ミェチスワフ・ホルショフスキ
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ミェチスワフ・ホルショフスキ (Mieczysław Horszowski, 1892年6月23日 - 1993年5月22日)はポーランド出身のピアノ奏者(ミエチスラフ・ホルショフスキとも)。98歳まで公開演奏会で聴衆を魅了した伝説的な長寿ピアニスト。
目次 |
[編集] 演奏スタイル
晩年のバッハ、モーツァルトやショパンにおける情味深い演奏での評価が特に高い。特にショパンについては、自身がポーランド出身である上にショパン直系の弟子筋に当たる。高齢での演奏であっても決して枯れたものではなく、むしろみずみずしいところも特徴である。一方でシマノフスキ、ヴィラ=ロボスなども好んで演奏した。
[編集] 略歴
- ポーランドのリヴォフに生まれる。母親はショパンの直弟子カール・ミクリに学んだピアニストであり、その母から直接ピアノの手ほどきを受けた。
- 4歳の頃からすでに神童と呼ばれ、1899年ウィーンに移り住んで名教師レシェティツキの指導を受け、この年にはヨーロッパ各地で演奏旅行を行う。
- 1909年、パリの大学コレージュ・ド・フランスで哲学を学ぶため演奏活動を2年間中断する。ベルグソンの講義を聞くためだったと言う。
- 1914年、第一次世界大戦の影響でミラノに移り住み、トスカニーニと知り合う。
- 1940年、第二次世界大戦中にアメリカに移住。
- 1942年以降フィラデルフィアのカーティス音楽院で後進の指導に当たった。ここでの門人にリチャード・グード、ピーター・ゼルキンらがいる。
- カザルス(チェロ奏者)の伴奏者としても知られ、ケネディ大統領に招待されたホワイトハウスコンサート(CBSから録音が発売されている)の際にも彼の伴奏を担当している。フランスのプラドで開催されたカザルス音楽祭にも常連として参加した。他にシゲティやブダペスト弦楽四重奏団との共演による録音も多い。しかし1960年前後からは録音が減り、表舞台から忘れ去られる。
- 1963年から、ルドルフ・ゼルキンの誘いでマルボロ音楽祭に参加。この地でマレイ・ペライアを教えた。
- 1981年ピアノ奏者のベアトリーチェ・コスタと結婚する。
- 1983年、91歳のときに、ペライアの招きによりオールドバラ音楽祭に出演したことが契機となって大評判を呼び、「ホルショフスキ・ルネッサンス」が起こる。
- 1987年、95歳のときに初来日し、盟友の名を冠した東京のカザルスホールの落成記念のため、12月9日と11日の2日間に渡ってリサイタルを開き聴衆を魅了した。この頃、いくつかのスタジオ録音を残している。
- 1991年10月31日生前最後の演奏会を開く。
- 1992年3月6日カーネギーホールで予定されていた100歳記念演奏会は直前でキャンセルされた。
- 1993年5月22日心臓麻痺のためフィラデルフィアの自宅にて他界。
[編集] 文献
- 本多勉 『百歳のピアニスト ホルショフスキー』新風舍、1992年9月、ISBN 4883060772
[編集] 外部リンク
Mieczyslaw Horszowski Solo Repertoire (英語)ホルショフスキ夫人がまとめた資料。
カテゴリ: クラシック音楽関連のスタブ | ポーランドのピアニスト | 1892年生 | 1993年没