ)とは、共産主義に積極的に反対する立場や運動を指す。
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[編集] 方向性
反共主義は、右派・左派とは関係ないとされている。例えば、左派色が最も濃かったとされるニューディール期の民主党政権は外交では冷戦の口火を切り、朝鮮戦争・ベトナム戦争などを主導した。一方、特に右派とされる共和党政権は外交ではデタントを推進し、冷戦終結に関わった(現在も親中派には共和党政権の高官が多い)。このように反共主義は国内政治の左派・右派と全く関係はなく、この場合は外交におけるタカ派・ハト派である。
よく英語圏で左右両陣営から、共産主義がファシズムと一緒くたにされるのはアメリカの基準も影響しているが、左右関係なく発生した反ファシズムが反共主義と同様であることが大きく関係している。
又、「反共主義=財界」という見方があるが、冷戦構造が崩壊した現代では通用しなくなっている。中国の例を筆頭に、世界的に財界が共産主義勢力と利害を共有する例は珍しくなくなってきている。つまり、反共主義と財界の勢力は二通り存在するようになっており、「容共×反財界」勢力とは270°逆の側が財界であるのに対して、「容共×反財界」勢力とは270°逆の側が「反共×反財界」勢力に相当する。そして、「容共×財界」勢力(例:アーマンド・ハマー)は、「容共×反財界」勢力とは90°逆に当たる。
他にもプロレタリアートが反共主義を掲げる運動もあるが、多くの場合が社会主義・サンディカリズム・アナキズムといった左翼思想が根底にある。
[編集] 歴史上の変遷
[編集] 19世紀
反共主義の始まりは、俗説ではロシア革命の時と言われる。実際には産業革命の頃から既に始まっていた。
当初の反共主義勢力の目的は、高まる労働運動への破壊だった。19世紀半ばでは、イギリスを初めとする西欧では労資紛争が絶えず、ラッダイト運動が日常茶飯事の状態であった。
1871年(明治4年)には、世界初の労働者政権であるパリ・コミューンが成立した。この時、資本家を初めとする反動勢力はこれを潰そうと躍起になり、僅半年でパリ・コミューンを転覆した。
その後、共産主義勢力は、第二インターナショナル運動へと進んだ。それに対し、反共主義勢力は、ビスマルク政権の社会主義者鎮圧法(但し、ビスマルクは社会主義者のラッサールに政策に関して相談している)、山県有朋政権の治安警察法などのように、弾圧法で社会主義・共産主義運動を弾圧した。
[編集] 第二次大戦まで
1917年(大正6年)、ロシア革命の時期が、反共主義勢力の高揚期であった。チャーチルを初め反共主義勢力は労働者政権の再来と高揚を恐れた。「共産主義を赤子のうちに捻り潰せ」と大号令し、反革命戦争を主導した。
日本では、日本共産党が、労働者の解放のみならず、天皇制の廃止を掲げたために、当時の田中義一政権は三・一五事件や四・一六事件を主導し、徹底的に赤狩りを行った。その頃から猛威を揮った特高警察は、当初は共産党への弾圧を目的としていたが、次第に宗教界や言論界、反戦運動、戦時統制へ反対する人々にも弾圧を加えて行った。
又、1929年(昭和4年)を境に世界恐慌の時代に入ると、ナチズムや軍国主義が台頭し、共産主義を弾圧した。しかし、かつてこれらを主導した日本の近衛文麿首相は後に「国体の衣を着けたる共産主義」と率直且つ痛烈に総括している。実際にこういった集団には転向者、戦後は左翼とされるものが多かった。例えば、昭和研究会、革新官僚、満鉄調査部はその典型と言える。何もこれは日本に限らず、元社会党員で若い頃はカール・マルクスを「われわれ共通の永遠の教師」とまで称えたベニート・ムッソリーニだけでなく、アドルフ・ヒトラーも左翼活動の経験がある。国家社会主義ドイツ労働者党は左翼のプロパガンダや組織、人材の取り込みに積極的であった[1]。例えば、ナチス党歌の旗を高く揚げよは共産主義者のヴィリ・ブレーデルの詩の焼き直しであることが今日において判明している。理論面でも強い影響を受けており、ヒトラーは事実上マルクス経済学に基づいた経済観を著書で展開している[2]。ヨーゼフ・ゲッベルスは自らの日記でナチと共産主義者の同盟を主張し、ベルリン交通局のストライキでは独断で共産党と組んだことは有名である。そのため国家社会主義も共産主義と同類ではないかと指摘されている。このような指摘は後にハンナ・アーレントやアンドレ・グリュックスマンら哲学者からの考察や歴史学者などによって裏付けられた。現在では保守主義的な反共主義者の常識であり、アメリカなどではファシズムと共産主義を同列に扱う文章や発言は多く見られる。
日本の北一輝も単なる反共主義者とはいえず、二・二六事件の当事者の将校たちは、ボリシェヴィキの蜂起教範から多くを学んでいたことが指摘されている。戦前も戦後も日本は社会主義に対し曖昧な態度であったものの、近年の右傾化により、アメリカの研究が注目され、反共主義者が戦前も戦後も含めて批判する様になってきている。「日本は社会主義・共産主義国家」といった論調もその一例と言える。
[編集] 熱戦と冷戦
第二次世界大戦でナチズムや軍国主義が衰退すると、戦後の荒廃や混乱に乗じて東ヨーロッパ・中国・南米が共産主義化し資本主義国の政府は自国に革命が波及するのを恐れてアメリカ合衆国と同盟を結び、共産主義運動を弾圧する。
ロシア革命でも白軍を支援したチャーチルは、第二次世界大戦(熱戦)の終結後に「鉄のカーテン」演説を行い、1940年代のスターリンとトルーマンの霸権争い(冷戦)を形容した。
冷戦時代の反共主義勢力は、スターリン政権下のソ連の全体主義を持ち出して、労働運動を潰そうとする事が特徴である。下山事件に始まるレッドパージはその典型で、その後も反共主義勢力は、この手口で労働運動や社会主義運動の芽を潰していった。反共が積極的な意味での主義に発展した悪名高いマッカーシズムであった。
しかしマッカーシズムなど過剰な反共主義は本来共産主義とは無縁であった人々からの反感も招くこととなり、やがて衰退していった。やがて冷戦中に資本主義陣営の盟主となったアメリカ合衆国は反共主義を取る国ならば軍事政権でも支援するようになる。チリのピノチェト、韓国の朴正煕~全斗煥に対する援助はその代表的な例である。
日本も冷戦の最前線であり、連合軍進駐により共産主義運動が再建されるがやがて運動が過熱化・過激化するとアメリカは暴力団や右翼を使いこれを弾圧する。1951年の主権回復以降もこの方針は自民党などに受け継がれ、学生運動を排斥する伏線となる。
1970年代頃から共産主義国の実情が報道されてゆくに連れ、共産主義の理想に幻滅する人が増えやがて日本における共産主義運動はほとんどかつての勢いを失った。
[編集] 新自由主義
1980年頃、レーガンやサッチャーが政権をとると、新保守主義(ニューライト)が台頭する。彼らの特徴は、政治的・軍事的な反共政策より、経済的な反共政策(社会主義へは勿論、社会民主主義への攻撃でもある)を強めている点である。現在の反共主義は、経済的な反共主義(新自由主義)という様相が強い。
サッチャーに代表される新保守主義政治家は、労働運動の牙城となっていた多くの組織を解体・民営化し、社会保障や、労働者保護法制の撤廃を手掛け、労働者を擁護する多くの制度・思想を一掃した。
1989年(平成1年)、ベルリンの壁が民衆の手で破壊され、東欧で次々と東欧革命が起こると、西側諸国の反共主義勢力は、「共産主義(社会主義)は死んだ」とし、「自由主義・資本主義の勝利」を喧伝した。これに伴い、日本共産党などを例外として、西側諸国の共産主義勢力も衰退した。
しかし、資本主義の絶対化、価値観の単一化の進行は、世界中での大量失業や、社会の貧富の二分化(格差社会の出現)、社会の不安定化を是正せず、様々な問題をはらんでいる。
[編集] 代表的な反共主義者
[編集] 政治家(日本人の現役政治家を除く)
- ハリー・S・トルーマン
- バリー・ゴールドウォーター
- ジョン・F・ケネディ
- ジョージ・H・W・ブッシュ
- ロナルド・レーガン
- ネルソン・ロックフェラー
- ウィンストン・チャーチル
- マーガレット・サッチャー
- ヴァーツラフ・ハヴェル
- フランシスコ・フランコ
- レフ・ワレサ
- スハルト
- ゴ・ディン・ジエム
- グエン・バン・チュー
- ジョセフ・レイモンド・マッカーシー
[編集] 学者、ジャーナリスト
- フリードリヒ・ハイエク
- ウォルト・ロストウ
- ミルトン・フリードマン
- ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
- オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク
- フランシス・フクヤマ
- ズビグネフ・ブレジンスキー
- サミュエル・ハンチントン
- 田中耕太郎
- 鹿内信隆
- 藤岡信勝
- 渡部昇一
- 渡邉恒雄
- 竹村健一
- 篠沢秀夫
- 宮川隆義
- 花田紀凱
- 兵本達吉
- 櫻井よしこ
- 山岸章
- 落合信彦
[編集] 作家
[編集] 芸能人・スポーツ選手
[編集] 宗教家・その他
[編集] 関連項目
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