長州力
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長州力 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 長州力 |
本名 | 吉田光雄 (韓国名:郭光雄) |
ニックネーム | 革命戦士 |
身長 | 184cm |
体重 | 120kg |
誕生日 | 1951年12月3日 |
出身地 | 山口県周南市 |
所属 | リキプロ |
スポーツ歴 | アマチュアレスリング |
トレーナー | アントニオ猪木 |
デビュー | 1974年8月8日 |
長州 力(ちょうしゅう りき、昭和26年(1951年)12月3日 - )は、山口県徳山市(現:周南市)出身のプロレスラー。身長184cm、体重120kg。入場曲は平沢進作曲のオリジナルテーマ曲「パワーホール」。近年、長州小力の活躍で若い世代や、全くプロレスに興味のない人にもその名を知られることになった。ニックネームは「革命戦士」。最終学歴は専修大学卒業。海外遠征時のリングネームはリッキー・チョーシュー。
目次 |
[編集] 経歴
小学生の頃から柔道を習い、高校(山口県桜ヶ丘高校)からアマチュアレスリングに転向。ミュンヘンオリンピックには韓国代表として出場。専修大学出身。
同じオリンピック代表選手であったジャンボ鶴田をライバル視しており、スカウトにより大学卒業と同時に新日本プロレスに入門。デビューは日大講堂でのエル・グレコ戦。サソリ固めで勝利を飾る。デビュー時のリングネームは吉田光雄であったが、後に故郷の旧名である長州と力道山から長州力と、ファン公募によって改名。因みに出身地の徳山市は旧周防国(すおう)であるが、長門国(ながと)と合わせた2国を治めていたのが毛利家の長州藩であった。
テレビでの登場機会も多くタイトルマッチも多かった。チャンスを多くもらったのだが、長髪全盛の時代に角刈りでおなかも出ており、技も華やかさに欠け無骨なファイトだった長州はさっぱり人気が出ず、精悍で女性受けする藤波辰巳、木村健悟の後塵を拝す。坂口征二と共にNWA北米タッグのベルトを保持していたが単なる脇役という印象は拭い去れずにいた。同タイトルもアントニオ猪木の提唱するIWGP構想により返上となる。
視聴率20パーセントを超える新日ブームで沸く1982年に入ると、当時の体制に反旗を翻して、師と仰ぐマサ斎藤やキラー・カーンと共にまず「革命軍」を結成し新日体制に歯向う。更にタイガーマスクとの抗争で同じく新日軍を敵に回していた小林邦昭、そしてラッシャー木村との国際血盟軍を振り切る形で長州と活動を共にするアニマル浜口〔もともと長州と浜口は1979年のオールスター戦でタッグを組んだ縁があった。(その試合の対戦相手は共に全日本プロレスの大熊元司、グレート小鹿の極道コンビ)〕更に浜口と同じく国際血盟軍の寺西勇、そしてアマレス日本一の触れ込みで新日入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成する。(時折アメリカで活躍するタイガー戸口(キム・ドク)も維新軍に帯同し、特にキラー・カーンとタッグを組んだ)長州の師匠はマサ斎藤ではあるが、アメリカでのリングを主戦場としておりIWGPといったビッグマッチの時に来日する形で、(キラー・カーンも軍団一員だがアメリカでは”アンドレ・ザ・ジャイアントの脚を折った男”としてのビッグネームがありアメリカマットと行き来していた)通常は維新軍としてのメンバーは長州、浜口、谷津、寺西、小林の5人で活動し、長州が事実上の旗頭であった。
この維新軍団の結成は新間寿氏の仕掛けであったと言われるが、マスコミの取り上げもあって維新の志士を彷彿とさせる長髪にし日焼けしてイメージチェンジし、1981年末に全日本プロレスに転出したスタンハンセンのウエスタン・ラリアットを真似てリキ・ラリアットを頻繁に使うようになる。藤波辰巳との「名勝負数え歌」で一躍ブレイク。『革命戦士』のニックネームとともに時代の寵児となり、また短時間で勝負を付けるプロレス・スタイル「ハイスパート・レスリング」はプロレス界の主流となっていった。ブレイクの発端となった「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない!」という藤波のエリート街道に対する僻みとも思える発言(この発言はプロレス史に残るエポックメイキング的発言として今だ語り継がれる名言)だが、下積み期間の長い藤波に対して、長州はアマレスでオリンピック代表まで上り詰めた経緯から鳴り物入りで新日本プロレスに入団しているので、むしろエリートは長州の方であり、これは単なるギミックであったとも考えられる。
その後ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍団に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移すという、新日本プロレスに対し最初の造反を行う。UWFに続き、長州及び維新軍団にも去られた新日本は選手が不足し、窮余の策として若手を登用、これが後の闘魂三銃士の隆盛に繋がる。
全日本マットに「ハイスパート・レスリング」を持ち込むものの、当初、ジャイアント馬場からシャムネコのケンカと揶揄された。だが、結果はそれまでショー的要素の強いアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こす事となった。それは長州の全日本マット参戦前後のVTRを見ればスピードの違いがよくわかる。全日本では天龍源一郎や、同じくミュンヘン五輪出場のジャンボ鶴田と激闘を展開したものの、再び新日本プロレスに復帰。ドル箱カードを失った全日本は、天龍対鶴田へと軸を移すことになる。また、長州のスタイルに強い影響を受けた天龍は、長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築いた。
以後、1987年に新日本に出戻りし、ジャパンプロレス時代に1986年8月全日マットで謀反を起こしたキラー・カーン(余談だがこの時のテレビ実況の若林健治(日本テレビ)から「恩知らずのキラー・カーン」という名言が生まれた)、そしてプロレス引退をした(のちに復帰はするが)アニマル浜口、全日本にそのまま残った谷津嘉章(谷津はその後敵対していたジャンボ鶴田と”五輪コンビ”を結成し天龍源一郎とスタンハンセンの”龍艦砲”を相手に大活躍する)、寺西勇らを除き、マサ斎藤、小林邦昭と共にNOWリーダーとNEWリーダーの抗争でNEWリーダーの盟主となったスーパーストロングマシン、またマシンとともにレイジングスタッフとして新日ジュニア戦線で新日軍と袂を分っていた保永昇男、ヒロ斉藤、更に専修大学の後輩でデビュー戦でタイトル戴冠という華々しい活躍の馳浩、そしてジャパンプロレス入団の生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。(特に軍団名は無かったが、その軍団の当時のトレーニングジャージに背番号が入っていたのが印象的であった。ちなみにマサ斎藤:0、長州:1、マシン:2、小林:3、(欠):4、ヒロ斉藤:5、保永:6、佐々木:7、馳:8。尚、もう一人のブロンドアウトローズの後藤達俊はこの軍に入らず)
長州は1988年6月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、新日本マットの中心となる。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、UWFインターナショナルとの抗争を主導し(長州小力のモノマネで有名な「キレてないですよ」はこの頃の安生洋二戦後の囲み会見での発言。但し、実際の発言は「キレちゃいないよ」)、新日本プロレスに莫大な利益をもたらす。しかし、その後は愛弟子佐々木健介を当時さほど人気があるとは言えなく、試合作りも上手い方ではなかったにも関わらずチャンピオンに据えたり、大谷晋二郎を干す等の私情が目立つほか、サイパン合宿に代表される不明朗な経費処理に西村修などの一部新日選手に長州を嫌う傾向が出始める。
その後1997年に引退したものの、大仁田厚の参戦・挑発に乗る形で2000年7月に現役復帰した。その後、武藤敬司退団の責任を取らされる形で、痛烈な猪木、藤波批判と共に2度目の造反を行った上、2002年5月新日本プロレスを退社。盟友・永島勝司と共に有力タニマチであった福田政二を代表取締役として2003年3月WJプロレス(ファイティングオブワールドジャパン)を旗揚げしたものの、多数の「諸般の事情」(WJ自身、問題が生じた際にこの言葉で誤魔化すことが多々あった)により頓挫、ZERO-ONEとの対抗戦(アングルとして橋本真也が切り出した)に活路を見出そうとするも崩壊に至った。その後、ハッスルやインディー団体へ参戦を続け、2004年新日本に一時復帰。
2005年10月8日、サイモン猪木現新日本プロレス社長との会談で、リキプロに所属しつつ新日本プロレスの現場監督として復帰(ただし、新日本所属ではなく、あくまでリキプロ所属である)。このサイモンの独断により新日所属レスラーの意見は真っ二つに別れた。特に藤波は発表当初は歓迎をしていたものの、なぜかドーム興行終了後に態度を180度転換している。実際、現場監督に復帰後も現場責任者の平田淳嗣、副責任者の後藤達俊(のちに新日本を退団)を独断で解任したり、前日組まれていたカードを当日になって変更するなど一部の選手とは更なる軋轢を生んでいる。
佐々木健介、北斗晶夫妻と長州の間にはWJ時代に慢性的な経営難を打破すべく、健介自ら私財を放出した時の借金を一銭も返却していないことがプロレス雑誌の紙面にて北斗の口から明かされている。その後、WRESTLE-1 GP1回戦(健介勝利)での長州の無気力ファイトから断絶が決定的となった。
一貫してリキ・ラリアット、サソリ固め、バックドロップのみで試合を作るスタイルを通している為に、オールドファンの人気はあるが、新規ファンや若いファンを取り込めずにいる。WJ設立時にも長州対天龍源一郎で客が呼べると思っていた等、(WJのオープニングシリーズでは全6戦の全てを長州対天龍のシングルマッチといった馬鹿げたメイン・イベントというマッチメークを組んだのも嘲笑のネタになった。長州は顎が痛いと途中でボイコットした)時代錯誤なスタイルやマッチメークがWJ崩壊の遠因とも言われている。
一時代を築いたロックアップからの「ハイスパート・レスリング」も、現在では受けや相手の良さを引き出さないという理由により、大半のレスラーから否定されている。
常に自分が中心と思っているせいか、みちのくプロレス、KAIENTAI-DOJO、大阪プロレス、ビッグマウス・ラウドなど一般的にインディーと呼ばれるプロレス団体を見下しており、2006年1月の最後の東京ドーム大会でのマッチメークを「新日本対インディー」と呼んだことで他団体レスラー(特にビッグマウス・ラウド)から批判を受けた。因みにWJプロレス時期におけるインディー団体選手との絡みにより、現在ではかつてのようなインディー敵視は薄まっていった。
現在は新日本の現場監督と、元WJ所属の若手選手によるプロダクションリキプロで、選手会興行を単発で行っている。
[編集] 得意技
- サソリ固め
- デビュー戦から一貫して使用し続けているフィニッシュ・ホールド。時代と共に長州に対する評価は上下しているものの、ファイトスタイルが変化していないため説得力を保ち続けている。別名スコーピオン・デスロック。
- リキ・ラリアット
- スタン・ハンセンのウェスタン・ラリアットを受け続け、その威力を身をもって知った長州が自分の技にできないかと試行錯誤して習得した技。体格に優れたハンセン一人にしか使用できなかったラリアットをプロレス界に普及させた走りと言われている。
- 捻り式バックドロップ
- 長州のバックドロップはジャンボ鶴田で有名なテーズ式の”へそで投げるバックドロップ”と異なり、相手背後から若干横抱き気味に取り付き、捻りを加えた独特なものになっている。師であるマサ斎藤が同様のバックドロップを得意としていたことで習得した。(ちなみに、長州はやらないがマサ斎藤の場合はこの技を派生させたバックフリップ(最初の相手の背後での腕の組み方が異なる)も多用する)
- ストンピング
- グラウンド状態にある相手を片足で踏みつける技。プロレスではポピュラーな技の一つだが、長州のそれは踏みつける瞬間に大きくジャンプし、相手の名前を叫んだり、「立てコラ!」「来いコラ!」などと煽りを入れながら力強く踏みつけに行くため、たいへん迫力がある。スピード、タイミング、力強さ、どれをとっても他のレスラーの追随を許さず、本来つなぎ技であるストンピングで会場を沸かせる事が出来るのは長州ぐらいだろうと言われている。
- ジャーマン・スープレックス
- バックドロップを得意とする長州は、あまりこの技を使わないような印象があるが、大試合のここぞという時には使用している。1985年11月4日に大阪城ホールで行われ、プロレス大賞の年間最高試合賞(ベストバウト)を獲得したジャンボ鶴田戦でも、60分時間切れの寸前に奥の手としてこの技を使用した。本来この技は「プロレス技の芸術品」と呼ばれるほど美しさを伴うが、長州のジャーマンはブリッジがつま先立ちではなくベタ足のため、見た目は綺麗ではない。
- ヘッドロック
- 序盤戦ではこの技を使う事が非常に多い、腕が太いためにガッチリと決まる。
- 太鼓の乱れ打ち
- 維新軍時代に頻繁に使用した技。タッグ戦においてタッグパートナーと二人がかり(6人タッグ戦の際は三人がかり)で相手の背中を太鼓に見立て、両拳で叩きまくる。個人技ではないため、タッグ戦のみに使用される。初披露時は場内の失笑を買った、見た目がコミカルな技である。
- オクラホマ・スタンピード
- 全日本プロレス参戦時に使用した技。相手を投げ落とした後、長州自身も吹っ飛ぶほど勢いがある。別名アバランシュ・ホールド。
- エルボー
- 相手をロープに振り、返って来たところに肘打ちを見舞う。打った後に回転する。(この回転する光景は長州独特のもの)また、相手が腰を下ろしてる状態で、背後から胸元に肘を振り落とすこともある。リキ・ラリアット同様、ハンセンから習得した技である。
[編集] 長州力の物真似をする主な有名人
[編集] 歌
[編集] 名言
- 決して口がうまい方ではないが、「かませ犬」「キレてない」発言以外にもいろいろ名言を残している。
- 「俺達はロックで、あいつらはワルツ」(1984年、全日本プロレス参戦前に試合を視察した後、その印象を聞かれて)
- 「全日とはイデオロギーの闘いだ」(1985年の全日本参戦時の発言)
- 「俺達の時代だ!」
- 「藤波、前田、お前らは噛み付かないのか。俺たちがやるのは今しかないぞ」(1)
- 「(ターザン)山本、U(WF)を作ったのはお前だよ、Uはお前なんだよ」
- 「あいつらの墓に糞ぶっかけてやる」(1995年3月、UWFインターナショナルの宮戸優光らに対して)
- 「俺をキレさせたら大したもんだよ」(1995年9月、対UWFインターナショナルとの前哨戦後、安生洋二に対して)
- 「天下の長州力」(1997年の引退間際)
- 「それがお前のやり方か」(1999年1月4日、東京ドーム大会の乱闘で小川直也に対して)
- 「またぐなよ」(2000年、練習中に電流爆破を直訴しに来た大仁田厚に対して)
- 「きたか」(2002年、ホーク・ウォリアーがWJ旗上げを知り、ホーク軍団を引連れて参戦する申入があったことに対して)
- 「謝るとかそういうのは俺の中にはないんですよ。 再戦の約束もできない」(2003年天龍源一郎とのシングル6連戦を「アゴが痛い」との理由で一方的にキャンセル。プロレスマスコミのインタビューに対して)
- 「もうラックリしたいよ」(2003年、週刊プロレスとのインタビューにて。意味は不明)
- 名言ではないが、WJプロレス時代にZERO-ONE道場に殴りこんだ際、橋本真也と展開した「コラコラ問答」も有名。お互いが理論立てて言葉をつなげず、ひたすら「コラ」を十数回連発し、お互いの愛すべき不器用ぶりをさらけ出した。この殴りこみの際、「自分で吐いた唾を飲み込むなよ」の名言も発せられた。
(1)この言葉を皮切りにNOWリーダー(猪木、坂口、斎藤、星野勘太郎、藤原喜明。 (藤原は世代的にはNEWの方だがNOWの人員が足りず)ただイリミネ―ションマッチになると ディック・マードックや何故か、”超NEWリーダー”となる筈の新星、武藤敬司が入る) かたやNEWリーダー(長州、藤波、前田、木村健吾、スーパーストロングマシン) という図式に展開する。(1987年)
[編集] その他
- 入場曲「パワー・ホール」は、作曲者の平沢進がプロレスに全く興味が無く、長州力という人物に就いても全く知らなかった為、依頼を受けて「頭の中のプロレス会場のイメージだけで適当に作った」といわれる。その為、同じフレーズが延々と繰り返されるというやっつけ仕事な曲が出来上がった。しかしこれが却ってフレーズを印象的な存在とし、当時としては珍しいテクノ調の入場曲であった事も合わせて、長州の象徴としてファンの間で認知されている。また、作曲者クレジットは『異母犯抄』(異母犯妙の誤植、いぼはんみょう)という変名を用いている。
- 長州といえば長髪が特徴であったが、過去に3度短髪にしている(1993年7月、アキレス腱断裂・入院、復帰の際。1995年6月、越中とのタッグマッチに敗れ、リング上で自ら長髪を切る。1998年1月、引退後。)。その他、1997年に何度か髪を切っているが、目立った部分は上記の通りである。現在も長髪は維持しているが、全盛期程の長さはなく襟足が肩に乗る程度である。また白髪染めの影響か、近年はかなりの茶髪になっており、髪質もストレートからパーマになっている。
- マスコミ嫌いで有名であり、かつては金澤克彦の様な御用マスコミ以外の取材を拒否する姿勢であったが、WJ崩壊の際に逆にマスコミから無視された事もあって、この点は多少改善している模様である。又、冗談の通じない性格なのでテレビの露出は極めて少なくバラエティ番組等はもっての他だったが、「草野☆キッド」で長州小力と競演した頃から、バラエティへの出演が多少見られる様になった。また「ふんころがしの旅」(日本テレビ)では長州小力との旅行も実現している。
- 人気が最高潮である1985年12月には、さだまさしの「セイヤング」(文化放送)にゲスト出演。最後にさだ側から腕相撲をやりたいと要望があり、さだは両手で挑んだが当然負けた。
- 2006年に「ズバリ言うわよ!」の新春スペシャルにゲスト出演した際には「子供達の会話に入っていけない」等3人の娘を持つ父親としての悩みを打ち明け、細木数子と他の出演者からどう接すれば良いか助言を貰っていた。なお、この放送の時、有田哲平は長州の出演で興奮気味で、本人の前で物真似も披露した。(この番組で朝青龍とも共演)
- エステー化学の看板商品である消臭力の命名の由来とも言われている。WJプロレス時代にバックステージで天龍源一郎に「臭ぇよ、消臭力(長州力)!!」と、消臭力をかけられた事があった。
- 以前、岩手県内の某パチンコ店のコマーシャルに出演していた。内容は長州の練習姿を数種類映した後、山盛りのパチンコ玉の前で箸を持った長州が「こんなん食えねーよ!」と吠える、という内容。あまりのシュールさに岩手のプロレスファンの心に深く刻まれている。
- 他にCMとして日本ヴェルテック(関西地区のみ)の出演がある。
- 最近では試合中に「長州小力に動きが似てる」という理由で笑いを取る事もある。
- 80年代の「かませ犬」発言以降の長州の人気は凄まじく、当時17:30から18:30の放送枠だった全日本プロレス中継を19:00放送のゴールデンタイムに復活させた(ゴールデンタイム移行後も、高視聴率を出すのは長州がメインイベントの放送だった)。また、TBSでは長州を扱った1時間の特集番組(1984年12月)が組まれるほどであった。(その番組内で、当時専修大学のレスリング部監督であった松浪健四郎(現・参議院議員)がコメントをした。
- リコーエレメックスが1987年に発売したファミコン用ゲーム「新人類」の主人公は、あるアイテムを取得すると長州力に変身し、リキラリアットで敵を攻撃する。
- プロレスラー特有の身長のサバ読みから、インターネットの掲示板の一部では「御小」と呼ばれている。
- さんまのまんまに出演した際、「自分はタイトルをとってもなかなか防衛することが出来なかった」と話した折に明石家さんまから「あんた、弱いんだ?」とあっさり言われて苦笑した。また「話が舌足らずで聴きづらい」というさんまに対し「自分ではそう思ってないが、人にはよく言われる」と答えている。
- 在日韓国人2世で、本名は郭光雄(クァク・クァンウン、곽광웅)。通名は吉田光雄(よしだ みつお)である。