ブラバム
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参戦年度 | 1962 - 1987 , 1989 - 1992 |
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出走回数 | 394 |
コンストラクターズタイトル | 2 (1966, 1967) |
ドライバーズタイトル | 4 (1966, 1967, 1981, 1983) |
優勝回数 | 35 |
通算獲得ポイント | 864 |
表彰台(3位以内)回数 | 124 |
ポールポジション | 39 |
ファステストラップ | 40 |
F1デビュー戦 | 1962年ドイツGP |
初勝利 | 1964年フランスGP |
最終勝利 | 1985年フランスGP |
最終戦 | 1992年ハンガリーGP |
ブラバム(BRABHAM)は、1962年から1992年まで存在した、F1を中心に活動していたレーシングチーム・コンストラクターである。フェラーリやロータス同様、名門チームに数えられている。
正式名称はMotor Racing Development Ltd.だが、一般には「ブラバム」として知られている。マシンのシャーシ名に付けられていたBTは、チーム創設者であるブラバムとトーラナックの頭文字から取られたものである。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 設立・第1次黄金期
1959年・1960年とチャンピオンに輝いたジャック・ブラバムがクーパーから独立。1962年にマネージャー兼マシンデザイナーのロン・トーラナックとチームを創設し、ドイツGPでデビュー。参戦3年目の1964年、ダン・ガーニーがフランスGPにおいて、チームに初優勝をもたらした。
1966年はレギュレーションの変更により、エンジン排気量の制限が1.5リッターから3リッターになる。多くのチームが苦戦する中、ブラバムは信頼性の高いレプコエンジンを選択し大当たり。ジャック・ブラバムが4勝を挙げ、自身3度目のチャンピオンに輝く。自身の設立したチームでチャンピオンに輝いたのは、これが初めてであり、2005年現在唯一でもある。翌1967年、今度はチームメイトのデニス・ハルムがチャンピオンに輝く。どちらの年もコンストラクターズチャンプを獲得しており、2年連続の2冠を達成することとなった。
また、この時期ブラバムはF1以外のカテゴリーでも活躍していた。当時F1と掛け持ちで参戦するドライバーが多数を占めたF2においても、1966年にホンダエンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた(最終戦については、業界内での余計な軋轢を避けるためにわざと勝たなかったとの説もある)。
[編集] 新体制
ジャック・ブラバムは1970年に引退し、トーラナックにチームを任せ帰国するが、すぐにバーニー・エクレストンがチームを乗っ取り、新オーナーとなる。チーフデザイナー、ゴードン・マレーの個性的なマシンが徐々に戦闘力を発揮し、1975年にはカルロス・ロイテマンとカルロス・パーチェの南米コンビで、フェラーリに次ぐコンストラクターズ2位に浮上した(ロイテマンは1972年にデビュー戦でポールポジションを獲得している)。
しかし、1976年からスイッチしたアルファ・ロメオエンジンの過大な燃料消費等に悩まされ、成績はしばし低迷する。1978年には前年度のチャンピオンニキ・ラウダを迎え、ファン・カーとして知られるBT46Bで勝利を挙げたものの、1戦のみで使用禁止となった。
[編集] 第2次黄金期
1979年、シーズン終盤にラウダが引退したことを受け、新加入のネルソン・ピケがエースに昇格する。またエンジンもアルファ・ロメオを諦め、フォード・コスワース・DFVエンジンに戻った。ピケは翌1980年のドイツGPで初優勝を挙げると一気に才能を開花させ、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを繰り広げた。この年はランキング2位に終わったが、翌1981年はロイテマンを破って初のシリーズチャンピオンに輝いている。
1982年からは、BMWのターボエンジンの供給を受ける。この年は初期不良に苦しんだが、1983年にはピケがアラン・プロストを下して再びチャンピオンとなり、ブラバムで2度王座に着いた唯一のドライバーとなった。
[編集] 再び低迷、そして消滅へ…
その後は熾烈なターボ開発競争の中、予選こそ好走するものの、レースでは勝利に届かない状況となる。1986年には挽回を期し、BMWエンジンを傾けて搭載することで重心の低下及び空力の向上を狙ったBT55が登場するが、当時としては革新的過ぎるコンセプトゆえにマシンの熟成に苦しむ(結局このコンセプトは、ゴードン・マレーがマクラーレンへ移籍後1988年にデザインしたMP4/4によって、高いレベルで実現されることになる)。中盤にはピケの後任エリオ・デ・アリジェリスがテスト中に事故死し、悲劇のマシンになってしまった。
その後、エクレストンはFOCA会長職に専念し、マレーの離脱でチームは弱体化する。1987年はアンドレア・デ・チェザリスやリカルド・パトレーゼの活躍もあり中段で数回入賞するなどまずまずの成績を収めたものの、1988年は資金難で1年間活動を休止し、チームは新オーナー、ヨアキム・ルーティーの手に渡る。
1989年にはF1に復帰し、非力なジャッドエンジンを搭載するものの、マシンバランスが良かったことにも助けられ予備予選組ながらモナコGPで3位表彰台を獲得。しかし、ルーティーが脱税容疑で逮捕され、チームは存続の危機に陥る。
1990年より、日本人実業家の中内康児率いるミドルブリッジレーシングが運営に当たり、創始者の三男デビッド・ブラバムがデビュー。1991年にはヤマハ製エンジンを搭載したものの、非力な上に重量が嵩みマシンバランスが悪かったことなどから総獲得ポイントは3ポイントに止まった。また、バブル景気の崩壊などから、このシーズン限りで多くの日本企業スポンサーが撤退した(当時のスポンサーは、オートバックス、住友海上火災、三越、マドラス、山善など)。
1992年には、当時全日本F3000で活躍していた中谷明彦をドライバーに起用することを発表したものの、中谷に対し国際自動車連盟(FIA)がスーパーライセンスの発給を認めなかったことから、チームは話題づくりの目的もあって代役にジョバンナ・アマティを起用。F1では珍しい女性ドライバーの参戦とあって確かに話題は集めたが、明らかに実力不足のアマティは、結局予選を1度も通過することなく、また契約不履行(指定された期日に資金を入金しなかった)で姿を消した。
その後は、アマティの後釜として加入したデーモン・ヒル(本来の日本語表記は「デイモン」)の名前繋がりで、デーモン小暮率いる聖飢魔IIをスポンサーにつけるなど、なりふり構わぬ姿勢で参戦を継続したブラバムだったが、資金難は如何ともし難く、結局ハンガリーGPをもってチームは撤退する。1993年は参戦を企図するも叶わず、結局そのままチームは消滅することとなった。
なお、最後のドライバーのデイモン・ヒルはチーム消滅の4年後の1996年にウィリアムズでワールドチャンピオンを獲得している。
[編集] 在籍した主な著名ドライバー
- ジャック・ブラバム
- ダン・ガーニー
- デニス・ハルム
- ジャッキー・イクス
- ヨッヘン・リント
- グラハム・ヒル
- カルロス・ロイテマン
- ニキ・ラウダ
- ジョン・ワトソン
- ネルソン・ピケ
- リカルド・パトレーゼ
- エリオ・デ・アンジェリス
- マーティン・ブランドル
- デイモン・ヒル