ロマーリオ
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ロマーリオ・デ・ソウザ・ファリア(Romário de Souza Faria、1966年1月29日 - )は、ブラジル出身のサッカー選手。ポジションはフォワード 。
1980年代後半~90年代を代表するストライカーのひとりであり、サッカーブラジル代表チームおよび各国のクラブチームで活躍した。
ワールドカップには1990年イタリア大会と1994年アメリカ大会に出場した。(ブラジル代表デビュー戦:1987年5月23日 対アイルランド戦)
問題児としても有名で、ホテルの窓から観光客に向かって小便をしたり、野次を飛ばしたファンに殴りかかったりと逸話は数知れず。一時期は問題児として名高いエジムンドと「バッドボーイズ」を形成した。性格に難があることは自分でも自覚しているようで、「自分が監督なら関わりたくない存在」と発言している。しかし、その気質が愛されてかブラジル国民からの人気は高い。
その存在感を示す逸話として、優勝した1994年アメリカワールドカップの南米予選が挙げられる。ロマーリオは「ミューレルとは一緒にプレーしたくない」と公然とチームメイトを批判し、代表から外されてしまう。しかし、チームは予想外の苦戦を強いられ、見兼ねたロマーリオは「オレを召集したら次の試合で必ず2点取る」と公言、その通りに復帰戦であるウルグアイ戦で2点を決め、ブラジルを予選突破に導いた。このような彼の有言実行ぶりは、熱狂的なファンを生んだ。
また、この1994年ワールドカップ前には移動の飛行機内でミューレルの隣の席を拒否した。
国内外の強豪クラブを渡り歩き、スペイン・バルセロナ在籍時の1993-1994シーズンは出場33試合で30ゴールという驚異的な決定力を発揮して得点王を獲得し、チームをリーグ優勝に導いた。そのあまりに常人離れしたプレーぶりから相手チームの監督からは「アニメの世界の住人だ」と評された。とりわけハット・トリックを達成した94年1月の対レアル・マドリード戦で奪った見事な先制ゴールは「牛の尻尾」と呼ばれ今でも現地のファンの間では語り草となっている。
2004年にフルミネンセに解雇されたが、自らがデビューしたCRヴァスコ・ダ・ガマに移籍。2005年ブラジル全国選手権で22得点を決め、得点王に輝いた。2005年末までの現役続行の予定だったが、米国下位リーグのマイアミFCに移籍し、現役を続けることになった。マイアミでは19得点を上げ、リーグの得点王になる活躍を見せた。その後、オーストラリアAリーグのアデレード・ユナイテッドに、リーグ戦4試合限定の「ゲストプレーヤー」として移籍する事が決定。前所属のマイアミFCとの親善試合なども契約に含まれている。
2007年から再び古巣のヴァスコ・ダ・ガマに復帰。1年間の内に3度移籍をしてはいけないというFIFAの規定によってFIFA側はその移籍を正式には認めていなかったが、ヴァスコ・ダ・ガマは「アデレード・ユナイテッド在籍は『招待』であり『移籍』ではない」と言う主張を掲げチームに帯同させ、試合にも出場させている。ちなみに、その復帰初戦では10分間でハットトリック達成の離れ業を演じている。
なお、ロマーリオは現役生活で通算999ゴールを挙げている(2007年4月現在)と主張しており、1000ゴールを達成するまでは現役を続けるものと予想されている。
本人曰く、プライベートでも仲が良かったのはバルセロナのチームメイトであったフリスト・ストイチコフと、ブラジル代表でチームメイトだったドゥンガ。特にドゥンガに関しては、「代表に召集されればいつでも行く」とコメントしている。逆に仲が悪かったのはブラジル代表のチームメイトであったミューレルとベベット。ベベットに対しては「彼とはピッチの外では友達とはいえない」と発言している。
[編集] プレースタイル
168cmと小柄ではあるが、その卓越したテクニックとポジショニング、ゴール前での冷静な判断力でゴールを挙げる。シュート時の脚力そのものは特別強くはないが、その独特のタイミングで相手ゴールキーパーにシュートコースを読ませない。またそのタイミングの取り方はドリブル突破時にも威力を発揮し、かつてFCバルセロナ時代の監督ヨハン・クライフは「ロマーリオは止まった状態からでも30センチのスペースがあれば相手を抜ける、こんな選手ははじめて見た」と評した。
特に1994年のワールドカップアメリカ大会で挙げた全5ゴールは、いずれも屈強な守備の一瞬の隙をついた、彼らしいものだった。特にオランダ戦における、ゴール左前からディフェンスラインの裏へ抜け出し、右足のアウトサイドキックで逆サイドのネットを揺らしたゴールは、オランダGKエド・デ・フーイを完全に出し抜いていた。「天才」であるが故の傲慢さから、どんなプレッシャーもものともしない精神力でワールドカップの大舞台でもそのプレースタイルは変わることはなかった。
かのディエゴ・マラドーナも自著の中で「類まれなストライカーであり、過去の全ての世代をかき集めたオールスターイレブンを作るとしても迷うことなく名前を入れる」と述べている。
[編集] 所属クラブ
- 1978年 - 1980年 オラーリアAC(ブラジル)
- 1980年 - 1988年 CRヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)
- 1988年 - 1993年 PSVアイントホーフェン(オランダ)
- 1993年 - 1995年 FCバルセロナ(スペイン)
- 1995年 - 1996年 フラメンゴ(ブラジル)
- 1996年 - 1996年 バレンシアCF(スペイン)
- 1997年 - 1999年 フラメンゴ
- 2000年 - 2002年 CRヴァスコ・ダ・ガマ
- 2003年 - 2003年 フルミネンセ (ブラジル)
- 2003年 - 2003年 アル・サード(カタール)
- 2003年 - 2004年 フルミネンセ
- 2005年 - 2006年 CRヴァスコ・ダ・ガマ
- 2006年 - 2006年 マイアミFC(アメリカ合衆国)
- 2006年 - 2006年 アデレード・ユナイテッド(オーストラリア)
- 2007年 - 現 在 CRヴァスコ・ダ・ガマ
[編集] FIFAワールドカップでの活躍
ロマーリオのワールドカップは1990年のイタリア大会から始まった。イタリア大会ではカレッカ、ミューレルなどのライバルにポジションを奪われ、出場機会に恵まれなかった。
1994年のアメリカ大会では、5得点を上げてブラジルの4度目の優勝に大きく貢献。同大会のMVPと同年のFIFA最優秀選手に選出され、スター選手の地位を不動のものにした。
1998年のフランス大会は直前の怪我のために出場できなかった。ブラジル代表は決勝でエース・ロナウドの不調が響き、フランスに3-0で破れ準優勝。
2002年の日韓共催ワールドカップでは、南米予選の後半で低迷するチームを救う救世主となるも、本大会のメンバー選考でルイス・フェリペ・スコラーリ監督の構想から外れた。落選を知ったロマーリオは、記者会見の場でで人目をはばからず涙した。
2004年、代表チームからの引退を表明。
先代: ロベルト・バッジョ |
FIFA最優秀選手 1994 |
次代: ジョージ・ウェア |
先代: ハビエル・サビオラ |
南米年間最優秀選手 2000 |
次代: フアン・ロマン・リケルメ |
ブラジル代表 - 1994 FIFAワールドカップ 優勝メンバー(4度目) | ||
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1 タファレル | 2 ジョルジーニョ | 3 R.ローシャ | 4 ロナウド | 5 マウロ・シルバ | 6 ブランコ | 7 ベベット | 8 ドゥンガ | 9 ジーニョ | 10 ライー | 11 ロマーリオ | 12 ゼッチ | 13 アウダイール | 14 カフー | 15 マルシオ・サントス | 16 レオナルド | 17 マジーニョ | 18 パウロ・セルジオ | 19 ミューレル | 20 ロナウジーニョ | 21 ヴィオラ | 22 ジウマール | 監督: パレイラ |
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