松平忠晴
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松平 忠晴(まつだいら ただはる、慶長3年(1598年) - 寛文9年3月23日(1669年4月23日))は、駿河田中藩主。遠州掛川藩主。丹波亀山藩の初代藩主。父は松平信吉(忠晴は次男)。母は松平信一の娘。同母兄に松平忠国。正室は杉原長房の娘が浅野長晟の養女として入輿。官位は従五位下、伊賀守。
慶長3年(1598年)、下総国布川にて生まれる。徳川秀忠から一字をもらって忠晴と名乗った。元和元年(1615年)に叙任される。元和5年(1619年)に常陸国で土浦藩3万5千石の内から2000石を父・松平信吉から分知される。寛永10年(1633年)、家光将軍の頃、書院番士を皮切りに奏者番など務めあげた。その働き振りを評価され、安房国に2千石、下総国に1千石を与えられた。土浦の知行も保持していたため、総石5千石である。そして寛永19年(1642年)8月には駿河田中藩において2万5000石の大名となった。
寛永21年(1644年)3月に遠州掛川に移封されたが、この年には男子・千太郎を授かっている。正保5年(1648年)閏正月には8000石加増の上で丹波亀山に移封された。同年8月には、近藩・丹波福知山藩主の稲葉紀通による乱心騒動にともない、城地受け取りの任を受けた。なお、月は判らないが、この年に正室を江戸藩邸で失っている。長晴院と贈り名された正室だったが、忠俊と名乗る男子を含め、子女2人を儲けた。
万治4年(1661年)4月、丹波亀山において、千太郎の異母弟・与十郎が誕生。生母は側室・木村氏(家臣の娘)。
寛文7年(1667年)、千太郎、長じて松平忠昭を嗣子、順養子・与十郎(のちの松平忠周)という幕府への願い出に対し、ようやく認可が下りた。忠晴は御礼の進物を将軍家、老中たちへ献上している。そして、同年の閏2月9日、次男の忠昭に家督を譲って隠居し、忠山と号した。
寛文9年(1669年)3月23日に72歳で死去。法号:良光忠山善徳院。墓所:京都府京都市左京区の光明寺。
長男・忠昭は忠晴死去の際、江戸出府の途上にあったため、丹波亀山から松宮新五左衛門が馬を飛ばし、伊勢で追い着いて上申。訃報を知った行列は急遽、引き返したという。
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