レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ
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レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ(Leonardo Nascimento de Araùjo 1969年9月5日 - )はブラジル出身のサッカー選手、サッカー関係者。
17歳でプロのキャリアをスタートし、フラメンゴ、鹿島アントラーズ、ACミランなどでプレー。レオの愛称で親しまれた。ブラジル代表としては、1994年、1998年と2度のワールドカップに出場し、優勝と2位を経験した。2003年に現役を引退後はACミランの副会長補佐を務めた。
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[編集] 来歴
1987年、フラメンゴでプロデビュー。その後バレンシアを経てサンパウロFCへ移籍。第14回トヨタカップではトニーニョ・セレーゾのゴールをアシストし、クラブ世界一に貢献した。
1994年、ワールドカップ(W杯)アメリカ大会では左サイドバックとしてプレー。決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦でのプレーが相手選手顔面への肘打ちと判定され、退場および4試合の出場停止処分となったため決勝の舞台には立てなかったが、卓越したテクニックで観衆を魅了した。クラブの面では、大会前にフラメンゴ時代の偉大な先輩であるジーコから誘われ、鹿島アントラーズに入団。Jリーグ通算49試合出場で30得点という成績を残した。
1996年、フランスの名門パリ・サンジェルマンに移籍、パリで1年程プレーした後、ACミランに入団。1998年-1999年シーズンでは股関節炎によりフル出場とはいかなかったが、27試合12得点を記録し、リーグ制覇に大きく貢献した。
1998年W杯フランス大会では全試合に出場。しかし決勝で、地元フランスの前に0-3の敗戦を喫する。
4年間のイタリアでのプレーの後、ブラジルに帰国。その後1度は現役を引退するものの、ベルルスコーニ会長、ガッリアーニ副会長からの要望により、2002年10月にACミランの選手として現役に復帰する。
2003年4月に再度引退するが、副会長補佐としてミランに籍を残し、カカの獲得などに尽力する。その後、2003年にACミランの出資により設立された慈善財団ファンダツィオーネ・ミランのゼネラルセクレタリーを務める[1]かたわら、テレビ解説者としてもサッカー界に関わる。
[編集] アラカルト/エピソード
- 1994年アメリカW杯では、出場停止処分により大会最後まで出場できなかった事を悔やみ、4年後のW杯で優勝することを心に誓った。しかし、その1998年フランスW杯では決勝でフランスに敗戦。前半のみの出場となったが、終了間際にベンチで見せた涙が悔しさを物語った。
- 鹿島時代、3回のリフティングでディフェンダーを振り切った末のダイレクトシュートは神業シュートと語り草となっている。
- 1996年パリ・サンジェルマンから移籍の話が舞い込み、サッカー選手として移籍したい気持ちがありながら、鹿島を離れ難い心境からジーコに相談。ジーコはその気持ちを察し、レオナルドの将来を考え移籍を勧めた。7月、カシマサッカースタジアムでの退団セレモ二ーでは彼自身が言葉にならない程号泣、日本語で「感動をありがとう!」と言い残し人々に感銘を与えた。
- ACミランでの4年間の後、ブラジル帰国を決めた2001年、ミラノでのホーム最終戦では、選手全員に「ありがとう、レオ」のTシャツを着て送り出された。
- 2005年頃、右腕に日本語で「全てに感動を」というタトゥーを入れた。「これで本当に日本とつながっている気がする」と語っている[2]。
[編集] 所属チーム
- 1984年-1987年 - フラメンゴ ユース(若年代)チーム (以降ブラジル)
- 1987年-1989年 - フラメンゴ
- 1990年-1991年 - サンパウロ
- 1991年-1993年 - バレンシア (スペイン)
- 1993年 - サンパウロ (ブラジル)
- 1994年-1996年 - 鹿島アントラーズ (日本)
- 1996年-1997年 - パリ・サンジェルマン (フランス)
- 1997年-2001年 - ACミラン (イタリア)
- 2001年 - サンパウロ (以降ブラジル)
- 2001年-2002年 - フラメンゴ
- 2002年-2003年 - ACミラン (イタリア)
[編集] 経歴
[編集] 個人成績
- 1987年-1990年 - フラメンゴ - 168試合7得点
- 1990年-1991年 - サンパウロ - 40試合1得点
- 1991年-1993年 - バレンシア - 71試合6得点
- 1993年-1994年 - サンパウロ - 15試合3得点
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1994年 | 鹿島 | J1 | - | 9 | 7 | - | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1995年 | 鹿島 | J1 | - | 28 | 17 | - | - | 3 | 1 | ||
1996年 | 鹿島 | J1 | - | 12 | 6 | - | 10 | 5 | - | ||
通算 | 49 | 30 | - | 10 | 5 | 4 | 1 |
- 1996年-1997年 - パリ・サンジェルマン - 32試合7得点
- 1997年-2001年 - ACミラン - 96試合22得点
- 2001年-2002年 - サンパウロ - 12試合0得点
- 2002年-2003年 - フラメンゴ - 8試合3得点
- 2003年 - ACミラン - 1試合0得点
[編集] 出場大会
- 1993年 - トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ (優勝)
- 1994年 - FIFAワールドカップ アメリカ大会 (優勝)
- 1997年 - コパ・アメリカ (優勝)
- 1997年 - FIFAコンフェデレーションズカップ (優勝)
- 1998年 - FIFAワールドカップ フランス大会 (2位)
[編集] 代表歴
- 1994年 - FIFAワールドカップブラジル代表
- 1998年 - FIFAワールドカップブラジル代表
[編集] 関連情報
[編集] 執筆書籍
- 『レオナルド自伝 - いつも感動とともに』、1999年、ビクターエンタテインメント、ISBN 4893891596
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ファンダツィオーネ・ミラン公式サイト (イタリア語)
[編集] 参考文献
- Leonardo Araújo 112223182版、 2007年3月3日 01:58 (UTC)、ウィキペディア英語版
- Leonardo Nascimento de Araujo 6774722版、 2007年2月4日 20:57 (UTC)、ウィキペディア イタリア語版
[編集] 脚注
- ^ 出典:Leonardo, a legend with big plans and high ideals 、 2005年4月25日付、 FIFA.com
- ^ 出典:「元鹿島レオナルド氏が代表分析、オシム日本飛躍のカギはJの活性化」、 2006年11月1日 06時02分付、『スポーツ報知』
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ブラジル代表 - 1994 FIFAワールドカップ 優勝メンバー(4度目) | ![]() |
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1 タファレル | 2 ジョルジーニョ | 3 R.ローシャ | 4 ロナウド | 5 マウロ・シルバ | 6 ブランコ | 7 ベベット | 8 ドゥンガ | 9 ジーニョ | 10 ライー | 11 ロマーリオ | 12 ゼッチ | 13 アウダイール | 14 カフー | 15 マルシオ・サントス | 16 レオナルド | 17 マジーニョ | 18 パウロ・セルジオ | 19 ミューレル | 20 ロナウジーニョ | 21 ヴィオラ | 22 ジウマール | 監督: パレイラ |
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ブラジル代表 - 1998 FIFAワールドカップ | ![]() |
---|---|---|
1 タファレル | 2 カフー | 3 アウダイール | 4 ジュニオール・バイアーノ | 5 サンパイオ | 6 ロベルト・カルロス | 7 ジオヴァンニ | 8 ドゥンガ | 9 ロナウド | 10 リバウド | 11 エメルソン | 12 カルロス・ジェルマーノ | 13 ゼ・カルロス | 14 ゴンサウヴェス | 15 アンドレ・クルス | 16 ゼ・ロベルト | 17 ドリヴァ | 18 レオナルド | 19 デニウソン | 20 ベベット | 21 エジムンド | 22 ヂーダ | 監督: ザガロ |
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