プロレスリングZERO-ONE
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プロレスリングZERO-ONE(ゼロワン)は、かつて存在した日本のプロレス団体。新日本プロレスで「闘魂三銃士」の一人として活躍した橋本真也が社長を務めた。略称はZERO-ONE。運営会社は有限会社ゼロ・ワン。ZERO-ONE側は明言していないが、提携していたNWAはNWAの日本支部として位置付けていた。
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[編集] 略史
旗揚げ戦は、2001年3月2日、両国国技館。その後、プロレスリング・ノアの協力、UFOの小川直也らの参戦なども有り、徐々に規模を拡大。2003年5月からは、テレビ東京が月に1回のペースで「破壊王プロレスZERO-ONE」と題して地上波放送を開始した。しかし2004年8月に橋本が左肩手術のため欠場すると主力外国人レスラーをFEGに引き抜かれるなどして興行不振に陥り、新日本プロレスとの対抗戦実現を巡って橋本と他選手・フロントとの意見対立も表面化。同年11月25日、橋本は記者会見を開いて活動停止を発表した。この時点で有限会社ゼロ・ワンが抱えていた負債は約1億円といわれる。
橋本を除く全選手は、大谷晋二郎と専務取締役・渉外部長の中村祥之を中心に株式会社ファースト・オン・ステージを設立。「ZERO1-MAX」の団体名の下に再出発している。
[編集] 設立の経緯
2000年4月7日、橋本は自らの引退をかけて小川との5度目のシングル戦に挑むも敗れ、公約通り引退した。しかしファンの強い慰留もあり、同年8月に撤回。10月9日の東京ドーム大会で復帰した。復帰後の橋本は他団体との対抗戦に意欲を燃やし、新日本プロレス内に独立ユニット「ZERO」の設立を表明した(当時橋本の後見人的立場をとっていた藤波辰巳が長州力ら当時の主流派に対抗する目的で設立を後押ししたという説もある)。しかしこの事は新日本プロレス上層部との対立を招き(当時の新日本プロレスが全日本プロレスとの交流を進めていたのに対し、橋本がプロレスリング・ノアとの対抗戦を望んでいた事が対立の主因とされる)、11月13日、新日本プロレスは橋本を解雇した。これを受けて橋本は翌2001年1月25日、大谷や中村、高岩竜一など、その趣旨に賛同して新日本プロレスを退社した選手・フロントスタッフとともにZERO-ONEを設立するに至った。
[編集] 団体の特色
ZERO-ONEは、知名度を誇る橋本の存在によりプロレスマスコミからは準メジャーと称されていたが、新日本、全日本、全日からレスラーが大量脱退し設立されたノア、といった、男子メジャー3団体の影に隠れた地味なマイナー団体ともいえた。が、橋本の三冠ヘビー級王座奪取、佐藤・横井組のアジアタッグ戴冠など団体の実績を着実に積み上げ、その小規模故の身軽さが幸いし、現在あるような、メジャー間での交流参戦や団体の看板を背負ったといえる試合が見られるきっかけを作った。それは、社長としてZERO-ONEを率いる橋本が、「闘魂三銃士」の中で初めて、馬場の愛弟子三沢光晴と戦ったところが大きいともいえ、また、大谷が創設したシングルトーナメント「火祭り」、2003年の新春第1戦として行われた、エンタテインメント要素を盛り込んだ「ZERO-ONE U$A」、巧みな外人レスラーの発掘能力、興行会社ステージア主催の「真撃」やDSE主催の「ハッスル」への全面協力など、独創性に富んだ興行を提供し続けていた。また、団体はZERO-ONEのファンの事をゼロチュー(ZERO-ONE中毒者の略)と呼称している。
[編集] 所属選手
MAX軍
ヤングMAX
空手軍団
その他