三浦環
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
三浦 環(みうら たまき、1884年(明治17年)2月22日 東京府 - 1946年(昭和21年)5月26日)は日本の、おそらく最初に国際的な名声をつかんだオペラ歌手。国際的には、十八番であった、プッチーニの《蝶々夫人》の「蝶々さん」と重ね合わされて有名だった。元の名は柴田環(しばた たまき)、次いで藤井環(ふじい たまき)といった。
芝で公証人の柴田猛甫を父に、永田登波を母に生まれる。1900年に東京音楽学校に進み、ピアノを滝廉太郎に師事。1903年に日本人による最初のオペラ上演に(《オルフェオとエウリディーチェ》のエウリディーチェ役として)出演する。1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務。この間に山田耕筰らを指導したと言われる。1911年に帝国劇場に所属し、翌年よりプリマドンナとして活躍を続ける。1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第1次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。
1915年の英国デビューの成功を受けて1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。好意的な批評によって、その後《蝶々夫人》やマスカーニの《あやめ》をニューヨークやサンフランシスコ、シカゴで演ずることができた(三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である)。その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年にアメリカ合衆国に戻り、《蝶々夫人》とメサジェの《お菊さん》を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマの歌劇場に客演する。1922年に帰国すると長崎に留まり、《蝶々夫人》とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園に建っている。
1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。1924年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された《舞妓さん》を初演する。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはパレルモで《蝶々夫人》出演2000回の記録を達成した。1936年についに帰国し、歌舞伎座で《蝶々夫人》の上演に取り組んだが、やがて第2次世界大戦の勃発により音楽活動を禁じられると、山中湖に母親を連れて移住し、その地で戦火を逃れて静かな余生を送った。
作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演技で評価された。少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができたといわれている。その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーやヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共演する機会に恵まれた。声質は様々に言い伝えられており、「どこかか細く頼りなかった」とするものや、「どちらかといえば声量は少なかったが透明感があった」とするものがある。著名な門弟に関屋敏子がいる。
[編集] 参考書籍
- New Grove Dictionary of Opera Vol.3, NY: Macmillan 1972.
- Michael Scott, The Record of Singing, Vol.2 1914-1925, London: Duckworth 1979.