水原茂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水原 茂(みずはら しげる、1909年1月19日 - 1982年3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手・プロ野球監督。旧制高松商業学校(現高松商業高校)出身。現役時代は東京巨人軍で活躍し、引退後は巨人、東映、中日の監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝いた名将。1955年~1959年のシーズンは「水原円裕(のぶしげ)」の登録名を使用した。
目次 |
[編集] 来歴・人物
香川・旧制高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩・宮武三郎投手(のちのプロ野球チーム・阪急の初代主将)とともに甲子園に出場。投手・三塁手として名をはせる。甲子園では1925年夏と1927年夏の2回、全国優勝を達成している。水原と宮武はともに慶應野球部に進み、チームメートとして、また、先輩・後輩の関係が続く。慶應義塾大学時代は六大学野球のスター選手(三塁手、投手)として人気を博し、春秋通算で5度のリーグ優勝。しかし、「リンゴ事件」の責任を取って退部。ユニフォームの着こなしから立ち振る舞いまで全てに洗練された、典型的な慶應ボーイだった。
特に早稲田・三原脩とは、プロに進んで以降もライバルであり、ともに監督として日本シリーズを戦うなど、多くの野球ファンを沸かせることになる。特に1956年から1958年にかけて、3年連続で水原率いる巨人と、三原率いる西鉄が日本シリーズで対戦、「巌流島の対決」と呼ばれた(詳細は後述)。
水原は、1931年と1934年の大リーグ選抜来日時には全日本チームのメンバーに選ばれた。1936年秋に東京巨人軍に入団し、名三塁手として活躍。1942年を最後に応召してアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年7月20日に帰国。4日後に後楽園球場で巨人対大映戦の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました。」の名言と共に帰還をファンに報告する。2リーグに分裂した1950年から巨人監督。1951年~1953年リーグ3連覇・日本一。「勝負師」の異名をとる。
1年おいて1955年~1959年リーグ5連覇。しかし、1956年・1957年と日本シリーズで因縁の三原脩(西鉄監督)と対決するも惜敗。3度目の対決となった1958年は3連勝するも、稲尾和久投手の4連投4連勝に屈した。1960年三原が監督に就任した大洋に6年連続最下位からの優勝を許し、巨人監督を勇退。1961年から1967年まで東映監督を務め、1962年にはチームを初のパ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇に導き、セパ両リーグの優勝監督となった。1969年から1971年まで中日監督を務め、1974年の優勝の土台をつくった。1977年野球殿堂入り。後年は野球解説者・野球評論家としても活躍。
1982年3月26日、肝不全のため死去。享年73。葬儀は、1947年に腸チフスで現役中に急逝し背番号4が永久欠番となった黒沢俊夫外野手に次ぐ史上2人目の巨人の球団葬として行われた。
[編集] タイトル・表彰
[編集] 通算成績
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | 昭和25年 | 3位 | 140 | 82 | 54 | 4 | .603 | 126 | .268 | 2.90 | 41歳 | 巨人 |
1951年 | 昭和26年 | 1位 | 114 | 79 | 29 | 6 | .731 | 92 | .291 | 2.62 | 42歳 | |
1952年 | 昭和27年 | 1位 | 120 | 83 | 37 | 0 | .692 | 77 | .292 | 2.45 | 43歳 | |
1953年 | 昭和28年 | 1位 | 125 | 87 | 37 | 1 | .702 | 80 | .283 | 2.48 | 44歳 | |
1954年 | 昭和29年 | 2位 | 130 | 82 | 47 | 1 | .636 | 88 | .271 | 2.38 | 45歳 | |
1955年 | 昭和30年 | 1位 | 130 | 92 | 37 | 1 | .713 | 84 | .266 | 1.75 | 46歳 | |
1956年 | 昭和31年 | 1位 | 130 | 82 | 44 | 4 | .646 | 100 | .258 | 2.08 | 47歳 | |
1957年 | 昭和32年 | 1位 | 130 | 74 | 53 | 3 | .581 | 93 | .241 | 2.39 | 48歳 | |
1958年 | 昭和33年 | 1位 | 130 | 77 | 52 | 1 | .596 | 101 | .253 | 2.37 | 49歳 | |
1959年 | 昭和34年 | 1位 | 130 | 77 | 48 | 5 | .612 | 117 | .245 | 2.54 | 50歳 | |
1960年 | 昭和35年 | 2位 | 130 | 66 | 61 | 3 | .519 | 106 | .229 | 3.09 | 51歳 | |
1961年 | 昭和36年 | 2位 | 140 | 83 | 52 | 5 | .611 | 108 | .264 | 2.39 | 52歳 | 東映 |
1962年 | 昭和37年 | 1位 | 133 | 78 | 52 | 3 | .600 | 85 | .252 | 2.42 | 53歳 | |
1963年 | 昭和38年 | 3位 | 150 | 76 | 71 | 3 | .517 | 114 | .236 | 3.02 | 54歳 | |
1964年 | 昭和39年 | 3位 | 150 | 78 | 68 | 4 | .534 | 100 | .250 | 2.95 | 55歳 | |
1965年 | 昭和40年 | 2位 | 140 | 76 | 61 | 3 | .555 | 107 | .240 | 2.88 | 56歳 | |
1966年 | 昭和41年 | 3位 | 136 | 70 | 60 | 6 | .538 | 91 | .256 | 2.75 | 57歳 | |
1967年 | 昭和42年 | 3位 | 134 | 65 | 65 | 4 | .500 | 97 | .260 | 3.19 | 58歳 | |
1969年 | 昭和44年 | 4位 | 130 | 59 | 65 | 6 | .476 | 145 | .231 | 3.11 | 60歳 | 中日 |
1970年 | 昭和45年 | 5位 | 130 | 55 | 70 | 5 | .440 | 118 | .234 | 3.20 | 61歳 | |
1971年 | 昭和46年 | 2位 | 130 | 65 | 60 | 5 | .520 | 127 | .226 | 2.97 | 62歳 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1953年から1960年、1962年、1966年から1996年までは130試合制
- ※3 1961年、1965年のみ140試合制
- ※4 1963年から1964年までは150試合制
[編集] エピソード
- 1931年6月14日の早慶戦2回戦で三原脩が満場の度肝を抜くホームスチールを成功させた。このときの投手が水原である。
- 1949年オフに巨人の監督に就任したのはこの年チームを戦後初優勝に導いた三原脩監督が総監督に棚上げ(注:三原は1947年に総監督という肩書でチームに復帰しているが名目上の監督は1946年復帰から就任していた中島治康内野手。しかし復帰年の途中から公式戦の指揮は三原が執っていた。)されたからだがこれは三原の水原への扱いに対して不満を持っていた選手の大半がクーデターを起こして棚上げさせたというのが定説となっている。ちなみに水原はこの謀議にはかかわっておらず「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任に反対していたという。(詳細は幻の連番状事件を参照)
- ただしこの時の監督交代劇があったため、マスコミはこぞって三原との日本シリーズでの対決を「巌流島の対決」と書き立てた。先述の早慶戦ホームスチールの一件もあって、マスコミには格好の宿敵として両者が映ったわけである。この3回の対決、なかでも1958年は日本シリーズ史上屈指の対決といわれるほどに激戦の連続となった。
- 2年連続敗れた雪辱を期そうと水原巨人が3連勝。ここで展開はもつれ始める。明け方まで降り続いた雨のために第4戦は中止。しかし試合開始前に雨は上がっており試合に耐えるグラウンドコンディションだったという。九州各地からバスで観戦に向かうファンたちに配慮しての中止決定とする西鉄側を巨人と水原は執拗に抗議したが認められなかった。
- その第4戦を落としたものの第5戦は9回表を終わって1点のリード。しかしその裏西鉄の代打小渕の三塁線へのきわどい打球を塁審二出川延明がフェアと判定したことに水原・三塁手長嶋茂雄はファウルだと猛抗議、結局判定は覆らずその後同点、延長10回に稲尾和久のサヨナラ本塁打(シリーズ史上初)で試合を落としてしまった。
- さらに第6戦開始前に西鉄が先発メンバーの変更を突如申し出(当時は前日に先発メンバーを発表)、これを巡って両軍はまたももめた。井上登コミッショナーを挟んで悠然と座る三原と苦虫をかみつぶしたような表情の水原が対峙する写真が残っている。この騒ぎで試合開始が遅れ、調整に混乱させられた先発藤田元司が初回に中西太に決勝打となる先制2ランを浴びこの試合も敗れ、ついに西鉄に史上初の3連敗4連勝を許す屈辱を味わってしまった。
- 黒とオレンジのチームカラーは水原の監督就任4年目にあたる1953年から登場した。さらに、V9時代・第1次長嶋監督時代・第1次藤田監督時代・王監督時代まで30年の長きにわたり使用されたホーム用のクリーム色(当初はカラーTV用ユニフォーム)は水原の巨人監督最後の年、1960年に登場した(V9時代から第2次藤田監督時代まで32年間使用されたビジター用のライトブルーは水原退任後の1961年から登場)。
- 1965年頃東映の監督として韓国遠征を戦っていた。あるゲームで大杉勝男が韓国のノンプロチームをひいきする地元審判の露骨なジャッジに腹を立てて悪態をついたのを見るや大杉を呼びつけるなりビンタを飛ばした。これを見た韓国の観客は指揮官の行動に涙し信服したという。
- 東映監督時代のユニフォームデザインは巨人ユニフォームと全く同じ色使い(ただしベースの色は巨人が黒・東映は焦げ茶)、デザイン(水原がすべてデザイン)であったため、客は「巨人の水原じゃないか?」と見間違えた。
- 1971年の公式戦終了とともに中日監督を辞任し、ユニフォーム生活に別れを告げた水原の監督最終日の第一試合の相手は終世のライバル・三原率いるヤクルトだった。この試合に水原中日は勝利し1971年の対ヤクルト戦成績を12勝12敗2分の五分とした。第二試合の大洋戦終了後、水原はナインから胴上げされた。
- 評論家時代の1978年10月、テレビ朝日のニュース番組で、優勝を逃した巨人につき「敗因は長嶋の采配ミスにある。今年の長嶋の野球を見ていると、彼は野球を知らないのではないかと思える」と発言し、それまでタブー視されていた長嶋批判を初めて行った。
- 日本にブロックサインを持ち込んだ最初の人といわれる。
[編集] 関連項目
|
|
|
|
|
- ※カッコ内は監督在任期間。
カテゴリ: 日本の野球選手 | 慶應義塾大学野球部の選手 | 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 | 北海道日本ハムファイターズ関連人物 | 中日ドラゴンズ | 野球監督 | 野球殿堂 | 野球解説者 | 香川県出身の人物 | 1909年生 | 1982年没