ヨッヘン・リント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1964 - 1970 |
所属チーム | ブラバム, クーパー,ロータス |
出走回数 | 60 |
タイトル | 1 (1970) |
優勝回数 | 6 |
通算獲得ポイント | 109 |
表彰台(3位以内)回数 | 13 |
ポールポジション | 10 |
ファステストラップ | 3 |
F1デビュー戦 | 1964年オーストリアGP |
初勝利 | 1969年アメリカGP |
最終勝利 | 1970年ドイツGP |
最終戦 | 1970年オーストリアGP |
ヨッヘン・リント(Karl Jochen Rindt:1942年4月18日 - 1970年9月5日)はドイツ生まれオーストリア国籍のF1ドライバーである。1970年のイタリアGPでの事故で死亡したが同年のドライバーズチャンピオンとなった。2007年現在、F1でのドライバーズチャンピオンを死後追贈されたのはリントのみである。
激しい攻めの走りと圧倒的なスピードを見せる、ファイタータイプのドライバーとして知られた。走りのスタイルや強面の容貌とは対照的に、実像は物静かで知的な人物だったと評されており、単なる「走り屋」タイプとは一線を画していたと言われる。
目次 |
[編集] プロフィール
F2で活躍した後、1964年に地元の第7戦オーストリアGPでブラバムからF1にスポット参戦。翌1965年からはクーパーで本格デビューを果たした。また、この年はフェラーリを駆り、1965年のル・マン24時間レースで優勝している。F1ではその後1967年までクーパーに、1968年には再びブラバムに所属。そこではあまり目覚しい成績を残すことは出来なかったが、1969年にチーム・ロータスに移籍するとその才能を開花させ、最終戦アメリカGPではF1初勝利をあげた。
[編集] 1970年
そして迎えた1970年シーズン。この年のロータスの新車72は、車体全体をくさび形に造形し、ラジエーターを車体前部からサイドに持ってくるなど、革新的な要素をふんだんに盛り込んでおり、オーナー兼デザイナーであるコーリン・チャップマンの自信作であった。リントは第3戦モナコGPで歴史に残る大逆転劇を見せ(この時は旧型のロータス49で出走)、シーズン初勝利を記録。続く第4戦ベルギーGPではリタイヤに終わったが、その後は親友だったピアス・カレッジの事故死を乗り越え、第5戦オランダGPから第8戦ドイツGPまで4連勝を記録した。
この時点で計5勝を上げたリントはランキングで2位以下を大きく引き離し、トップに位置していた。モンツァ・サーキットで行われる第10戦イタリアGPを迎えた時点では、残りのレースのどれかで優勝すればチャンピオンが決定するという状況だった。しかし9月5日の予選中、高速コースのモンツァでストレートでのスピードを上げるために前後のウィングを外していたリントのロータス72は、最終コーナー「パラボリカ」でコントロールを失って大クラッシュ。マシンは両足が見えるほどに大破し、リントは事故死した。
その後、大きくポイントでリードしていたリントを上回る者が現れないままシーズンが終了。その年のドライバーズチャンピオンを誰にするか議論となったが(死者にタイトルを与えることに否定論もあった)、結局ポイントリーダーであるリントをチャンピオンとすることになった(ジャッキー・イクスは非公式に、意図してチャンピオンにならなかったと取れる発言もしている)。加えてロータスチームに抜擢された新人エマーソン・フィッティパルディが、リントの死後に予想外の好成績を挙げ、ライバルのポイント加算を妨げたのも亡きリントへの援護になった。
[編集] 事故の原因
事故の原因は、ロータス72の特徴だったインボード式ブレーキのトルクロッド(制動力を車輪に伝達する棒)が折損したためと言われており、リントの運転ミスではないと見る向きが多い。むしろリントはマシンの問題点に気がついており、性能と危険性の狭間で苦悩していた可能性が高いようである。マシンはパラボリカへのブレーキングで急激に左へ転回し、ほとんど最高速を保ったままコース外側の壁に激突してしいるが、これは右側のフロントブレーキが全く効かなくなった(トルクロッドが折れた)結果だと見る向きが多い。
リントは、身体が前方へ移動するのを防ぐベルト(股の間に装着する)の付け心地を嫌っており、事故の際にも着けていなかったと言われている。そのため事故の衝撃で身体が車体前方へと一気に潜り込み(サブマリン現象)、腰の部分にあるシートベルトのバックルが喉の位置まで来てしまった。バックルは金属製のため喉が切り裂かれてしまい、これが致命傷になったという。また、車体前部がもぎ取られた為、潜り込んだ足が外部(前部)に露出する結果となった。この模様は映像として記録されており、事故の悲惨さを現在に伝えている。
この時期は、1968年のジム・クラークの死亡事故などをきっかけに、フォーミュラカーにシートベルト装着が義務づけられたばかりで、リントはそれ以前までずっとベルトなしで走っていた為、ベルトで束縛されるのを嫌っていたという。リントのチームメイトだったジョン・マイルズは事故の原因を知っていたようで(リントの事故の前に同様のブレーキトラブルに見舞われている)、リントの事故後にロータスチームを去っている。
また、当時のロータスには「速いが危険なマシン」を作るという噂が根強くあり、軽量化を優先するあまり各部の強度が足りない、あるいは信頼性に疑問のある新奇な機構を安易に採用する、などとよく言われていた。リント自身も移籍が決まった際には「これで僕は事故死するか、チャンピオンになるかのどちらかだ」と冗談を飛ばしていたが、結果的には史上唯一、チャンピオン決定時に生存していなかったドライバーとなることを示す発言となった。
リントはロータスの総帥コーリン・チャップマンに対し「次のレースまでに僕の身体を減量してくるので、その分だけ車体を補強しておいてほしい」と要請したが、チャップマンはそれに応えず、相変わらずギリギリの強度のマシンでレースに臨まなければならなかったという逸話もある。一説には、事故で瀕死の状態のリントと病院に向かう際、チャップマンが「次のドライバーは誰にしようか」とつぶやいたという話もあり、チャップマンが人命を軽視していたのではという話も存在する。
リントのライバルだったジャッキー・スチュワートは、自分が乗る予定のマシン(ロータスではない)がインボードブレーキ方式だと知って、「ブレーキの設計を変更しない限り、このマシンには乗らない」と宣言したことがある。これをもって、スチュワートもリント事故死の原因を知っていた、と見る向きもある。
インボードブレーキはサスペンションのバネ下を軽くする(=サスの作動性がよくなる)のに役立つため、ロータス72以前のレーシングカーや市販乗用車でも採用例がある。トルクロッドの強度などが確保されていれば、インボードだから即危険というものではない。ただしレーシングカーでは危険のない範囲内でギリギリまで強度を落とすのが常道で(より軽くなるため)、これがリント事故死につながったと言われる。リントの事故のあと、ロータス72のトルクロッドはより太いものに変更されたと言われる。またロータス72がインボードブレーキを採用した理由は、ブレーキの熱がタイヤに悪影響を与えるのを防ぐという意味もあったと言われている。
[編集] 経歴年表
- 1964年 F1参戦(チーム:ブラバム)(マシン:ブラバムBT11 BRM) 第7戦オーストリアGPに参戦(リタイア)
- 1965年 F1(チーム:クーパー)(マシン:クーパーT73 & T77 クライマックス) 最高位4位 シリーズ総合13位
- 1966年 F1(チーム:クーパー)(マシン:クーパーT81 マセラティ) 最高位2位 シリーズ総合3位
- 1967年 F1(チーム:クーパー)(マシン:クーパーT81 & T81B & T86 マセラティ) 最高位4位 シリーズ総合11位
- 1968年 F1(チーム:ブラバム)(マシン:ブラバムBT24 & BT26 レプコ) 最高位3位 PP2回 シリーズ総合12位
- 1969年 F1(チーム:ロータス)(マシン:ロータス49B フォード) 優勝1回 PP5回 FL2回 シリーズ総合4位
- 1970年 F1(チーム:ロータス)(マシン:ロータス49C & 72 & 72C フォード) 優勝5回 PP3回 FL1回 ワールドチャンピオン