中野寛成
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中野 寛成(なかの かんせい、1940年(昭和15年)11月26日 ‐ )は、日本の政治家。前衆議院議員(10期)。
衆議院副議長(71代)、民社党書記長、新進党政策審議会長、新党友愛代表、民主党幹事長などを歴任した。
生年月日 | 1940年(昭和15年)11月26日 |
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出生地 | 長崎県長崎市 |
出身校 | 関西大学法学部卒業 |
学位・資格 | 法学士 |
前職・院外役職(現在) | 衆議院議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
‐ |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
大阪8区 |
当選回数 | 10回 |
所属党派(現在) | 民主党(川端グループ) |
党役職(現在) | 大阪府総支部連合会特別代表 大阪府第8区総支部代表 |
会館部屋番号 | ‐ |
ウェブサイト | [ ‐] |
[編集] 概要
長崎県長崎市生まれ。1963年に関西大学法学部を卒業。大学在学中から民社党に入党し、大学卒業後、民社党大阪府連に務める。1965年大阪府豊中市議会議員選挙に立候補し当選する。
1976年、第34回衆議院議員総選挙に民社党公認で立候補し初当選。以後、連続10回当選を数えた。民社党では、党国会対策委員長、政策審議会長などを歴任し、1993年に成立した細川連立内閣では、党の政策責任者として連立与党の政策幹事会のメンバーとして、政策の立案、調整に当たった。1994年に米沢隆委員長の下、党内NO.2の書記長に就任。同年12月、新進党に参加し、党三役の一つ、政策審議会長に就任した。
1996年8月には党国対委員長に就任。しかし、新進党は旧党派の違いを解決することができず、旧民社党議員も党内グループとして民友会を組織した。保保連合、次いで純化路線を取る小沢一郎によって新進党は解体し、旧民社党グループは、1998年に中野を代表とする新党友愛を結成。同年4月に新党友愛は、民政党、民主改革連合とともに民主党に合流した。
1999年、民主党政策調査会長に就任する。2002年9月の民主党代表選挙で中野の率いる旧民社党グループは鳩山由紀夫を支持し、中野は代表選挙後、幹事長に就任するが、これは完全に裏目に出て論功行賞として批判を浴び、すぐに辞任に追い込まれた。
2003年11月には渡部恒三の後任として、衆議院副議長に選出された。2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、大阪8区及び比例近畿ブロックから重複立候補したものの、自民党大勝の煽りを受け、落選。同月26日、後援会事務所職員が公職選挙法違反の容疑で逮捕された。容疑者は、前回2003年の衆議院議員選挙時の選挙違反で公民権が停止されていたにもかかわらず、選挙運動を行っていた。
駄洒落好きで知られる。国会コーラス愛好会会長としても有名。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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