マーハン・カリミ・ナセリ
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メフラーン・キャリーミー・ナーセリー (ペルシア語: مهران کریمی ناصری ; Mehrān Karīmī Nāṣerī )は、1988年8月8日以来フランスのシャルル・ド・ゴール空港の出発ロビーで生活をしていることで知られる、イラン国籍の難民。サー・アルフレッド・マーハン ( Sir Alfred Merhan )とも称される。マーハン・カリミ・ナセリ ( Merhan Karimi Nasseri ) 、マーハン・カリミ・ナゼリ、アルフレッド・マーハン、アルフレッド・メーラン ( Alfred Mehran ) 、アルフレッド・メヘラン、などとも表記される。
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[編集] 半生
メフラーン・ナーセリーは1942年、イランの南西フーゼスターン州のマスジェデ・ソレイマーンで、アングロ・ペルシアン石油会社に勤めるイラン人の医師の子として誕生した。ナーセリーによると自身の母はイングランド出身の看護婦であったと述べているが、家族はこれに異議を唱えている。1973年9月にイギリスへと留学しその後3年間ブラッドフォード大学でユーゴスラビアに関する勉学を修めた。
1974年3月にナーセリーは、イラン・パフラヴィー朝のシャー・モハンマド・レザー・パフラヴィーの統治に対する反対運動に参加した。1975年8月7日にイランに帰国した彼は、メヘラーバード国際空港でイランの秘密警察サバク(SAVAK)に拘束され、エヴィーン刑務所に収容された。国外追放に処せられるまでの4ヶ月間に彼は拷問を受けたとされる。
ヨーロッパへと戻った彼はベルギー・西ドイツの各政府に対し政治亡命の申請を行なったが、いずれも却下された。1978年にはフランスにおいて同様の申請が却下され、抗告も受け付けられなかった。イギリスへ向かおうとしたナーセリーはヒースロー空港で入国を拒否された。西ドイツにも入国できなくなった彼はベルギーへと向かった。
1980年10月7日にナーセリーは、在ベルギー国連高等難民弁務官事務所により難民として認められた。ナーセリーはその後1986年までベルギーで生活したが、イギリスへの移住を決意してベルギーを離れた。旅の途中シャルル・ド・ゴール空港に向かうRERの駅で彼のショルダーバッグが盗難にあった。ヒースロー行きの航空機には乗ることができたものの、ヒースロー空港で自身の身分を証明する書類がなかったため、係員は入国を拒否しナセリはシャルル・ド・ゴール空港へと引き返した。フランスの役人に対しても難民としての身分証明を行うことができなくなった彼はシャルル・ド・ゴール空港の待合ゾーン (Zone d'attente) へと移動した。
彼の困難な状況は弁護士クリスチャン・ブーゲの知るところとなった。訴えによって1992年にフランスの裁判所は、ナーセリーが合法に入国した以上フランス政府にはナーセリーを国外に追放することはできない、との決定を下した。しかしナーセリーには難民としての身分と通過ビザが与えられなかったため、彼自身は空港ターミナルビルの中で宙に浮いたままとなった。
ブーゲらは現在ベルギー政府に対し、ナーセリーの難民としての身分証明書を再発行するよう求めている。ベルギー政府の難民担当部署はこれを拒否し、ナーセリーが過去に身分証明書を発効された本人であると確認する為に、当人がベルギーの役所に出頭する必要がある、としている。ベルギーの法律によると、自発的にベルギーを離れた難民には再入国が許可されないとあり、ベルギー政府はナーセリーの入国を拒否していた。1995年にベルギーは態度を和らげ、ナーセリーがソーシャルワーカーの監視のもとベルギーで生活することに賛同するならば、身分証明の発行を認める、と伝えてきた。ナーセリーはベルギーで生活することを受け入れておらず、状況は変化していない。彼自身は、イギリスでの生活を望んでいる。
1999年にフランス政府はナーセリーに対し居住許可および難民用パスポートを交付し、フランスで生活することを認めた。しかしナーセリーは、文書において自身の個人情報が正確に記されていないことに憤慨し、サインを拒否した。この頃からナーセリーは、自身はイラン人ではない、ペルシア語も話せない、と述べるようになるなど精神的に問題を抱えるようになったと見られる。イギリスの役所からサー…(サーは一般的な敬称としても用いられる)で始まる書類を受け取っていた彼は自身の名をサー・アルフレッドと呼ぶようになった。
数年間が経つとナーセリーは空港での生活に順応するようになった。ナーセリーは毎朝5時(早朝便が到着する時刻)に空港のトイレで髪を洗い、身だしなみを整えている。空港の職員は時折彼の衣服の洗濯を行っており、ナーセリーのためにソファーも用意された。ナーセリーの日中はラジオを聴くこと、読書、日記を書くことに費やされる。日記は後にアンドリュー・ドンキンにより編集され自伝として出版された。この自伝はイギリス、ドイツ、ポーランド、日本などで出版されている。
[編集] 映画化
ナーセリーを巡る逸話は1993年にフランスにおいて、ジャン・ロシュフォール主演の『パリ空港の人々』 'Tombés du ciel' として映画化された。ノンフィクション作家マイケル・パタニティは 'The Fifteen-Year Layover' という短編でナーセリーを描いている。
2004年の映画『ターミナル』は、ナーセリーの物語がもとになっている、とされる。しかし、DVDや公式ウェブサイトにはナーセリーの名は登場しない。DVDにはこの映画は一見信じがたい物語であると書かれており、脚本家の創作であると示唆されている。
公式の宣伝とは異なり、ガーディアン紙はスティーヴン・スピルバーグ率いるドリームワークスがナーセリーに映画化権料として25万ドルを支払ったと報道した。2004年にはナーセリーがこの映画のポスターを持っており、映画のことを語っていたとされる。実際に彼が映画を見る機会は訪れそうにない。ナーセリーは次のように語っている:「そう、映画のせいで僕のアメリカへの関心は強まっているよ。いいことだろ。」
[編集] 現在の状況
映画におけるトム・ハンクスの役柄とは異なり、少なくとも1994年以降のナーセリーはデューティー・フリー区域では生活しておらず、出発ロビーのある建物のブティック&レストラン区域で一日を過ごしている。一見して話し好きであるようには見えず、生活用具をつめたカートとバッグを側に置いているために、身なりの悪い旅行者かホームレスのようにみえる。
映画化によってもナーセリーの生活には大きな変化は訪れていない。2005年12月31日の時点でも彼は、16年間暮らした空港ロビーで生活を続けている。
[編集] 訪問方法
シャルル・ド・ゴール空港を利用する際にサー・アルフレッドを訪問するには、まず1番ターミナルへと向かわなければならない。ナーセリーは、ターミナルビルの内庭に面したガラス窓沿いのソファーに座っている。チェックイン・フロアからトランジット・フロアへと向かう旅行客は皆、彼の姿を見かけることができる。到着便で降り立った者はトランジット・フロアから階上の荷物受け取りフロアへと向かう途中で、彼を見かけることになる。
1番ターミナル以外からは無料の1番シャトルバスを利用することでターミナルに到着できる。シャトルでの往復には20分程度の時間が必要となるため注意が必要である。
[編集] 著書
- サー・アルフレッド・メヘラン、アンドリュー・ドンキン・著 最所篤子・訳 『ターミナルマン -- 空港に16年間住みついた男』 バジリコ 2005年8月 ISBN 4-901784-71-4
[編集] 外部リンク
- Article on snopes.com
- "Has a guy been stuck in the Paris airport since 1988 for lack of the right papers?" - The Straight Dope, August 20, 1999
- Article by Paul Berczeller about Nasseri and the film in the The Guardian.
- あなたの知らない奇人10傑 (2SPARE.COMの記事・他にも又吉イエスなどが紹介されている)
- 16年間、空港で生活する男 フランス 2004年08月10日
- 16年間、空港で暮らす男がついに搭乗ゲートへ - 視察番外編 2004年11月20日