リベンジ
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リベンジとは、主にスポーツイベントで「雪辱する」の意で使われる日本語の名詞である。
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[編集] 概要
リベンジの語源は英語のrevengeで、本来の意味は「復讐」あるいは「報復」であるが、そうした個人的な恨みや復讐心と言う意味合いではなく、1度敗れた相手や敗れた事による屈辱に対して、勝利する事で「借りを返す」という独特の意味合いで使用される。対戦相手だけではなくモノゴトに対しても使用される所が、日本語としての特徴であり、旧来からある日本語「雪辱」との違いである。用語として一般に認識されるようになったのは、アメリカ合衆国のプロボクシング興行でリベンジ・マッチ(revenge-match)としてのプロモーションが行われるようになったのが発端だが、日本ではスポーツの試合以外でも幅広い意味で使われている。
現在でも「リベンジ」という言葉は格闘技系の競技で使われる事が多い。1度敗れたとしてもリターンマッチ(return match)・リマッチ(rematch)として再度試合が組まれることが多い格闘技の試合では、再戦に勝利すれば「リベンジを果たした」として再評価されるばかりでなく、観客側にとっても劇的な展開に感情移入が高まる場合が多い。逆にリベンジに失敗すると強さに対する信頼は失われる。
[編集] 歴史
[編集] アメリカのプロボクシング
1970年代のアメリカのプロボクシング界は、モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマン、レオン・スピンクスらが名勝負を繰り広げ、ヘビー級の世界戦が隆盛を極めた。特にモハメド・アリ陣営は劇的な展開になるようなプロモーションを積極的に行い、興行的価値においてリベンジ・マッチが絶大な効力を発揮するという認識がプロボクシング界で形成された。
モハメド・アリ引退後の1980年代は、多くのボクシングファンは中量級の世界戦に熱狂した。これは、長期間ヘビー級王座に君臨したラリー・ホームズの試合が概して退屈と評され、よりスピーディな試合展開を好むボクシングファンが多かったためである。1980年代の中量級は、ロベルト・デュラン、シュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、マービン・ハグラーなどが多階級制覇をめぐって激戦を繰り広げ、プロモーションの中心もヘビー級から中量級の世界戦へシフトした。
この時期になると、プロモーターのみならず多くのボクシングファンもリベンジ・マッチの醍醐味を認識するようになり、1988年11月7日にネバダ州ラスベガスのシーザーズ・パレスに於いて行われたシュガー・レイ・レナード対ドン・ラロンデのWBC世界Sミドル級、Lヘビー級タイトルマッチにおいては、revengeの名称を使用して大々的にプロモーションが行われた。
[編集] 日本
アメリカのムーブメントを受ける形で、日本で最初に「リベンジ」というカタカナ語として使われたのは1994年9月に開催された格闘技の興業「K-1リベンジ」においてである(この興業は、アンディ・フグがK-1トーナメントの直前の試合で敗れたパトリック・スミスに再挑戦するというアングルを中心に据えていた)。この興業が成功を収めたことから、日本でも「リベンジ」という言葉は格闘技やプロレスの世界で広まっていった。
「リベンジ」を格闘技・プロレス界の用語以上のものにしたのは、当時西武ライオンズの松坂大輔である。松坂は4月21日の対ロッテ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で惜敗したが、その後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日の対ロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録し、見事にリベンジを果たした。松坂が用語としての「リベンジ」を広く一般に認識させたことから、1999年に第16回新語・流行語大賞の受賞者に選ばれた。
[編集] 主なリベンジ・マッチ
※「リベンジ」という言葉が生まれる前のものも含む。
- 初顔合わせで69連勝を止められた「世紀の一番」の後は双葉の9連勝。「誰に対しても変わらない相撲を取る双葉関が、自分に対してだけは特別な感情があるようだった」と安藝ノ海の言葉が残る。
- 水原の監督就任のために巨人を追われた三原は福岡の地で西鉄ライオンズをパシフィック・リーグの王者にきたえあげ、日本シリーズで水原巨人に3連勝(1956年から1958年)、さらに1960年には大洋ホエールズ監督として同じセントラル・リーグで巨人をおさえて優勝を果たした。
- 学生野球時代から数々の因縁を持つ両者の争いは、「野球版巌流島の決闘」と称された。
- モハメド・アリのジョー・フレージャーとの第2戦、第3戦(スリラー・イン・マニラ)。ケン・ノートンとの第2戦、レオン・スピンクスとの第2戦。
- 桜庭和志のヴァンダレイ・シウバとの第2戦、第3戦、第4戦。