丹波亀山藩
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亀山藩(かめやまはん)は江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため徳川幕府から特に重要視された。藩庁は亀山城。
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[編集] 概要
明智光秀は織田信長より丹波攻略を復命するとまず亀山盆地に進出、1577年に亀山城を築いて入部したのが亀岡の近世的な始まりという。1579年に丹波平定が成ると光秀は近江滋賀郡・丹波一国の領有を許された。但し、光秀は1577年~82年の間に丹波一国に亀山、横山(福知山)、周山の三城を新たに築いており、亀山城を居城としたかには疑問がある。
1583年に羽柴秀吉が織田家の主導権を握ると、亀山城は信長四男の羽柴秀勝(於次)が入城する。彼が幼少で死ぬと、秀吉の子・羽柴秀勝(小吉)が代わる。その後、1590年に徳川家康のあとを秀勝が甲斐に入部すると、さまざまな武将が短期間で入れ替わりした。羽柴秀秋(小早川秀秋)もその一人である。
1595年に京都代官・前田玄以が亀山城に入る。関が原では前田玄以はやむを得ず西軍に加わったために家康より所領安堵を受ける。1602年5月、前田玄以が死ぬと亀山城付近は天領となる。1609年徳川家康の信頼の厚い岡部長盛が亀山城主となり、本格的な藩体制が始まった。彼が亀山城に入ったのは大坂対策の一つでもある。1610年西国大名を総動員し亀山城の築城が始まる。1621年には松井松平の松平成重が亀山城主となる。以後、1634年菅沼定芳、1648年藤井松平の松平忠晴、1685年久世重之、1697年井上正岑、1702年青山忠重と続く。いずれも譜代大名で原則的には一代限りの領有であった。これも1749年に形原松平氏の松平信岑が亀山城主となると、以後はこの家系が代々亀山藩主となった。1869年戊辰戦争。亀山藩は山陰鎮撫使に降伏。1869年、亀岡藩と改称。1871年、亀岡県。同年11月に京都府に吸収される。
[編集] 歴代藩主
[編集] 岡部家
譜代 3万2千石 (1609年 - 1621年)
- 長盛〔従五位下、内膳正〕
[編集] 松平(大給)家
譜代 2万2千石 (1621年 - 1634年)
[編集] 菅沼家
譜代 4万1千石 (1634年 - 1648年)
[編集] 松平(藤井)家
譜代 3万8千石 (1648年 - 1685年)
[編集] 久世家
譜代 5万石 (1685年 - 1697年)
- 重之〔従四位下、大和守・侍従〕
[編集] 井上家
譜代 4万7千石 (1697年 - 1702年)
- 正岑〔従四位下、河内守・侍従〕
[編集] 青山家
譜代 5万石 (1702年 - 1749年)
- 忠重〔従五位下、因幡守〕
- 俊春〔従五位下、因幡守〕
- 忠朝〔従五位下、因幡守〕
[編集] 松平(形原)家
譜代 5万石 (1749年 - 1871年)
- 信岑〔従四位下、紀伊守〕
- 信直〔従五位下、紀伊守〕
- 信道〔従五位下、紀伊守〕
- 信彰〔従五位下、紀伊守〕
- 信志〔従五位下、紀伊守〕
- 信豪〔従五位下、紀伊守〕
- 信義〔従四位下、紀伊守・侍従〕
- 信正〔従五位下、図書守〕